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竹内好の軌跡

竹内好年譜 1966年~1980年

ここに表示する「竹内好年譜」は『竹内好全集』第17巻所収のものを、一部の誤植を訂正することを条件に、制作者久米旺生さんに掲載の了解をいただきました。
「竹内好を記録する会」での作業のために、使用する検索ソフトに合わせた加工を施してありますが、内容は同じです。 

1910年~1930年 1931年~1950年
1951年~1965年 1966年~1980年

『竹内好全集』所収「年譜」より
西暦 和暦 事項
1966 昭和41 56歳
1966 昭和41 この年、雑誌『中国』第26号~37号を編集し、毎号「中国を知るために」を連載した。
1966 昭和41 中国の会の研究会を7回開催。
1966 昭和41 3 訳書『世界文学全集19、魯迅』。
1966 昭和41 3 13 部落問題研究所を脱会。
1966 昭和41 3 19 憲法問題研究会。
1966 昭和41 4 竹内好評論集第三巻『日本とアジア』。
1966 昭和41 4 「緊急の報告と提案――『魯迅逝世三十年記念会』について」を『魯迅友の会会報』36号に寄稿。
1966 昭和41 4 本稿は「魯迅逝世三十年記念会」(代表世話人亀井勝一郎、日本中国文化交流協会内)に反対を表明したもの。この行事は中国の文化大革命によって立ち消えとなった。
1966 昭和41 4 「日本中国文化交流協会」脱会。
1966 昭和41 4 3 六四会に初参加(同会は駒田信二、木山捷平、小田嶽夫らのいた囲碁同好会。以後、毎月の例会に出席)。
1966 昭和41 4 13 尾崎秀樹『大衆文学論』芸術選奨受賞祝賀会発起人を、文部省の賞につき断る。
1966 昭和41 4 21 4 23 『中国の思想』完結し、訳者グル―プと熱海、熱川に書店招待旅行。
1966 昭和41 4 23 憲法問題研究会。
1966 昭和41 4 25 筑摩書房に、魯迅作品集3冊を今秋から、魯迅個人訳全集を1967年春から刊行することにつき、考慮を約す。
1966 昭和41 4 29 思想史研究会。
1966 昭和41 5 評論集第二巻『新編日本イデオロギイ』。
1966 昭和41 5 3 憲法問題研究会の講演会に出席。
1966 昭和41 5 14 憲法問題研究会で「解放区とは何か」の題で話す。
1966 昭和41 5 21 思想の科学社社員会に出る。
1966 昭和41 5 21 5 26 広島から神戸、名古屋旅行。
1966 昭和41 5 21 5 26 この間、家屋増改築工事。
1966 昭和41 6 評論集第一巻『新編現代中国論』。
1966 昭和41 6 11 憲法問題研究会。
1966 昭和41 6 19 思想史研究会。
1966 昭和41 6 24 仁井田陞の告別式に出る。
1966 昭和41 7 4 7 8 長野県扉温泉に滞在、魯迅評論の訳。
1966 昭和41 8 訳書『魯迅作品集』Ⅰ、Ⅱ。
1966 昭和41 10 訳書『魯迅作品集』Ⅲ。
1966 昭和41 10 河出書房新社『現代中国文学』の監修はじまり、第1回の顔合せ。
1966 昭和41 10 8 憲法問題研究会。
1966 昭和41 10 15 サルトル、ボ―ヴォワ―ルを迎えたベ平連の会でパネラ―の一人となる。
1966 昭和41 11 筑摩書房、講座『中国』企画はじまる。
1966 昭和41 11 14 明治維新研究会。
1966 昭和41 11 19 埴谷雄高来訪。碁の話から、埴谷が電話連絡で即座に新碁会(一日会)をつくる(「文体の底にあるもの」全集13巻参照)。
1966 昭和41 12 中国の会の事務所を中野区道玄町6の北望社内に移す(北望社は『中国の思想』訳者グル―プの一部有志がつくった出版社)。
1966 昭和41 12 4 一日会に出る(以後、月1回)。
1966 昭和41 12 10 憲法問題研究会。
1967 昭和42 57歳
1967 昭和42 この年、雑誌『中国』第38号~49号(49号から新装版)を編集し、ほぼ毎号「中国を知るために」を連載。
1967 昭和42 中国の会の研究会、懇話会を各1回。
1967 昭和42 1 14 憲法問題研究会。
1967 昭和42 1 24 思想の科学社社員会に出席。
1967 昭和42 1 26 岩波書店の会(野間宏、大江健三郎、堀田善衛、木下順二、丸山真男、岩波雄二郎らがメンバ―)に出る。
1967 昭和42 1 26 補訂者注=年譜にこれ以降合計8回記載されている「岩波書店の会」について、岩波書店関係者の証言によれば、正式な「会」は存在せず、サロンのように集っていたのではないか、とのこと。
1967 昭和42 2 『中国を知るために』。
1967 昭和42 2 8 日高六郎とともに中央公論社嶋中社長と会見、和解に至らず。
1967 昭和42 2 12 2 16 共同通信のグル―プと熊の湯ヘスキ―行。
1967 昭和42 2 28 3 3 武田泰淳夫妻と草津へ家族でスキ―行。
1967 昭和42 2 11 憲法問題研究会。
1967 昭和42 2 12 思想史研究会。
1967 昭和42 2 14 「美濃部亮吉(東京都知事候補)を励ます会」に出る。
1967 昭和42 2 26 2 31 夫人と次女同伴で野沢、高天原ヘスキ―行。後半、橋川文三夫妻が合流。
1967 昭和42 4 4 中公問題で日高六郎と報告会。執筆拒否同盟はつくらず、ゆるい形で運動をつづけることとなる。
1967 昭和42 4 隣家の二階増築に抗議。地方事務所に通告。都の建築指導部監察課に陳情。
1967 昭和42 5 隣家の件で東京都知事に陳情二度、武蔵野市長にも陳情。のち、本訴を考えるが、結局調停にもちこみ、1969年2月ようやく和解に達す。
1967 昭和42 5 7 思想史研究会。
1967 昭和42 6 16 中央大学学生会館で、中国革命につき随想を述べる。中央公論社の組合員と夕食。
1967 昭和42 6 19 思想の科学社社員総会に出席。
1967 昭和42 6 21 京都へ。同志社大学で中国革命の語義について講釈。夜、京都ベ平連の会に出席。
1967 昭和42 6 23 神戸大学で講演。
1967 昭和42 6 24 帰着。
1967 昭和42 6 30 中国近代思想史研究会。
1967 昭和42 7 北望社の移転にともない、中国の会の事務所を渋谷区代々木1の31に移す。
1967 昭和42 7 前年6月から相談をかさねてきた、雑誌の発行を徳間書店に移す条件ほぼ煮つまる。
1967 昭和42 7 2 思想史研究会。
1967 昭和42 7 8 憲法問題研究会。
1967 昭和42 7 24 岩波書店の会に出る。
1967 昭和42 8 12 8 16 高知市の夏期大学に講演旅行(「石田英一郎さんのことなど」全集13巻参照)。
1967 昭和42 8 腰痛で倒れ、医者にかかる。
1967 昭和42 8 22 8 27 千葉県富浦で、老舎『駱駝祥子』の翻訳研究会。
1967 昭和42 9 「日本・中国・革命」(講座『中国、Ⅰ革命と伝統』)。
1967 昭和42 9 1 毎日新聞の組合で「中国」呼称について話す。
1967 昭和42 9 7 『中国』の取材で大内兵衛を鎌倉に訪ねる。
1967 昭和42 9 24 思想史研究会。
1967 昭和42 9 この月の初めから、週1回白川正芳に碁の指導をうける(1年間)。
1967 昭和42 10 連日のように代々木の事務所に通う。
1967 昭和42 10 雑誌『中国』の徳間書店への移行にともない、第49号(11月20日刊)から判型をA5判に改め、市販化するための準備。
1967 昭和42 10 18 代々木ゼミナ―ルで講演。司会、小田実。講演料手取り1万8千円のうち1万3千円をベ平連に寄付。
1967 昭和42 10 29 専修大学の鳳祭で講演(「明治維新と中国革命」)。
1967 昭和42 11 「明治維新と中国革命――孫文について」(思想の科学研究会編『共同研究・明治維新』)。
1967 昭和42 11 13 雑誌『中国』新発足の披露。パ―ティ。「わが生涯のもっとも晴れがましい日」とあいさつ。
1967 昭和42 11 23 思想史研究会。
1967 昭和42 11 26 大阪YMCAのベトナム討論会で講演。
1967 昭和42 12 5 岩波書店の会。
1968 昭和43 58歳
1968 昭和43 この年、『中国』第50号~61号を編集、ほぼ毎号「中国を知るために」を連載。
1968 昭和43 中国の会の例会を7回行なう。
1968 昭和43 1 19 奥野信太郎の葬儀に参列。
1968 昭和43 1 21 思想史研究会。
1968 昭和43 1 26 中国近代思想史研究会。
1968 昭和43 1 27 『田岡嶺雲全集』(法政大学出版会)の打合せ会に出る。
1968 昭和43 2 11 2 15 岳温泉にスキ―行。
1968 昭和43 2 28 朝日新聞社の調査研究室で「中国革命の見方について」話す。
1968 昭和43 3 14 3 18 京都、奈良へ。
1968 昭和43 3 16 京都府主催の講演会に出席。
1968 昭和43 3 桑原武夫の訪問をうけ、全集の解説を引受ける。
1968 昭和43 3 27 世界平和七人委の集会に出席、岡崎嘉平太ほかから中国の話をきく。席上『中国』3、4月号をくばる。
1968 昭和43 4 『中島健蔵・桑原武夫・中野好夫・竹山道雄・高橋義孝・竹内好集』。
1968 昭和43 5 3 憲法問題研究会の講演会に出席。
1968 昭和43 5 24 社会党の中国文化大革命の研究会で話す。出席少なく張合を失う(「『わからない』という意味」全集11巻参照)。
1968 昭和43 6 訳書『世界文学全集54、魯迅』。
1968 昭和43 6 6 岩波書店の会。
1968 昭和43 6 8 憲法問題研究会十周年記念会に出席。
1968 昭和43 6 8 補訂者注=憲法問題研究会(東京開催分)は、これ以降1976年まで111回の月例研究会と毎年5月3日に17回の講演会を開いた。竹内さんは熱心に参加しているが、年譜にはその一部のみ記載されている。
1968 昭和43 8 15 敗戦記念日の集会、夜の部で短い講演。『中国』90冊売る。
1968 昭和43 8 16 8 20 千葉県富浦に海水浴。
1968 昭和43 9 9 岩波書店の会。
1968 昭和43 9 24 10 2 北海道旅行。橋川文三、高橋泰子(『中国』編集部)同行。函館、札幌で中国の会の講演会で話す。
1968 昭和43 9 28 初山別。前田広紀村長(元生活社の編集部長)に迎えられ、戦後の『中国文学』復刊の経緯をきく。
1968 昭和43 10 31 福岡ユネスコの講演旅行。
1968 昭和43 10 31 福岡で講演(「中国近代革命の進展と日中関係について」)。
1968 昭和43 11 1 豊津の前田俊彦を訪ね、夜小倉で講演。
1968 昭和43 11 3 荒尾へ行き、宮崎滔天の家をみる。
1968 昭和43 11 4 福岡で末永賢次(玄洋社末永節の子息)を訪ねて話をきく。同夜、帰京。
1968 昭和43 11 6 上京の坂本清馬の歓迎会を開く。
1968 昭和43 11 13 秋田へ中国の会の講演旅行。同行飯倉照平。酒田、鶴岡、鳴子、仙台を回る。
1968 昭和43 11 16 帰着。
1969 昭和44 59歳
1969 昭和44 この年、『中国』第62号~73号を編集、ほぼ毎号「中国を知るために」を連載。
1969 昭和44 中国の会の例会を9回行なう。
1969 昭和44 1 安田武提案のサロン始まる。ほぼ月1回、新宿のバ―風紋、英などに集まった。常連は竹内、安田のほか、田村義也、橋川文三、高瀬善夫、岡山猛、金子勝昭、野田裕次、中島岑夫ら。
1969 昭和44 1 19 テレビで東大安田講堂の攻防戦を終日みる。
1969 昭和44 2 11 旧中国文学研究会の会合。
1969 昭和44 2 15 潮出版社で戴季陶について講演(「わが痛憤の記――戴季陶の『日本論』と日中友好への道」)。
1969 昭和44 2 16 思想史研究会。
1969 昭和44 2 18 中国の会主催による「中国の核実験」の映画と講演会を高円寺で行なう。入り少なし。
1969 昭和44 3 訳書『世界文学全集(カラ―版)35、魯迅・老舎』(共訳)。
1969 昭和44 3 7 3 12 鳴子から銀山を経て蔵王ヘスキ―行。
1969 昭和44 3 20 草の実会で戴季陶について話す。
1969 昭和44 3 26 アジア経済研究所で講演(「大川周明のアジア研究」)。
1969 昭和44 5 3 憲法問題研究会の講演会に出席。
1969 昭和44 5 9 思想の科学社総会に出る。
1969 昭和44 5 12 岡山へ。
1969 昭和44 5 13 部落解放同盟研究集会で講演(「人間の解放と部落解放運動」)。
1969 昭和44 5 16 神戸、大阪を経て16日帰着。
1969 昭和44 5 17 中国の会、渋谷区代々木2の44の12の新事務所に移転。
1969 昭和44 5 22 筑摩書房の古田晃会長に、1970年から魯迅個人訳全集を出すことを約す。
1969 昭和44 6 6 雑誌会館で「差別を考える会」を主催。
1969 昭和44 6 10 10日から7月5日まで、武田泰淳、百合子夫妻とともに「白夜祭とシルクロ―ドの旅」に加わり、ソ連、北欧を訪れる。
1969 昭和44 9 26 部落解放同盟と日本共産党の対立問題で野間宏、小田切秀雄、荒正人、大江健三郎、国分一太郎ら及び解放同盟のメンバ―と会す。
1969 昭和44 10 15 10 18 長女と京都へ。
1969 昭和44 10 16 鶴見俊輔と対談(「一〇年の幅で考えて」。『展望』12月号)。
1969 昭和44 10 20 住井すゑ、武田清子、木下順二らに「差別を考える会」への参加よびかけ。
1969 昭和44 10 31 第1回の中国語講習会をひらく。生徒は橋川文三、鶴見和子、市井三郎。以後毎週1回開講。
1969 昭和44 11 11 YWCAで中国問題について講演。
1969 昭和44 11 14 長谷川如是閑の葬儀に出る。列席者少なくさびしい。
1969 昭和44 11 18 大阪へ。部落解放センタ―で谷口修太郎らに会う。
1969 昭和44 11 19 高松へ。
1969 昭和44 11 20 同地の津田高校で講演と質疑。
1969 昭和44 11 21 万国博をのぞいて、帰着。
1969 昭和44 12 13 憲法問題研究会。
1970 昭和45 60歳
1970 昭和45 この年、『中国』第74号~85号を編集し、毎号「中国を知るために」を連載。
1970 昭和45 毎月中国の会の例会を行なう。
1970 昭和45 1 魯迅訳の準備にかかる。
1970 昭和45 1 22 毎日新聞社会面に、違反建築提訴、調停の取材記事。
1970 昭和45 1 28 『中国』編集担当は飯倉照平、大石しげ子(→志げ子)が退き、山下恒夫、池上正治、吉田武志の新メンバ―と交替。
1970 昭和45 3 『中国を知るために』第2集。
1970 昭和45 3 1 一日会の最後の碁会。
1970 昭和45 3 2 神田共立講堂の部落解放同盟の大会をのぞき、谷口修太郎と食事。
1970 昭和45 3 6 3 9 夫人と蔵王、玉子湯ヘスキ―行。
1970 昭和45 3 22 思想史研究会。
1970 昭和45 3 31 赤軍派の日航機乗っとりを、テレビで終日みる。
1970 昭和45 4 11 憲法問題研究会。
1970 昭和45 5 3 憲法問題研究会の講演会で「戦後から戦前へ」と題し、スライドを使って講演。
1970 昭和45 5 16 福岡へ。部落解放同盟教育研究集会に参加。帰途、神戸三宮で中国の会例会、会員三〇余名と懇談(20日)。
1970 昭和45 5 20 帰着。
1970 昭和45 6 訳書『現代中国文学1・魯迅』。
1970 昭和45 6 20 思想の科学社社員総会に出る。
1970 昭和45 6 28 思想史研究会。
1970 昭和45 7 評論集『予見と錯誤』。
1970 昭和45 7 1 浅草右翼同志会の名で脅迫状(前月末と二度日)。武蔵野警察に連絡(犯人は1971年8月逮捕)。
1970 昭和45 7 12 7 15 中国の会のメンバ―と尾瀬へ。平野長靖(長蔵小屋の主人)に会う。
1970 昭和45 10 対談集『状況的』。
1970 昭和45 10 8 武田泰淳、尾崎秀樹らと羽村の中里介山故宅をたずねる。
1970 昭和45 11 1 京都へ。「たん熊」にて桑原武夫、松田道雄、鶴見俊輔、上山春平らの『中国を知るために』毎日出版文化賞受賞祝いの会。
1970 昭和45 11 2 帰京し、「アラスカ」にて同じく受賞祝いの会。武田泰淳、なだいなだ、寺田透ら。
1970 昭和45 11 7 神戸へ。
1970 昭和45 11 中国の会例会。
1970 昭和45 11 8 大高同窓会。
1970 昭和45 11 9 茨木に富士正晴を訪問、茅屋に一驚。
1970 昭和45 11 10 帰着。
1970 昭和45 11 16 京都「たん熊」にて、今西錦司、広末保、山田慶児、米山俊直と座談会「日本人の自然観」(共同通信社)。
1970 昭和45 11 17 帰着。
1970 昭和45 11 25 三島由紀夫割腹自殺、終日テレビ。
1970 昭和45 12 7 『世界』二十五周年記念パ―ティ。大いに飲む。
1970 昭和45 12 10 飯塚浩二の葬儀参列。
1970 昭和45 12 22 12 25 玉子湯ヘスキ―行。
1971 昭和46 61歳
1971 昭和46 この年、『中国』第86~97号を編集し、毎号「中国を知るために」を連載。
1971 昭和46 中国の会の例会を10回ひらく。
1971 昭和46 1 2 1 4 千葉県銚子へ。
1971 昭和46 1 24 1 27 玉子湯ヘスキ―行。
1971 昭和46 1 28 岩波書店の会。
1971 昭和46 1 30 中央公論社と和解成立、執筆拒否を解く(「和解します」全集9巻参照)。
1971 昭和46 2 3 埴谷雄高の電話で高橋和巳のガンを知る。
1971 昭和46 2 13 憲法問題研究会。
1971 昭和46 2 13 大内氏の会(美濃部亮吉東京都知事応援団体)に1万円カンパ。
1971 昭和46 3 17 3 19 筑摩書房の松下裕と万座ヘスキ―行。
1971 昭和46 3 24 『中国』編集部員が「中国の会」の名で三里塚支援カンパを募った件で会議、有志のあいさつ状を出してカンパを取消し、返金することとする。
1971 昭和46 4 『中国文学月報』「中国文学」を復刻(汲古書院)。
1971 昭和46 4 3 4 5 北望社グル―プと万座ヘスキ―行。
1971 昭和46 4 17 戴国煇宅で台湾の作家呉濁流と会う。
1971 昭和46 5 3 文京公会堂にて憲法問題研究会講演会。
1971 昭和46 5 3 帰宅後、高橋和巳危篤の報に病院に馳けつける(同夜、死去)。
1971 昭和46 5 9 葬儀。武田泰淳の家でおそくまで飲む。
1971 昭和46 5 28 京都へ。
1971 昭和46 5 29 5 31 大阪の部落解放同盟教育研究集会に参加。
1971 昭和46 5 29 29日夜は関西の中国の会で講演とスライド。
1971 昭和46 6 26 思想の科学社社員会。
1971 昭和46 7 3 憲法問題研究会。
1971 昭和46 7 12 博多へ。
1971 昭和46 7 13 7 15 福岡ユネスコ第2回国際文化会議に参加。
1971 昭和46 7 16 16日より、橋川文三夫妻、石田雄と唐津、平戸、佐世保、長崎を回る。
1971 昭和46 7 18 帰着。
1971 昭和46 7 16 平戸でニクソン訪中決定のニュ―スを聞く。
1971 昭和46 8 14 名古屋で大高7回生同窓会。日本ライン下り、犬山城見物など。
1971 昭和46 8 16 帰着。
1971 昭和46 8 21 8 23 夫人と千葉県勝浦へ。海水浴と『史記』翻訳研究会。
1971 昭和46 9 11 9 13 夫人と臼田へ。墓参と、分譲地をみる。
1971 昭和46 10 19 伊藤佐喜雄(旧『コギト』同人)の葬儀に出る。
1971 昭和46 10 26 国連でアルバニア案(中華人民共和国の国連加入案)通過、終日テレビを見つづける。
1971 昭和46 11 『中村光夫・臼井吉見・唐木順三・竹内好集』。
1971 昭和46 12 12 新宿「ととや」で旧中国文学研究会の会合。
1971 昭和46 12 24 12 26 安田つたえ(→つたゑ)、中島岑夫らと野沢ヘスキ―行。
1972 昭和47 62歳
1972 昭和47 この年、『中国』第98号~110号を編集し、「中国を知るために」を毎号連載。
1972 昭和47 1 2 東京駅前のチッソに抗議する座りこみを見舞い、その足で神戸へ。
1972 昭和47 1 山口一郎の留守宅で半分自炊しながら魯迅の翻訳をすすめる。
1972 昭和47 1 7 帰着。
1972 昭和47 1 19 鶴見良行らのアジア勉強会で話す(2月2日まで計三回)。
1972 昭和47 1 20 1 22 中国の会のメンバ―と湯の丸ヘスキ―行。
1972 昭和47 2 7 狭山事件の大内兵衛、末川博よびかけ署名団の一員として記者会見、あと高裁へ。
1972 昭和47 2 10 神山茂夫の出版記念会。
1972 昭和47 2 17 2 21 北望社グル―プと黒姫へ。『史記』翻訳検討会とスキ―。
1972 昭和47 2 28 浅間山荘事件、夜までテレビをみる。
1972 昭和47 3 3 国際基督教大学の中国講座最終日のシンポジウム。大塚久雄、野村浩一と。
1972 昭和47 3 13 言論の自由を考える会に出る。久野収、日高六郎、井上光晴ら。
1972 昭和47 3 16 大高7回生同窓会。
1972 昭和47 3 28 思想史研究会。
1972 昭和47 4 25 思想の科学社社員総会。
1972 昭和47 5 3 憲法問題研究会の講演会に出席。
1972 昭和47 5 27 広島の部落解放同盟研究集会に参加。
1972 昭和47 5 29 京都。
1972 昭和47 5 30 京都大学で講演とスライド。
1972 昭和47 5 31 帰着。
1972 昭和47 6 10 大阪へ。「関西中国の会」をつくる準備会、アジア勉強会との共催講演会であいさつ。
1972 昭和47 6 12 帰着。
1972 昭和47 6 21 神谷正男の葬儀に参列(北京時代の先輩)。
1972 昭和47 7 木下順二・竹内好・武田泰淳・堀田善衛『日中の原点から』(『現代中国文学』月報連載の座談会)。
1972 昭和47 7 雑誌『辺境』に掲載のため1934年の日記を読み返す。
1972 昭和47 8 21 8 24 福岡へ。
1972 昭和47 8 22 福岡ユネスコ第3回国際文化会議に参加。
1972 昭和47 8 22 「魯迅と日本」と題して講演。
1972 昭和47 8 25 25日より、長女、橋川文三らと阿蘇、別府、国東半島を回る。
1972 昭和47 8 27 帰着。
1972 昭和47 9 9 中国の会の最高会議(橋川文三、長野広生、飯倉照平と常任編集の山下恒夫、池上正治、中村愿)。今後の展望と補強策を議す。
1972 昭和47 9 16 中国の会の最高会議(橋川文三、長野広生、飯倉照平と常任編集の山下恒夫、池上正治、中村愿)。今後の展望と補強策を議す。
1972 昭和47 9 25 田中角栄首相訪中。
1972 昭和47 9 29 日中共同声明発表。日中国交回復。テレビで北京人民大会堂の招宴をみる。
1972 昭和47 10 2 中国の会の3回目の最高会議。
1972 昭和47 10 5 雑誌『中国』休刊の意向を徳間書店に伝える。
1972 昭和47 10 8 旧中国文学研究会の会合。16人集まる。
1972 昭和47 10 9 日本棋院で日中国交回復祝賀会。宇都宮徳馬、岡崎嘉平太ら。
1972 昭和47 10 11 筑摩書房へ魯迅の訳稿を30枚渡す。1月以来毎月10枚弱くらい渡してきたが、これより1カ月仕事中断。
1972 昭和47 10 20 『中国』11月号の地図に「中華民国」とあるのを発見、市販を中止し、会員へのわび状配送の処置。
1972 昭和47 10 24 渋谷公会堂で『潮』主催の大演説会(「実感的演説論」)。
1972 昭和47 10 29 野原四郎、安藤彦太郎、新島淳良、尾崎秀樹、橋川文三、飯倉照平と「中国の会」回顧の座談会(「カオスから新しい中国像を」、『中国』110号)。
1972 昭和47 12 雑誌『中国』12月号をもって休刊(通巻110号)。徳間書店との関係を解消して事務所を自主管理に移す。
1972 昭和47 12 1 12 3 大阪へ。
1972 昭和47 12 2 「関西中国の会」で山田慶児と共に講演。
1972 昭和47 12 17 北望社の株主総会に出る。解散をきめる。
1972 昭和47 12 22 12 24 橋川文三夫妻、安田つたえ、岡山猛らと野沢ヘスキ―行。
1973 昭和48 63歳
1973 昭和48 1 魯迅の訳をすすめる。
1973 昭和48 2 10 憲法問題研究会。
1973 昭和48 2 17 池島信平の葬儀に参列。
1973 昭和48 2 18 2 21 草津へ柿の会とスキ―行。
1973 昭和48 2 24 中央公論社「日本の中の朝鮮文化」(「おもかげの消えぬ人」解題、全集5巻参照)を励ます会で大酔。そのあと新宿のバ―風紋で階段を転落して人事不省。大久保病院に運ばれて3針縫い、順天堂病院脳外科に転入院。
1973 昭和48 2 25 25日ひる、ようやく覚醒。
1973 昭和48 3 3月いっぱい、むち打ち症の治療。
1973 昭和48 4 7 退院。
1973 昭和48 4 11 4 23 長野県浅間温泉にて療養。
1973 昭和48 4 この間、魯迅の翻訳を再開。
1973 昭和48 4 『中国を知るために』第三集。
1973 昭和48 5 3 憲法問題研究会の講演会を欠席。
1973 昭和48 5 7 中国語教室を再開。
1973 昭和48 6 『中国の会会報』最終号(第20号)に、「ごあいさつ――中国の会の解散にあたって」を掲載。会としての活動を終る。
1973 昭和48 6 6 6 11 鬼怒川に療養旅行。
1973 昭和48 7 評論集『日本と中国のあいだ』。戦中の文章をはじめて単行本に収める。
1973 昭和48 8 1 前月末より、代々木の旧中国の会の事務所を仕事場に使い始めたため、吉祥寺~原宿間の1カ月定期券を買う。
1973 昭和48 8 11 8 13 中国語集中講義。
1973 昭和48 8 17 8 20 柿の会と相馬、青根、遠刈田旅行。
1973 昭和48 8 31 9 2 事務所の若手グル―プ、橋川文三夫妻らと上高地行き。
1973 昭和48 9 1 蝶ヶ岳に登る。
1973 昭和48 9 国電6カ月定期券を購入。
1973 昭和48 9 魯迅旧訳の検討、新訳の準備。
1973 昭和48 9 24 9 29 団体旅行に加わり、夫人と青森、岩手の温泉めぐり。
1973 昭和48 9 30 久野収夫妻、雨中を来訪、佐久のブドウをもらう。
1973 昭和48 10 2 須田禎一の追悼会に出席。
1973 昭和48 10 26 我妻栄の葬儀に参列。
1973 昭和48 10 30 古田晃の訃報に接し、二宮に赴く。
1973 昭和48 11 2 古田晃の葬儀に参列。
1973 昭和48 11 6 鶴見祐輔の告別式に参列。
1973 昭和48 11 22 貴司山治の死去を知り、辻堂の自宅に弔問。
1973 昭和48 11 30 夫人同伴で、埴谷雄高夫妻、武田泰淳夫妻と楼外楼に会食、埴谷雄高主催の快気祝。
1973 昭和48 12 17 夫人とはとバス夜の探訪コ―スで銀座、赤坂のゲイバ―、新宿ドラキュラを一巡。
1973 昭和48 12 21 12 25 岡山猛、中島岑夫、金子勝昭、橋川文三夫妻、安田つたえ(→つたゑ)、石田雄らと網張温泉にスキ―行。初心者にスキ―術を伝授。
1973 昭和48 12 31 仕事場に出、ウィスキ―を独酌、机辺を整理。
1974 昭和49 64歳
1974 昭和49 1 2 2日から仕事場に通い始める。
1974 昭和49 1 23 安田武、多田道太郎、篠田一士、小中陽太郎を「鳥安」に招く。
1974 昭和49 2 8 藤本幸三、市川宏、大石智良らと魯迅翻訳検討会。11月まで月3回のペ―スで続ける。
1974 昭和49 3 15 中野重治『レ―ニン・素人の読み方』出版記念会に出席。
1974 昭和49 3 19 岩波書店の会。
1974 昭和49 3 20 武田百合子、中村智子、中村輝子、山田久代を「鳥安」に招く。
1974 昭和49 3 23 中国語教室、今回をもって閉鎖。
1974 昭和49 3 29 夫人、岡山猛父子らと玉子湯ヘスキ―行。
1974 昭和49 4 1 一行と別れて田沢湖スキ―場、柿の会と合流。
1974 昭和49 4 5 帰着。
1974 昭和49 4 17 魯迅訳稿13枚、筑摩書房に渡す。これより順次訳稿出来。
1974 昭和49 5 3 憲法問題研究会の講演会に出席。
1974 昭和49 5 26 増田渉を迎えて旧中国文学研究会の会。
1974 昭和49 5 28 石田幹之助の葬儀に参列。
1974 昭和49 5 31 6 5 橋川文三夫妻、岡山猛夫妻らと八幡平ヘスキ―行。帰途ひとりで一戸の中野清見(大高同窓生)を訪ねる。
1974 昭和49 5 この月『近代日本と中国』上巻(橋川文三と共編。下巻は8月)。
1974 昭和49 7 12 宮内嘉久の『少数派建築論』出版記念会に出席。
1974 昭和49 7 27 神山茂夫の告別式に参列。
1974 昭和49 9 15 9 17 鬼怒川、八丁へ家族旅行。
1974 昭和49 9 25 花田清輝の葬儀に参列。
1974 昭和49 11 25 埴谷雄高夫妻の招宴、夫人同伴で武田泰淳夫妻ともども楼外楼に会す。
1974 昭和49 11 30 憲法問題研究会、解散問題を議す(解散を提唱)。
1974 昭和49 12 『転形期――戦後日記抄』。
1974 昭和49 12 2 大阪。
1974 昭和49 12 3 主婦たちの集りで講演と座談会。
1974 昭和49 12 22 12 23 橋川文三夫妻らと万座ヘスキ―行。
1975 昭和50 65歳
1975 昭和50 1 15 夫人と鶴見和子を訪問、昼食を供され、家をみる。
1975 昭和50 1 29 筑摩書房と『魯迅文集』進行打合せ。2月以降、前渡金20万円とする。
1975 昭和50 2 11 2 14 柿の会の数人と湯西川、鶏頂山ヘスキ―行。疲労。
1975 昭和50 2 17 岩波書店の会。大江健三郎、木下順二、野間宏、日高六郎、堀田善衛と会す。
1975 昭和50 2 24 プレスクラブで福岡ユネスコの会。1977年の国際会議のプランを議す。
1975 昭和50 3 7 井出孫六の直木賞受賞記念祝賀会。発起人代表であいさつ。
1975 昭和50 3 14 3 17 筑摩書房のスキ―クラブと発哺へ。寺小屋、高天原で滑る。
1975 昭和50 3 28 戒能通孝の追悼会に参列。
1975 昭和50 3 30 村上一郎自殺、同家にて通夜。
1975 昭和50 3 30 代々木の事務所をひき払い、小平市のビルの一室を借りる。
1975 昭和50 4 2 4 6 柿の会と網張温泉ヘスキ―行。
1975 昭和50 4 21 憲法問題研究会の解散を決め、5月3日発表とする。
1975 昭和50 4 22 国電吉祥寺~国分寺の6カ月定期券を買う。
1975 昭和50 5 3 憲法問題研究会の最後の講話会。
1975 昭和50 6 18 大高7回生同窓会。
1975 昭和50 7 5 花岡事件三十周年講演会であいさつ(「洛沢著『花岡川の嵐』」解題、全集四巻参照)。
1975 昭和50 8 8 神戸へ。兵庫部落解放同盟研究集会に来賓としてあいさつ。→「兵庫解放教育研究会」が正しい。(雑誌『ちくま』1982年12月号に訂正を掲載)
1975 昭和50 8 9 湖西線を利用、美浜へ。夫人および橋川文三夫妻、岡山猛、金子勝昭と合流。
1975 昭和50 8 10 三方五湖めぐり。
1975 昭和50 8 11 帰着。
1975 昭和50 9 編著『アジア学の展開のために』。
1975 昭和50 9 5 旧中国文学研究会の同人会。盛会。
1975 昭和50 9 19 『魯迅文集』刊行開始を1976年9月とする。
1975 昭和50 10 9 『吶喊』と『彷徨』(『魯迅文集』第一巻)の最終稿を渡す。
1975 昭和50 10 7 7日と14日に岩波市民講座に出講、「日本における魯迅の翻訳」。
1975 昭和50 11 5 『吶喊』『彷徨』の注、残り分を渡し終る。
1975 昭和50 11 8 武田泰淳夫妻の招宴、夫人同伴で埴谷雄高夫妻ともども楼外楼に会す。
1975 昭和50 11 15 11 16 柿の会と角間温泉へ。
1975 昭和50 11 21 『故事新編』(『魯迅文集』第二巻)の訳稿渡し始める。
1975 昭和50 11 22 倉石武四郎の葬儀に参列。
1975 昭和50 12 8 『世界』三〇周年記念パ―ティに出席。
1975 昭和50 12 12 正木ひろしの追悼会に参列。
1975 昭和50 12 21 12 22 井上光晴、松本健一らと万座にスキ―行。
1976 昭和51 66歳
1976 昭和51 1 14 市井三郎、三輪公忠両夫妻、宇野重昭、菊地昌典ともども鶴見和子の招待をうけ、新潟のなれずしを賞味。
1976 昭和51 1 29 『野草』(『魯迅文集』第二巻)訳稿を渡す。
1976 昭和51 1 30 2 1 沼尻温泉にスキ―行。同行は橋川文三夫妻、石田雄、中島岑夫、松本健一。
1976 昭和51 2 上旬、下旬に風邪で寝込む。
1976 昭和51 3 小平通いを再開。
1976 昭和51 3 19 浅草「仲清」で八重樫昊(元普通社社長)の帰山を送る会。
1976 昭和51 3 26 仕事場の家賃1年分を先払い。
1976 昭和51 4 2 4 5 長女、柿の会と六日町ヘスキ―行。
1976 昭和51 5 上旬、胃の不調を感ず。
1976 昭和51 6 4 『魯迅文集』第三巻(評論集の一)の注を渡す。
1976 昭和51 7 22 第一巻の解説、難航の末ようやく脱稿。
1976 昭和51 7 月末、身体不調を感ず。
1976 昭和51 8 6 『魯迅文集』第四巻(評論集の二)の訳稿を渡す。
1976 昭和51 8 7 8 9 夫人と相馬へ。同行、橋川文三夫妻、岡山猛、金子勝昭、玉井五一。
1976 昭和51 9 2 駒込病院のレントゲン検査で頸椎に異常を発見。
1976 昭和51 9 11 信濃町の成川医院(物療内科)にハリの治療に通い始める。これより10月下旬まで、午前中通院、午後小平通いの日が続く。
1976 昭和51 9 21 武田泰淳重病の知らせをうけて、埴谷雄高と赤坂の自宅に見舞う(肝臓が原因で17日に倒れたとわかる)。肉はおちているが、さほど重態ではないという印象をうける。
1976 昭和51 9 22 武田泰淳、慈恵医大に入院。
1976 昭和51 9 25 成川医院で検診、好調の結果がでる。
1976 昭和51 9 30 武田百合子夫人からの電話で慈恵医大に馳けつける。ほとんど絶望と知る。
1976 昭和51 10 2 『魯迅文集』寄贈のあいさつ状をつくる(「『魯迅文集』贈呈の辞」全集13巻)。
1976 昭和51 10 4 深夜テレビでチャップリンをみる。ねつかれず。
1976 昭和51 10 5 午前1時半、病院から武田危篤の電話。夫人と埴谷雄高夫妻をさそって急行するも臨終に間に合ず。霊安室で夜を明かす。
1976 昭和51 10 6 長泉院にて通夜。
1976 昭和51 10 7 密葬。
1976 昭和51 10 10 青山葬儀場にて葬儀。葬儀委員長として最後にあいさつをする。
1976 昭和51 10 16 『魯迅文集』第二巻(『野草』『朝花夕拾』『故事新編』)の解説をようやく脱稿。
1976 昭和51 10 17 10 19 京都。
1976 昭和51 10 18 岩波の文化講演会(「魯迅を読む」)。はなはだしく疲労。
1976 昭和51 10 25 25日より、成川医院への通院を隔日とする。
1976 昭和51 10 訳書『魯迅文集』第一巻。
1976 昭和51 11 武田泰淳の葬儀後は肩の痛みを訴え、小平への仕事場通いもほとんどやめて自宅で静養。
1976 昭和51 11 11 日本医大病院で最初の検査。
1976 昭和51 11 17 同院で再検査をうけて神経内科に入院。急性糖尿病、急性リュウマチと診断される。
1976 昭和51 11 20 むせて飲食物がノドを通らなくなる。
1976 昭和51 11 27 経過不良のまま退院。
1976 昭和51 11 評論集『新編魯迅雑記』。
1976 昭和51 12 1 吉祥寺の森本病院に入院。即刻レントゲン撮影の結果、肺ガンの疑いが極めて濃厚となる。
1976 昭和51 12 9 食道ガンと判明。丸山ワクチンを使い始める。夫人および、これ以後連日見舞いに通った埴谷雄高は、本人にはガンを告げないことを申し合せる。
1976 昭和51 12 13 胃の穿孔手術を行ない、栄養食の注入を始める。これによって、一時新聞雑誌に日を通すほどに元気を回復。原則として面会謝絶だったが、知友の見舞いもふえる。暮れより腰に痛み。
1976 昭和51 12 訳書『魯迅文集』第二巻。
1977 昭和52 67歳
1977 昭和52 1 16 『魯迅文集』第三巻の解説を中村愿に口述(「解説にかえて」)。
1977 昭和52 2 上旬、書斎整理、税金申告などについて夫人に指示を与える。
1977 昭和52 2 このころ、療養の長期化を予想し、桑原武夫、鶴見俊輔、中野清見、埴谷雄高、増田渉の5名が発起人となって応援組織「竹内好の会」をつくり、18日、知友にあてて経済的援助の呼びかけを行なった
1977 昭和52 2 (4月4日までに142人から382万5千円が寄せられた)。
1977 昭和52 2 中旬より全身にガンが転移、腰と頸部の激痛をおさえるため鎮痛剤を連用。意識の混濁がはじまる。拉致監禁されたという被害妄想があり、帰宅希望を強く訴える。
1977 昭和52 3 2 流動食をうけつけなくなる。点滴用の針を自分で全部とりはずし、ねむる。昼すぎ琵琶湖周游の歌(自分では大阪高校ボ―ト部の歌と思っていた)を微吟。
1977 昭和52 3 2 ほとんど歌詞の体をなさなかったが、夫人がいっしょに歌うと、ほほえむようにみえた。
1977 昭和52 3 20時ころ危篤状態に陥ったが辛うじて持ち直す。
1977 昭和52 3 3 むくみもとれ、これまでになくおだやかな眠りが続いた。
1977 昭和52 3 3 その状態のまま、19時40分死去。
1977 昭和52 3 4 自宅にて通夜。
1977 昭和52 3 5 密葬。
1977 昭和52 3 10 信濃町の千日谷会堂にて無宗教による葬儀。喪主竹内照子、葬儀委員長埴谷雄高。司式、尾崎秀樹。弔辞朗読、増田渉、久野収、田中克己、野間宏、谷口修太郎、鶴見俊輔、市川宏。
1977 昭和52 3 10 この式場で、旧中国文学研究会同人の増田渉が弔辞朗読中に心臓発作のため倒れ、慶応病院で死去した。
1977 昭和52 3 訳書『魯迅文集』第三巻。
1977 昭和52 10 『中国文学月報』『中国文学』の復刻を再版し、あらたに戦後版の『中国文学』を別巻として加える(汲古書院)。
1977 昭和52 12 訳書『魯迅文集』第四巻。
1978 昭和53 1 訳書『魯迅文集』第五巻。
1978 昭和53 2 訳書『魯迅文集』第六巻。
1978 昭和53 2 評論集『続魯迅雑記』。
1978 昭和53 7 『方法としてのアジア――わが戦前・戦中・戦後1935~1976』。
1980 昭和55 9 『竹内好全集』第一巻(全17巻。筑摩書房)。監修、猪野謙二、埴谷雄高、松枝茂夫、編集、飯倉照平、橋川文三、松本健一。
1980 昭和55 9 以後、毎月1冊刊行、1981年12月に第16巻刊行、1982年9月に第17巻補遺を刊行して、全17巻完結。

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