西暦 |
和暦 |
月 |
日 |
月 |
日 |
事項 |
1931 |
昭和6 |
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21歳 |
1931 |
昭和6 |
3 |
5 |
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『校友会雑誌』第11号発行。「男たち」を発表。 |
1931 |
昭和6 |
3 |
10 |
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大阪高等学校卒業。 |
1931 |
昭和6 |
4 |
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東京帝国大学文学部支那文学科入学。RS(リ―ディング・ソサエティ。唯物弁証法などを研究する)に所属していたが、運動にはあまり積極的ではなかった。ここで同期の武田泰淳と知り合った。 |
1931 |
昭和6 |
5 |
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東大に入学した大阪高校7回生同窓会の幹事役をつとめる(以後3年間)。芥川竜之介『支那遊記』を読む。 |
1931 |
昭和6 |
6 |
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読みたい本として、英文法通論、支那語研究書、ジャ―ナリズム講座、明治文学研究、江戸期研究書をあげる。 |
1931 |
昭和6 |
7 |
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『中央公論』の長岡克暁「蒋介石の支那」を読んで支那問題研究の必要を痛感。 |
1931 |
昭和6 |
9 |
18 |
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柳条溝で日中両軍衝突(満州事変)。19日の日記、「昨、今、休む。本日曇りてむし暑し。夜雨。本日朝刊にて昨日来満州に日支軍の衝突あるを知る。北支の風雲漸々急なるか。諸株安くして郵船のみ高し。 |
1931 |
昭和6 |
9 |
18 |
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氷川社祭礼。慶立、早明一回戦。立、早勝つ。平賀源内の風流志道軒伝を読む。 |
1931 |
昭和6 |
9 |
18 |
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中央公論9月の谷崎潤一郎作なる盲目物語を読む。八十頁の大作なり。文章平明なれども尚、狐獪、漆掻き等の旧作の印象的なるに及ばず。 |
1931 |
昭和6 |
9 |
18 |
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高田保、近代サインXYZ、一流のソウ明さなり」。支那語支那時文速成講習会に通いはじめる。 |
1931 |
昭和6 |
10 |
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帝大新聞の社員に応募。『支那小説集』(「国際プロレタリア叢書」四六書院)所収の魯迅「阿Q正伝」を読んでその「ユモレスクなるに感心」。 |
1931 |
昭和6 |
11 |
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大高の佐々木恒清教授(学芸部部長)が25日鉄道事故で死去、感慨を覚える。帝大新聞入社に失敗。 |
1931 |
昭和6 |
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この年の主たる購読書、改造社『社会科学大辞典』、ラピドス『マルクス主義経済学』、『プロレタリア芸術講座』、 |
1931 |
昭和6 |
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猪俣津南雄『金融資本論』、鈴木茂三郎『日本独占資本主義の展望』、『ヂャナリズム講座』、『帝国主義論』、へ―ゲル『史的唯物論教程』等。 |
1932 |
昭和7 |
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22歳 |
1932 |
昭和7 |
2 |
6 |
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相野忠雄(大高7回生)から、「彼らの雑誌」(『コギト』)のことをいろいろ聞く。 |
1932 |
昭和7 |
3 |
1 |
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『コギト』三部購入。数日にわたって室清と『コギト』批評。 |
1932 |
昭和7 |
3 |
18 |
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田中克己と『コギト』論。 |
1932 |
昭和7 |
3 |
30 |
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室清らと『コギト』を本郷界隈の本屋に置いて歩く。期末受験科目、教育学、支那語、文学地理、浮世絵、独逸小説史、俳諧史、言語学、評論史、西鶴。 |
1932 |
昭和7 |
4 |
12 |
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杉浦正一郎からの葉書で、佐々木恒清教授夫人が、校友会誌で主人が始終いじめられていた竹内さんはどの人かと、写真帖を持ち出してたずねた由を知る。告別式に欠席したことを改めて悔やむ。 |
1932 |
昭和7 |
4 |
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新学期受講科目、ドイツ語、フランス語、国語法、バイブル、歴史学、美学概論、演劇史、切支丹伝道史、支那語(『支那現代独幕戯劇集』)、『近思録』『清平山堂話本』『楚辞』『馬氏文通』、支那文学概論等。 |
1932 |
昭和7 |
5 |
1 |
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武田泰淳をはじめて訪問。『馬氏文通』二巻を借り、雑談1時間余。 |
1932 |
昭和7 |
8 |
7 |
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「朝鮮満州見学旅行」に出発。外務省対支文化事業部の半額補助による学生主体の団体旅行で一行8名。朝鮮各地を経て長春まで行き、22日大連で解散。このあと北京に私費留学。 |
1932 |
昭和7 |
8 |
24 |
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北京着。 |
1932 |
昭和7 |
9 |
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在北京。中国語の家庭教師につく。語学の必要を痛感。琉璃廠、西単など本屋街を歩き、できる限り新刊文学書を買い込む。孫文『三民主義』を入手、深い感動を受けた。 |
1932 |
昭和7 |
9 |
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中国人経営の下宿屋でドアのない中国式便所に閉口。池田孝道を訪ね、現代文学を中心とした雑誌・文献の彪大な収集におどろく。 |
1932 |
昭和7 |
10 |
8 |
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帰着。この最初の北京旅行で、そこの風物と人物に魅了され、それまでやる気のなかった中国文学にも本気になった。「私の中国との結びつきは、このときにはじまる」(「孫文観の問題点」全集5巻)。 |
1933 |
昭和8 |
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23歳 |
1933 |
昭和8 |
1 |
4 |
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「コギト第二年を迎えて更に意気さかんなり。杉浦の小説も進歩せり。慶賀に堪えざると共に顧みて一抹の寂蓼を感ずるものあるは如何」(日記)。 |
1933 |
昭和8 |
3 |
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中国旅行のレポ―ト「中国における新聞事業の研究」を外務省に提出。『資本論』(高畠素之訳)を読み始める。 |
1933 |
昭和8 |
5 |
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朗読劇、オニ―ル作『鯨』の演出を引受け、橄欖クラブ(大学内の大高7回生のクラブ)で練習。 |
1933 |
昭和8 |
7 |
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『鯨』上演。橄欖クラブ文芸部計画として、①研究会(作家研究、名作物語、理論の問題、文学史研究)、②創作(壁小説、報告文学に新形式を探求)、③出版、を構想、秋より組織的勉強に着手せんと思う。 |
1933 |
昭和8 |
8 |
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猪俣津南雄『金の経済学』第二編読了(室清、加藤定雄らとの読書会テキスト)。『資本論』を中断、カント『プロレゴ―メナ』にかかる。 |
1933 |
昭和8 |
9 |
8 |
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中野重治『夜明け前のさよなら』を買う。 |
1933 |
昭和8 |
9 |
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下旬、郁達夫を読む。きわめて面白く、夏休み中に読みはじめなかったことを後悔。 |
1933 |
昭和8 |
11 |
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卒業論文『郁達夫研究』執筆のため、連日1冊ずつ読書。就職口に望みうすながら満鉄を考慮。 |
1933 |
昭和8 |
11 |
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目下の念願として、中国現代文学、日本現代文学、中国経済事情、理論経済学の研究、および中国に四、五年留学することをあげる(大高8回生、中道一男あて手紙)。 |
1933 |
昭和8 |
12 |
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卒業論文提出。昭和9年度支那哲学支那文学科卒業生34名中、現代文学をテ―マとしたものは『郁達夫研究』1本。 |
1934 |
昭和9 |
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24歳 |
1934 |
昭和9 |
1 |
4 |
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横地倫平、岡崎俊夫と「中国文学研究会」設立を議したが具体化に至らなかった。 |
1934 |
昭和9 |
1 |
4 |
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「中国文学研究会」設立の構想は前年秋ころからようやく熟しつつあったが、卒業論文の準備と重なったため、新春早々に打合せを行なう予定をたてていたもの。 |
1934 |
昭和9 |
1 |
21 |
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大高同期生の回覧同人誌『朝焼』出来、10人ばかり集まる。 |
1934 |
昭和9 |
1 |
21 |
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|
『朝焼』は原稿をそのまま綴じ合せて回覧したもので、このとき『工業化の程度より見たる現在中国の経済的性質』50枚(呉半農『目下中国経済性質』の訳)を投稿。 |
1934 |
昭和9 |
1 |
24 |
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|
武田泰淳を「中国文学研究会」に勧誘、武田が現代小説に通じていることに感心。 |
1934 |
昭和9 |
2 |
17 |
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昭和9年度支那哲文科卒業生予餞会兼市村瓚?(王へんに右上先x2右下貝)次郎博士の皇太子殿下御浴湯儀奉仕祝賀会に出席(全集第7巻の口絵写真はこのときのものと思われる。前列中央の白髯が市村博士)。 |
1934 |
昭和9 |
3 |
1 |
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|
横地、岡崎、武田、佐山峲?(山かんむりに利)が竹内宅(芝区白金今里町89番地)に会し、「中国文学研究会」第1回準備総会。 |
1934 |
昭和9 |
3 |
1 |
|
|
会名を「中国文学研究会」と定め、毎月1日、15日に研究発表会を開くこと、回覧雑誌の刊行をはかることを申し合せた。 |
1934 |
昭和9 |
3 |
1 |
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|
会はこのとき実質的に発足。これより主として前記5名が会し、3月15日を手始めに、4月に2回、5月に2回と研究発表会を開いたが、あまり実績はあがらなかった。 |
1934 |
昭和9 |
3 |
1 |
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|
しかし留学生と数度にわたって懇親会を重ねるうち、顧志堅、王瑩らを知り、かれらを通じて中国文壇の情勢について少なからず知識を得た。 |
1934 |
昭和9 |
3 |
31 |
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東京帝国大学卒業式出席。 |
1934 |
昭和9 |
5 |
16 |
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徴兵検査第二乙種となり、ひとまず安心する。 |
1934 |
昭和9 |
6 |
3 |
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|
横地、岡崎、武田らと会規約案を討議し、9月をメドに雑誌発行の具体案を練る。 |
1934 |
昭和9 |
6 |
6 |
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|
漢学会で松井武男(支那文、昭和4年卒業。陸軍士官学校の漢文教官)の講演「中国文壇の新傾向及び茅盾の短篇小説」をきき、ほとんど茅盾を読んでいないのに驚いて駁論を書く。 |
1934 |
昭和9 |
6 |
6 |
|
|
これより松井とあい識り、さらに増田渉、松川朴平らとの交流を生じたことが、研究会の基礎を固めるうえでの転機となった。 |
1934 |
昭和9 |
6 |
6 |
|
|
増田は、すでに「魯迅伝」(『改造』1932年4月)その他を発表していた。 |
1934 |
昭和9 |
6 |
10 |
|
|
顧志堅を介して柳亜子(詩人)より『曼殊全集』、柳亜子『訪日詩集』の寄贈をうける。 |
1934 |
昭和9 |
6 |
27 |
|
|
松井武男を訪問。松川朴平、土屋申一の北京帰朝歓迎会に招待される。松枝茂夫、目加田誠らも出席の由をきく。 |
1934 |
昭和9 |
6 |
29 |
|
|
『朝焼』廃刊の会合に出席。 |
1934 |
昭和9 |
7 |
1 |
|
|
松川、土屋帰朝歓迎会に出席し、研究会の紹介宣伝をおこなう。 |
1934 |
昭和9 |
7 |
2 |
|
|
満鉄を正式に断わられ、かえってさっぱりする。 |
1934 |
昭和9 |
7 |
8 |
|
|
武田と会の出直しについて打合せ。 |
1934 |
昭和9 |
7 |
10 |
|
|
松川から、二胡(絃楽器)の奏者丁致中、蒋風之の演奏会を研究会主催でやるように頼まれる。 |
1934 |
昭和9 |
7 |
17 |
|
|
丁、蒋、松川と会って二胡演奏会の打合せ(21日に開催したがあまり成功しなかった)。松井を訪ね、研究会の再建について協議。 |
1934 |
昭和9 |
7 |
17 |
|
|
会の将来計画に一定の成算を得た(松井は1935年春、謝冰瑩や武田泰淳がつかまったころから、会を離れた)。 |
1934 |
昭和9 |
7 |
19 |
|
|
増田渉と会い、研究会の運営について積極的協力の約を得た。 |
1934 |
昭和9 |
7 |
19 |
|
|
新居格に、日本文人の催す周作人(魯迅の実弟。北京大学教授、随筆家、日本文学研究家)と |
1934 |
昭和9 |
7 |
19 |
|
|
徐祖正(北京大学教授、作家、日本文学研究家)の歓迎会への協力を頼まれ、尽力を約す(のち研究会の主催となる)。 |
1934 |
昭和9 |
7 |
19 |
|
|
二人は1935年から北京大学外国語文学系で日本文学を開講するための諸準備と書籍購入のため来日していた。 |
1934 |
昭和9 |
8 |
4 |
|
|
日比谷の山水楼で周作人、徐祖正歓迎会開催。前月来、歓迎会準備に奔走し、発起人に新居格のほか有島生馬、佐藤春夫、竹田復、与謝野寛を依頼。 |
1934 |
昭和9 |
8 |
4 |
|
|
出席者25名の中には、塩谷温、島崎藤村、戸川秋骨、村松梢風、堀口大学の顔もあった。このときはじめて会の名を公式に使用した。 |
1934 |
昭和9 |
8 |
16 |
8 |
23 |
武田、横地と茅ヶ崎に遊び、「武田の真似の出来ざる純粋さを発見」(日記)。 |
1934 |
昭和9 |
9 |
|
|
|
9月末、武田、岡崎、松井と会合。毎月、研究発表会と懇話会を1回ずつ開くこととする。 |
1934 |
昭和9 |
10 |
26 |
|
|
竹内、松井、松枝、辛島驍、武田、横地(岡崎不参)が塩谷温に学士会館に招かれる(全集16巻242ペ―ジ参照)。 |
1934 |
昭和9 |
10 |
29 |
|
|
第1回例会を帝大仏教青年会館で開催。竹内が開会の辞と会の紹介をおこない、一戸務が「郁達夫論」、辛島驍が「最近の中国文壇」を発表。 |
1934 |
昭和9 |
10 |
29 |
|
|
学生中心に来聴者五十余名。外部の者が少なく、将来に安心と不安と相半ばす。 |
1934 |
昭和9 |
12 |
3 |
|
|
謝冰瑩「梅姑娘」を読み、訳を思いたつ。謝は湖南省出身の女流作家で、日本文学研究のため来日中だった。 |
1934 |
昭和9 |
12 |
9 |
|
|
第1回懇話会。謝冰瑩が「わが文学遍歴」の演題で熱弁、盛会。懇話会は、研究発表を主とする例会に対し、肩のこらない集りとして企画したもの。 |
1934 |
昭和9 |
12 |
25 |
|
|
「梅姑娘」の訳にかかる。 |
1934 |
昭和9 |
12 |
25 |
|
|
このころ茅盾、丁玲、勒蔣→?(革+斤)以、蒋光慈、田漢、洪深、老舎、張天翼ら中国現代作家を多読。『資本論』第二巻まで読了。 |
1935 |
昭和10 |
|
|
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|
25歳 |
1935 |
昭和10 |
1 |
|
|
|
1月初めから、中国文学研究誌創刊をめざして奔走し、松枝茂夫に雑誌編集参画を要請。 |
1935 |
昭和10 |
1 |
11 |
|
|
松井武男、一戸務、松枝、岡崎、武田と編集会議。 |
1935 |
昭和10 |
1 |
22 |
|
|
謝冰瑩「梅姑娘」を訳載した『婦人文芸』2月号を「恋人を待つ如き心持」で受け取る。 |
1935 |
昭和10 |
1 |
26 |
|
|
第3回例会を神田の学士会館で開催。郭沫若の「易について」。 |
1935 |
昭和10 |
1 |
26 |
|
|
郭が著名人だったことや、この回に限って朝日新聞学芸欄に例会告知を出したためもあって、出席者百104名という盛会となり、郭も熱のこもった講演をした。 |
1935 |
昭和10 |
1 |
26 |
|
|
主催者として感激を味わう。このとき、郭から会の機関誌『中国文学』四文宇の題辞をもらう(本巻口絵参照)。 |
1935 |
昭和10 |
2 |
28 |
|
|
『中国文学月報』創刊号出来。岡崎と封筒書き。これより全力を傾注して『月報』の刊行と会の運営に当り、本年中に第10号まで発行。 |
1935 |
昭和10 |
2 |
28 |
|
|
編集方針は竹内、武田、岡崎を中心とする同人の合議によったが、「原稿には竹内が率直な批判を加え、場合によっては加筆訂正を行った」(復刻『中国文学』別冊。以下、別冊と略す)。 |
1935 |
昭和10 |
2 |
28 |
|
|
竹内は集稿、整理、校正、発送のすべてにタッチ、毎号の後記を執筆した。1、3、4、6、7、9、11月に会の例会を開催、5月は二度懇話会を行って、この報告も竹内が書いた。 |
1935 |
昭和10 |
4 |
14 |
|
|
武田が目黒署に連行され、45日間留置。これは満州国皇帝溥儀の入京をひかえて予防検束をうけたもの。留学生も多数検挙され、謝冰瑩もその中にいた。 |
1935 |
昭和10 |
4 |
14 |
|
|
武田は謝と「親しく往来していたのと、逮捕歴があったのとで引っぱられた」らしく、「この時、竹内らは当然自分たちにも警察の手がのびるものと予測していたが別条なかった」(別冊)。 |
1935 |
昭和10 |
4 |
|
|
|
『月報』6、7号に「現代小品文特輯」解説一、二を、8号に「漢学の反省」を書き、7号に郁達夫「所謂自伝なる者」と海戈「孔子の国籍」を訳載。 |
1935 |
昭和10 |
10 |
|
|
|
10月より東亜学校講師(36年3月まで)。 |
1935 |
昭和10 |
10 |
|
|
|
同校は中国人留学生のための日本語速修学校。当時学生数二千名に近く、持時間が多く世間の倍近い給料が出た。同人の岡崎や、角川源義、魚返善雄も講師をつとめたことがある。 |
1936 |
昭和11 |
|
|
|
|
26歳 |
1936 |
昭和11 |
|
|
|
|
この年『中国文学月報』第11~21号編集発行。毎月、同人の編集会議、例会に出席。しかし慢性的に原稿不足に悩まされた。 |
1936 |
昭和11 |
1 |
|
|
|
しばしば岡崎、武田と会して行詰りを慨嘆しかつ打開策を話し合ったが、1月はついに『月報』休刊。 |
1936 |
昭和11 |
2 |
11 |
|
|
岡崎と『史記』読書会を始める。週1回。 |
1936 |
昭和11 |
2 |
26 |
|
|
二・二六事件発生、ショックをうける。またこのため、3月半ばにかけて例会、研究会延引。 |
1936 |
昭和11 |
3 |
|
|
|
岡崎と1月来、中国留学の方策を話しあってきたが、一頓挫。 |
1936 |
昭和11 |
4 |
4 |
|
|
会の行事として『浮生六記』講読会開始(担当松枝茂夫、週1回、6月下旬まで)、毎週出席。 |
1936 |
昭和11 |
5 |
9 |
|
|
岡崎から朝日新聞名古屋支局入社の話をきかされて、「宛も失恋に襲れたる如」く愕然となる(日記)。 |
1936 |
昭和11 |
6 |
7 |
|
|
正式に入社決定となった岡崎を東京駅に送る。 |
1936 |
昭和11 |
7 |
31 |
|
|
臼田に赴く。 |
1936 |
昭和11 |
8 |
3 |
|
|
3日より海の口温泉に移り、19日まで滞在、「海の口温泉記」を記す。またこの間、『月報』の「魯迅特輯号」にそなえて、魯迅『吶喊』『華蓋集』を読む。「狂人日記」にもっとも興味をひかれた。 |
1936 |
昭和11 |
9 |
|
|
|
ひきつづき魯迅を読み、下旬から「魯迅論」執筆。 |
1936 |
昭和11 |
10 |
19 |
|
|
魯迅が急逝したため、特輯号(20号、11月1日発行)はすでに組み上がっていたが、急ぎ「死」一編を訳載、哀悼の意を表した。 |
1936 |
昭和11 |
11 |
24 |
|
|
三田の料理屋「つかさ」で郁達夫歓迎会。同人のほか郭沫若、石田幹之助(郁と高校同期)が出席。 |
1936 |
昭和11 |
11 |
24 |
|
|
「郁はこの時、福建省公報処主任の肩書で印刷機械購入のために来日したものだったが、この日(改造社歓迎会当日)、 |
1936 |
昭和11 |
11 |
24 |
|
|
十年ぶりに郭と会って久闊を叙したのをきっかけに、12月17日帰国するまでの1カ月間に三度会っている。 |
1936 |
昭和11 |
11 |
24 |
|
|
――二人のあいだに切迫した日中の情勢と抗日民族統一戦線結成の動きなどについて話し合いがあったろうことは想像に難くない。 |
1936 |
昭和11 |
11 |
24 |
|
|
郭自身、故国の情勢を憂慮していたことは、この宴席で郁のために書いた七絶の第四句“那堪国破又家亡”によっても知れる。 |
1936 |
昭和11 |
11 |
24 |
|
|
おそらく郭は、郁に会っていよいよ帰国の決意を固めたものであろう。24日夜の研究会主催の歓迎会では彼は郁にかわって盃を受け痛飲した。 |
1936 |
昭和11 |
11 |
24 |
|
|
酔うと口が軽くなる癖の郁が、酔にまかせてその間の事情を洩らすのを恐れたからではないかというのは、後に同人たちが推察したところである。 |
1936 |
昭和11 |
11 |
24 |
|
|
そして彼は、深夜、宴果てた時、武田の手を握って“ぼくは永久に日本にいます”と繰返し、外に出てから”大日本帝国万才!“と高唱した」(別冊)。 |
1936 |
昭和11 |
12 |
5 |
|
|
第16回の例会で「中国文学研究の方法」を報告。 |
1936 |
昭和11 |
12 |
5 |
|
|
「この日は、郁達夫『中国の詩の変遷』が予定されていたところ、その前日、郁が留学生の会合で反日演説をしたという理由で出席を禁止され、警官が臨席して出席者の氏名を控えた。 |
1936 |
昭和11 |
12 |
5 |
|
|
急遽郁に代って報告した竹内は、そこでことさらに学術的テ―マを択んだ」(別冊)。 |
1937 |
昭和12 |
|
|
|
|
27歳 |
1937 |
昭和12 |
1 |
18 |
|
|
日華学会の高橋君平の斡旋によって、中国留学のための書類準備にかかる。この留学は外務省文化事業部の第三種補助金を利用するもので、期間は2年、語学研修を名目としていた。 |
1937 |
昭和12 |
6 |
|
|
|
研究会事務所を自宅から本郷区2丁目4番地6の和田ビル内に移転。 |
1937 |
昭和12 |
7 |
|
|
|
中旬に北京に向かう予定で、『月報』28号に「留別の言葉」を掲載したが、7日、蘆溝橋事件が発生したため出発延期。 |
1937 |
昭和12 |
8 |
|
|
|
同人の千田九一、陣内宜男、吉村永吉が相ついで応召、中国戦線に向かった。 |
1937 |
昭和12 |
9 |
29 |
|
|
外務省の留学許可下りる。 |
1937 |
昭和12 |
10 |
13 |
|
|
武田からの電話で、武田に召集令状がきたことを知り驚く。 |
1937 |
昭和12 |
10 |
16 |
|
|
武田の出征を送る。 |
1937 |
昭和12 |
10 |
17 |
|
|
北京留学に出発。 |
1937 |
昭和12 |
10 |
27 |
|
|
北京着。留学中の『月報』編集は、松枝を中心に実藤恵秀、小野忍らが担当。 |
1937 |
昭和12 |
11 |
|
|
|
中国語の教師として紹介されて楊聯陞と知り合う。以後、毎日のように来訪。 |
1938 |
昭和13 |
|
|
|
|
28歳 |
1938 |
昭和13 |
|
|
|
|
在北京。 |
1938 |
昭和13 |
1 |
5 |
|
|
5日から内務省の赤羽王郎事務官の顧問となり毛家湾の赤羽公館に住みつく(26日まで)。 |
1938 |
昭和13 |
2 |
|
|
|
初旬にも依頼されて『新民主義』の翻訳などをする。 |
1938 |
昭和13 |
2 |
23 |
|
|
弟潔、軍医として応召石(1940年暮に帰還)。 |
1938 |
昭和13 |
3 |
10 |
|
|
近代科学図書館(館長、山室三良)の日本語講師を依頼され、17日から出講(月給70円)。 |
1938 |
昭和13 |
5 |
15 |
|
|
前日北京に着いた佐藤春夫、同竜児、保田与重郎来訪、それよりほぼ2週間、各所を案内して寧日なし。 |
1938 |
昭和13 |
5 |
25 |
|
|
朝陽門内南弓匠営南椿樹胡同11号から、東四北七条胡同43号に移る。 |
1938 |
昭和13 |
7 |
12 |
|
|
北京留学にきた飯塚朗(会の同人)と共同生活。 |
1938 |
昭和13 |
8 |
|
|
|
『月報』42号の原稿「周作人随筆集」執筆。42号の執筆者、神谷正男、楊蓮生、永島栄一郎はいずれも在北京メンバ―で、竹内が編輯して「北京特輯号」とした。 |
1938 |
昭和13 |
9 |
17 |
|
|
近代科学図書館をやめ、北京大学理学院の日本語講師を引き受ける。この「北京大学」は、日本の占領後、臨時政府によって設置されたもので、中国側は「偽北京大学」と呼んでいた。 |
1938 |
昭和13 |
11 |
18 |
|
|
『月報』44号、武田の「北京の輩に寄するの詩」に感銘をうける。武田の詩は便箋数枚にエンピツで走り書きして、戦地から松枝あてに寄せられたものであった。 |
1938 |
昭和13 |
11 |
27 |
|
|
飯塚が引越し、ひとりにもどる。 |
1939 |
昭和14 |
|
|
|
|
29歳 |
1939 |
昭和14 |
1 |
14 |
|
|
「北京大学」成立典礼に出席。 |
1939 |
昭和14 |
2 |
20 |
|
|
東京に向かう。 |
1939 |
昭和14 |
2 |
23 |
|
|
帰着。これは父の希望をいれて、見合のために一時帰国したもの。 |
1939 |
昭和14 |
3 |
3 |
|
|
父が高熱を発したが、予定通り、4日、松本に向かい、5日、浅間温泉にてKと見合。 |
1939 |
昭和14 |
3 |
6 |
|
|
帰京。 |
1939 |
昭和14 |
3 |
7 |
|
|
父武一、死去。 |
1939 |
昭和14 |
3 |
9 |
|
|
神式にて葬儀。「僕の家は知っての通リ親父の激しい気性が支えていたようなもので、亡くなられてみると明らかに困惑がやってきた」(武田あて手紙)。 |
1939 |
昭和14 |
4 |
19 |
|
|
中央線にて離京、Kを送って塩尻にて別れ、名古屋に向かう。 |
1939 |
昭和14 |
4 |
21 |
|
|
門司出航。 |
1939 |
昭和14 |
4 |
23 |
|
|
北京着。 |
1939 |
昭和14 |
6 |
1 |
|
|
ふたたび東京へ。 |
1939 |
昭和14 |
6 |
4 |
|
|
着京。亡父武一の遺骨埋葬(東京多摩霊園)と、事業の残務整理にあたった。 |
1939 |
昭和14 |
6 |
4 |
|
|
このとき、さきに一旦きめたKとの縁談を正式に破約。満期の9月で北京留学を切りあげること、『月報』を市販の雑誌に育てる構想をかためた。 |
1939 |
昭和14 |
7 |
5 |
|
|
東京発。 |
1939 |
昭和14 |
7 |
19 |
|
|
北京帰着。帰途、青島経由で山東省周村に立ち寄り、軍務にある弟潔と5日間ともに過す。 |
1939 |
昭和14 |
7 |
23 |
|
|
料亭「万寿」の女給、峯子と出会う。 |
1939 |
昭和14 |
7 |
23 |
|
|
これより10月15日に留学を終えて北京を離れるまでの間に、一時結婚を考えるに至ったが、結局破綻した。 |
1939 |
昭和14 |
10 |
15 |
|
|
北京出発。 |
1939 |
昭和14 |
10 |
20 |
|
|
神戸着。 |
1939 |
昭和14 |
10 |
21 |
|
|
東京帰着。 |
1939 |
昭和14 |
10 |
29 |
|
|
武田を訪ね、日常感覚をとりもどす。武田は召集解除となって3日に帰還していた。 |
1939 |
昭和14 |
10 |
29 |
|
|
この日より貸家捜し。 |
1939 |
昭和14 |
|
|
|
|
岡本かの子を耽読。 |
1939 |
昭和14 |
12 |
24 |
|
|
50軒余を見て回った結果、目黒区上目黒5丁日2468番地に転居。 |
1940 |
昭和15 |
|
|
|
|
30歳 |
1940 |
昭和15 |
1 |
|
|
|
会の同人制を解消して代りに特別会員制を設け、幹事を選んで編集その他を委嘱することとした。 |
1940 |
昭和15 |
1 |
|
|
|
幹事は、小野、竹内、武田、飯村聯東、猪俣庄八。和田ビルの事務所を閉じ、ふたたび竹内宅(目黒区上目黒5―2468)に置いた。 |
1940 |
昭和15 |
1 |
|
|
|
『月報』の発売を生活社に移すことで交渉を始めた。毎週金曜夜、幹事会をかねて『海上花列伝』の講読会を始める。 |
1940 |
昭和15 |
2 |
|
|
|
日満財政経済研究会で中国語教師(4月半ばまで)。 |
1940 |
昭和15 |
4 |
1 |
|
|
『中国文学』第60号発行。この号から市販雑誌として発売元生活社となり、誌名から「月報」の二字を外した。 |
1940 |
昭和15 |
4 |
1 |
|
|
「生活社は『婦人画報』編輯者だった鉄村大二が昭和12年に設立した会社で、 |
1940 |
昭和15 |
4 |
1 |
|
|
日中戦争が泥沼状態にはいり中国を知悉する必要が叫ばれはじめた時代風潮に便乗する形で中国・アジア関係図書の出版を主な業務としていた |
1940 |
昭和15 |
4 |
1 |
|
|
――『中国文学』発行については、当時の編輯長前田広紀が積極的関心を示し、その申入れによって発行(10月までは発売のみ)を委嘱することになった。 |
1940 |
昭和15 |
4 |
1 |
|
|
その結果、編輯費が生活社から出ることになり、はじめて原稿料(1枚50銭)を出すことができるようになった」(別冊)。 |
1940 |
昭和15 |
4 |
|
|
|
この月より回教圏研究所研究員となり、毎週月火金土に出勤、業務は中国回教徒の調査(1945年8月まで在籍)。 |
1940 |
昭和15 |
4 |
13 |
|
|
1年ぶりに上京した松枝を送りかたがた『月報』を印刷していた浜松の開明堂を見学。館山寺、蒲郡に2泊。松枝は前年春、九州帝国大学法文学部助教授に転じていた。 |
1940 |
昭和15 |
4 |
27 |
4 |
28 |
回教圏研究所員らと伊豆旅行。 |
1940 |
昭和15 |
5 |
28 |
|
|
仙台に赴き、昭和土地の債務(父武一の事業の債務)を完済。 |
1940 |
昭和15 |
8 |
15 |
|
|
信州和田村へ。 |
1940 |
昭和15 |
8 |
20 |
|
|
武田泰淳を迎え、21日、武田と八里を歩いて扉温泉泊。 |
1940 |
昭和15 |
8 |
22 |
|
|
浅間温泉に移動、武田帰る。 |
1940 |
昭和15 |
8 |
22 |
|
|
和田村。 |
1940 |
昭和15 |
8 |
23 |
|
|
帰京。 |
1940 |
昭和15 |
8 |
23 |
|
|
この間、廃名の『橋』の訳に従事(50枚)。「処女出版」にしたい意気ごみ(松枝茂夫あて手紙)でとりかかっていたが活字にはならなかった(訳稿は現存)。 |
1940 |
昭和15 |
8 |
23 |
|
|
『中国文学』65号(9月刊)に劉半農・商鴻逵『賽金花口述』を訳載。 |
1940 |
昭和15 |
8 |
23 |
|
|
『中国文学』の原稿集まり悪く、編集に苦慮。 |
1940 |
昭和15 |
10 |
20 |
|
|
20日ころ、亡父武一の埋骨のため臼田に赴く。 |
1941 |
昭和16 |
|
|
|
|
31歳 |
1941 |
昭和16 |
1 |
8 |
|
|
東京代々木上原にある回教寺院のクルバン(供犠祭)第1日を見学、参観記を書く。 |
1941 |
昭和16 |
1 |
10 |
1 |
11 |
父武一の叔父胡桃沢勘内、前年の12月25日に亡くなり、松本を訪ねる。 |
1941 |
昭和16 |
2 |
|
|
|
『回教圏』の原稿「顧頡剛と回教徒問題」を1日で書き上げる。 |
1941 |
昭和16 |
3 |
26 |
3 |
29 |
飯塚朗と水上、伊香保、榛名に旅行。 |
1941 |
昭和16 |
4 |
|
|
|
東亜研究所および京北実業校の中国語講師となる。 |
1941 |
昭和16 |
4 |
|
|
|
周作人が東亜文化協議会に出席するために来日。竹内は協議会への出席は見合せ、周が18日離京する朝、帝国ホテルに個人的にあいさつに赴いた。 |
1941 |
昭和16 |
5 |
|
|
|
上旬、日本評論社の赤羽尚志と「東洋思想叢書」の企画について相談。松枝「紅楼夢」「水滸伝」、武田「史記」「杜甫」などの案があり、竹内は「魯迅」をやることにきめた。 |
1941 |
昭和16 |
5 |
15 |
|
|
日本評論社と『魯迅』の出版契約を結ぶ(本巻口絵参照)。 |
1941 |
昭和16 |
7 |
1 |
|
|
葉紹鈞「倪煥之」を訳すため読み始めた。 |
1941 |
昭和16 |
7 |
25 |
|
|
演習召集の点呼で定刻の7時半に3分遅刻したため憲兵伍長になぐられて、3時間説教をくらう。 |
1941 |
昭和16 |
|
|
|
|
このころ召集の近いことを予感して不安を覚える。 |
1941 |
昭和16 |
8 |
13 |
|
|
目黒署特高課の刑事が『中国文学』の調査に来る。先生先生と丁重な態度だったが、応対の間、冷汗をかく |
1941 |
昭和16 |
8 |
13 |
|
|
(翌年1月末、中国渡航認可証をとるので目黒署に出向いたとき、係が同刑事でがぜん親切にされた)。 |
1941 |
昭和16 |
9 |
|
|
|
研究会編輯「中国文学叢書」が生活社から刊行開始。第1回は岡崎訳の劉鉄雲『老残遊記』。 |
1941 |
昭和16 |
9 |
|
|
|
「この叢書は雑誌発行を生活社に委嘱した反対給付として研究会が企画編輯し」(別冊)、前年6月ころから構想されていたもの。 |
1941 |
昭和16 |
9 |
|
|
|
ほかに竹内訳の劉半農『饗金花』、実藤・豊田訳の黄遵憲『日本雑事詩』など10冊を出した。 |
1941 |
昭和16 |
10 |
|
|
|
このころ3ヵ所(回教圏研究所、東亜研究所、京北実業)に勤務して月収百70円、毎月赤字百円。亡父の遺産も余裕なく、前途不安。 |
1941 |
昭和16 |
10 |
6 |
|
|
弟潔、再度応召。妹貞子の結婚のことについてもいろいろ考慮する。 |
1941 |
昭和16 |
10 |
17 |
|
|
東条内閣成立。 |
1941 |
昭和16 |
11 |
2 |
11 |
3 |
回教圏研究所員らと松本へ旅行。「浅間温泉の記」を書く。 |
1941 |
昭和16 |
11 |
8 |
11 |
9 |
同じく研究所員らと川治温泉へ旅行。 |
1941 |
昭和16 |
12 |
8 |
|
|
8日(月)、「学校〔京北実業〕があるので朝早く起きた。洋服を着て一寸二階にいると、七時のニュ―スで日米西太平洋に開戦の臨時ニュ―スがあったと云う。 |
1941 |
昭和16 |
12 |
8 |
|
|
いよいよやったかと思いながら学校へ行く。 |
1941 |
昭和16 |
12 |
8 |
|
|
それでもすぐ重大のようには考えなかったが、教員室のラジオが次第に詳しい報道を伝えてきた。 |
1941 |
昭和16 |
12 |
8 |
|
|
本夜明けに、フィリッピン、ハワイ、マレ―に一挙に軍事行動開始、規範〔規範はママ→規模〕の雄大さ、偶発的でない計画性がはっきりした。 |
1941 |
昭和16 |
12 |
8 |
|
|
午後研究所へ行く。本日十一時対米、英宣戦の大詔が下ったことを知った。はるかに予想を超えている。壮烈なものを身に感じる」。 |
1941 |
昭和16 |
12 |
11 |
|
|
「回教圏でも毎日時局に関する討論が盛である。戦争遂行の決意は今や全国民一致している。これは明かであるが、細部に亘っては議論が分れる。 |
1941 |
昭和16 |
12 |
11 |
|
|
支那事変に何か気まずい、うしろめたい気持があったのも今度は払拭された。 |
1941 |
昭和16 |
12 |
11 |
|
|
支那事変は今度こそは立派に生きた。野原〔四郎〕君、とにかくこの戦争は進歩的な戦争だと云った。たしかにそうであると思う。これを民族解放の戦争に導くのが我々の責務である」。 |
1941 |
昭和16 |
12 |
13 |
|
|
「午後、戦争に処する方策協議のため同人会を開く。斎藤、武田、増田、千田、それに生活社の前田〔広紀〕氏来る。増田、千田はあまり発言せず。武田は考をもっているがやはり自分と少しちがう。 |
1941 |
昭和16 |
12 |
13 |
|
|
生き延びるために戦争をやるので理窟を云っても駄目だと云う。自分の考を述ぶ。1月号に宣言を書くこと、とにかく反対ではないと云う」(日記)。 |
1941 |
昭和16 |
12 |
16 |
|
|
『中国文学』1月号(第80号、1942年1月1日発行)の宣言(「大東亜戦争と吾等の決意(宣言)」)を書く。 |
1941 |
昭和16 |
12 |
29 |
|
|
『中国文学』1月号出来。 |
1941 |
昭和16 |
12 |
30 |
|
|
『中央公論』1月号、高坂正顕、高山岩男らの座談会「世界史的立場と日本」に感銘をうける。 |
1942 |
昭和17 |
|
|
|
|
32歳 |
1942 |
昭和17 |
1 |
|
|
|
上旬、回教圏研究所より「回教徒団体及回教調査機関との連絡並に調査」(興亜院発給の渡航承認書)のため中国出張内定。 |
1942 |
昭和17 |
1 |
|
|
|
これより渡航準備と『賽金花』の翻訳に追われる。 |
1942 |
昭和17 |
1 |
|
|
|
「小生近く渡支するかもしれません。実現すれば(目下交渉中)月末に発って北京へ行き上海を廻って3月中旬戻ります。 |
1942 |
昭和17 |
1 |
|
|
|
戦争によって小生心境に変化を生じ、再出発のため一度支那を見て来たいのと、友人から頼まれた仕事と、回教関係の調査を兼ねています」(松枝茂夫あて手紙)。 |
1942 |
昭和17 |
2 |
12 |
|
|
前日仕上げた『賽金花』を生活社に渡して、夜、中国旅行に出立。 |
1942 |
昭和17 |
2 |
17 |
|
|
北京着。関係機関にあいさつ、日中の旧友と再会、市内の回教寺院等を視察。 |
1942 |
昭和17 |
2 |
|
|
|
友人Nと同棲していた中国人女性と会い、従来の関係清算及び本を取り返す件で折衝を重ねる。 |
1942 |
昭和17 |
3 |
3 |
|
|
北京発。張家口、厚和(綏遠と帰化城を合せた地名)、包頭、大同、太原を回る。 |
1942 |
昭和17 |
3 |
15 |
|
|
北京帰着。 |
1942 |
昭和17 |
3 |
|
|
|
月末まで滞在し、Nの件を解決。 |
1942 |
昭和17 |
3 |
31 |
|
|
松枝と北京発 |
1942 |
昭和17 |
4 |
2 |
|
|
徐州で別れる。 |
1942 |
昭和17 |
4 |
|
4 |
24 |
24日まで、開封、徐州、南京、上海、蘇州、杭州を回る。上海ではとくに細民層の住宅事情と民家の構造を調査。 |
1942 |
昭和17 |
4 |
27 |
|
|
東京着。 |
1942 |
昭和17 |
6 |
|
|
|
『中国文学』の「旅日記抄一」を脱稿、以後「四」までを同誌に連載したほか、『支那』『蒙古』『回教圏』に旅行報告を執筆。 |
1942 |
昭和17 |
5 |
|
|
|
「日本文学報国会」発足。「これを職能団体と認め」て加入した(別冊)。 |
1942 |
昭和17 |
8 |
|
|
|
訳書『賽金花』。 |
1942 |
昭和17 |
8 |
|
|
|
中野重治『斎藤茂吉ノ―ト』を読んで衝撃をうける。 |
1942 |
昭和17 |
10 |
|
|
|
『中国文学』88号の松枝茂夫訳「思痛記」第2回が残酷すぎると当局から注意をうける。89号後記に注意があった旨を書いたところ、それがいけないとまた注意をうけた。 |
1942 |
昭和17 |
11 |
3 |
|
|
東京で第1回大東亜文学者大会開催。 |
1942 |
昭和17 |
11 |
|
|
|
この大会に「中国文学研究会としては、役人ぶった歓迎の片棒を担ぐことは伝統が許さぬのである」(「大東亜文学者大会について」全集14巻)として不参加。 |
1942 |
昭和17 |
12 |
4 |
|
|
「思痛記もあんな事情で生活社がやゝ難色を示しています。――小生と生活社との関係は去年の今ころの日米会談に似ています。十二月八日は免れぬようです。 |
1942 |
昭和17 |
12 |
4 |
|
|
双書もこのまゝで進行中の分を除き打切リにしたいと考えています」(松枝茂夫あて葉書)。 |
1942 |
昭和17 |
12 |
|
|
|
『中国文学』91号(1943年1月1日発行)後記に「近く根本的な改革が行われるかもしれぬ」と予告。 |
1943 |
昭和18 |
|
|
|
|
33歳 |
1943 |
昭和18 |
1 |
23 |
|
|
武田泰淳宅に同人が会し、竹内の提案で「中国文学研究会」の解散と雑誌『中国文学』廃刊を決定。 |
1943 |
昭和18 |
2 |
|
|
|
作家論『魯迅』の執筆を進める。 |
1943 |
昭和18 |
2 |
|
|
|
以後、秋まで執筆継続。 |
1943 |
昭和18 |
3 |
1 |
|
|
『中国文学』終刊号(92号)に「『中国文学』の廃刊と私」を掲載。 |
1943 |
昭和18 |
4 |
|
|
|
大阪屋号書店に葉紹鈞『小学教師倪煥之』(9月刊)の訳稿を渡し、3百円前借。 |
1943 |
昭和18 |
5 |
|
6 |
|
5、6月、『三田新聞』『国際文化』『揚子江』『文学界』などに執筆。 |
1943 |
昭和18 |
7 |
|
|
|
『コギト』7月号の「コギト同人新刊重刊著書目録」に竹内訳『賽金花』が挙げられる。 |
1943 |
昭和18 |
7 |
|
|
|
竹内がコギト同人に加わったいきさつについては、影山正治が次のように述べている。 |
1943 |
昭和18 |
7 |
|
|
|
「氏は大阪高等学校(旧制)時代、保田与重郎、田中克己、肥下恒夫氏ら『コギト』中枢の人々と同級生で、その後ずつと交友関係を保ちながらも、 |
1943 |
昭和18 |
7 |
|
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『コギト』には入らなかつたが、ごく末期に至り(『コギト』の終刊は昭和19年9月)、田中克己氏から“やがてものを書く場所がなくなる。 |
1943 |
昭和18 |
7 |
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しかし『コギト』は絶対やめないから、最後の書く場所になり得る。 |
1943 |
昭和18 |
7 |
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その意味で入つて置け”と云ふやうにすすめられ、しばらく考へた上で同人に加つたものの如くである。実際には一度も筆はとらなかつた」(『民族派の文学運動』大東塾出版部、1965年3月刊)。 |
1943 |
昭和18 |
8 |
25 |
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東京で第2回大東亜文学者大会開催。この大会に議員として参加するよう勧められたが辞退。 |
1943 |
昭和18 |
11 |
9 |
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日本評論社へ『魯迅』の原稿を渡し、二百円前借。 |
1943 |
昭和18 |
12 |
1 |
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召集令状。 |
1943 |
昭和18 |
12 |
4 |
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千葉県印旛郡佐倉町東部第六四部隊入隊。中支派遣独立混成第一七旅団(通称、峰部隊)補充要員となる。 |
1943 |
昭和18 |
12 |
9 |
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母、妹、叔父および野原四郎、武田泰淳が面会にくる。 |
1943 |
昭和18 |
12 |
10 |
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佐倉出発。 |
1943 |
昭和18 |
12 |
28 |
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湖北省成寧にて歩兵第八八大隊に配属、粤漢鉄道(広東―漢口間)沿線の警備にあたる。 |
1944 |
昭和19 |
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34歳 |
1944 |
昭和19 |
1 |
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第三中隊に配属。同中隊の古参上等兵に旧同人の斎藤秋男がいた。 |
1944 |
昭和19 |
3 |
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暗号手教育をうけたが、計器類を運搬する体力がないため失格。 |
1944 |
昭和19 |
5 |
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命令受領(伝令兵)となり、湖南省華容県北景港の大隊本部に勤務。 |
1944 |
昭和19 |
6 |
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大隊の作戦行動中に命令受領を辞し、機関銃隊に配属となる。 |
1944 |
昭和19 |
6 |
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独立混成旅団は、老兵、学徒兵ら弱卒の寄せ集めで、あまり第一線には立たないが、「部落を占拠していた敵軍と正面衝突した」(本人談)のはこの6月のことであろう。 |
1944 |
昭和19 |
6 |
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一二回目の交戦で小隊長が戦死、二回目日は小競合に終った。地雷でばらばらにふきとばされた遺骸を目撃。敵は殺さなかった。行軍中、落伍するので有名だった。 |
1944 |
昭和19 |
6 |
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落馬して意識不明になったこともある。アメ―バ赤痢にも苦しんだ」(本人談)。 |
1944 |
昭和19 |
7 |
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大隊本部勤務となり、北景港に移る。宣撫班に所属。 |
1944 |
昭和19 |
7 |
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日本語学校を開設。中国語教育をも行う。 |
1944 |
昭和19 |
7 |
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このころ、斎藤秋男と時々顔を合せた。 |
1944 |
昭和19 |
12 |
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作家論『魯迅』。3000部。校正は武田に依頼。 |
1945 |
昭和20 |
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35歳 |
1945 |
昭和20 |
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春、第三中隊を離れ、本部付となる。 |
1945 |
昭和20 |
5 |
10 |
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旅団司令部勤務を命ぜられ、月末、湖南省岳州にて報道班に入る。中国語教育の助手となる。 |
1945 |
昭和20 |
8 |
15 |
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岳州にて敗戦。国府軍の進駐を応援。 |
1945 |
昭和20 |
8 |
31 |
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31日付、現地召集解除。 |
1945 |
昭和20 |
9 |
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9月末、岳州より漢口に赴く。 |
1945 |
昭和20 |
9 |
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このころ謝冰瑩に会う。 |
1945 |
昭和20 |
10 |
10 |
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漢口より武昌に赴き、第四野鉄司令部鉄道運営隊(鉄道関係の旧軍属の組織)の臨時通訳となる。以後、前線出張数度、長沙出張一度。 |
1946 |
昭和21 |
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36歳 |
1946 |
昭和21 |
1 |
10 |
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『和平日報』(漢口市、和平日報社)に「不堪回首――献給謝冰瑩先生――」掲載。戦後はじめての文章で、「原稿紙がなくて白紙に毛筆で書いた」(「『魯迅雑記』あとがき」全集13巻)。 |
1946 |
昭和21 |
6 |
26 |
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復員。品川駅でおりたため東京駅に出迎えた妹と会えず、武田泰淳(4月、上海から復員)を目黒の家に訪ねて1泊。 |
1946 |
昭和21 |
6 |
27 |
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武田の案内で家族の移転先(浦和市北浦和町1丁目92番地、渡辺方。渡辺は妹の嫁ぎ先)に帰る。 |
1946 |
昭和21 |
8 |
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この3月に旧同人の岡崎俊夫、千田九一らによって雑誌『中国文学』が93号から復刊されていたが、竹内はこれを復刊と認めず、「覚書」を書いた。 |
1946 |
昭和21 |
8 |
20 |
8 |
30 |
義母とともに福島県飯坂温泉に行く。 |
1946 |
昭和21 |
9 |
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|
9月以降、毎週木曜日に開かれていた中国文学研究会旧同人の例会(中文の会)に毎回出席(銀座、北海タイムスビル。例会は場所をかえながら1953年ころまで続けられた)。 |
1946 |
昭和21 |
9 |
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留守中、知人の世話で東大の支那哲文研究室にあずけていた蔵書が散逸していたため、10月にかけて整理に通う。 |
1946 |
昭和21 |
9 |
7 |
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浦和市常盤町3丁目日14番地、清水方に移転。8畳1間、義母と二人。 |
1946 |
昭和21 |
11 |
1 |
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東大の本を文求堂へ移す。 |
1946 |
昭和21 |
11 |
9 |
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|
『魯迅』(改訂第二刷。5000部)。本書校正の際(9月)、「支那」が「中国」に直されていたことに抗議したが、すでに校了になっているからもどさないでくれと言われる。 |
1946 |
昭和21 |
11 |
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|
例会の会場が菊正ビルにかわる。 |
1946 |
昭和21 |
12 |
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東大教授倉石武四郎から東大助教授に招請されたが、辞退。 |
1947 |
昭和22 |
|
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37歳 |
1947 |
昭和22 |
2 |
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前年10月から翻訳を進めてきた『魯迅作品集』(鎌倉文庫刊行予定)、翻訳権がとれないため出版不能となる。 |
1947 |
昭和22 |
2 |
|
|
|
前年9月以来準備してきた茅盾『西北見聞記』(東方書局刊行予定)も校了になっていたが、同じく出版不能。 |
1947 |
昭和22 |
2 |
9 |
|
|
『近代文学』の『魯迅』合評会に出る。 |
1947 |
昭和22 |
3 |
31 |
|
|
東大の本の散逸事件で関係者あて百通の手紙を出す(全集13巻参照)。 |
1947 |
昭和22 |
6 |
8 |
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|
弟潔復員。しばらく同居。 |
1947 |
昭和22 |
8 |
22 |
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|
小田切秀雄から世界評論祉「世界文学はんどぶっく」シリ―ズに『魯迅』執筆の依頼をうけ、諾。このとき新日本文学会への入会を誘われたが断る。 |
1947 |
昭和22 |
9 |
|
|
|
本年2月より翻訳にかかっていた『魯迅評論集』(大阪朝日新聞社から刊行予定)も翻訳権問題で出版不能となる。 |
1947 |
昭和22 |
9 |
11 |
|
|
武田泰淳が北海道大学法文学部助教授にきまり、送別会(武田は1948年5月に辞職)。 |
1947 |
昭和22 |
9 |
30 |
|
|
東洋文化研究所ではじめて丸山真男に会う。 |
1947 |
昭和22 |
10 |
11 |
|
|
「世界文学はんどぶっく・魯迅』起稿。以後継続するも難航。 |
1947 |
昭和22 |
|
21 |
|
|
東洋文化研究所で茅盾の近作について講演。 |
1947 |
昭和22 |
11 |
15 |
|
|
東洋文化研究所主催の公開講座で講演、演題「魯迅の歩いた道――中国における近代意識の形成」(これが「近代とは何か」の母胎となった)。 |
1948 |
昭和23 |
|
|
|
|
38歳 |
1948 |
昭和23 |
1 |
25 |
|
|
湯島聖堂で講演。今まででもっとも調子がでる。 |
1948 |
昭和23 |
1 |
31 |
|
|
作家論『世界文学はんどぶっく・魯迅』脱稿(10月刊)。 |
1948 |
昭和23 |
2 |
14 |
|
|
『綜合文化』で講演。集りわるく、花田清輝、佐々木基一ら欠。講演料300円。 |
1948 |
昭和23 |
2 |
29 |
|
|
文求堂から本を渡辺方に運ぶ。 |
1948 |
昭和23 |
4 |
12 |
|
|
「中国の近代と日本の近代」(のち改題「近代とは何か」)脱稿。 |
1948 |
昭和23 |
5 |
16 |
|
|
「指導者意識について」脱稿。 |
1948 |
昭和23 |
|
|
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このころ花田清輝らの真善美社(『綜合文化』)に時々行く。 |
1948 |
昭和23 |
|
|
|
|
引越しのため貸家捜し。 |
1948 |
昭和23 |
6 |
7 |
|
|
浦和市仲町2丁目128番地に転居。 |
1948 |
昭和23 |
6 |
24 |
|
|
『思想の科学』合本Ⅱを買う。 |
1948 |
昭和23 |
7 |
15 |
|
|
菊正ビル(中文の会の会場)に鶴見俊輔が訪ねてくる。 |
1948 |
昭和23 |
8 |
5 |
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|
中文の会例会で杉照子(翌年結婚)に会う。杉は当時、東方書局編集員(東方書局専務、上条寛雄は杉の義弟にあたる)。 |
1948 |
昭和23 |
8 |
30 |
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|
思想の科学の会に出席。 |
1948 |
昭和23 |
10 |
12 |
|
|
「鶴見俊輔からはがき、“『指導者意識』拝見、一種の感激を以って読みました、批評とゆうものにこれほど心を動かされた事はありません”とある。うれしい」(日記。全集16巻)。 |
1948 |
昭和23 |
10 |
16 |
|
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中国代表部に郭心崧を訪ね、魯迅翻訳権の取得を頼んだが徒労に終る。 |
1948 |
昭和23 |
10 |
16 |
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『世界文学はんどぶっく・魯迅』。3500部、印税13パ―セント。 |
1948 |
昭和23 |
12 |
16 |
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「中国人の抗戦意識と日本人の道徳意識」脱稿。 |
1949 |
昭和24 |
|
|
|
|
39歳 |
1949 |
昭和24 |
1 |
12 |
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藤間生大から日本共産党入党をすすめられたが、ことわる。 |
1949 |
昭和24 |
3 |
7 |
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杉照子と結婚。当日(父の命日)多摩霊園に墓参し、集まった少数の親族に杉を紹介して結婚式とした。 |
1949 |
昭和24 |
3 |
8 |
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奥野信太郎のすすめで、慶応義塾大学文学部非常勤講師を受諾(1955年3月まで)。 |
1949 |
昭和24 |
6 |
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評論集『魯迅雑記』。定価200円、2000部、印税少なく当てが外れる。 |
1949 |
昭和24 |
7 |
14 |
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「思想の科学研究会」発会式に出席、入会。 |
1949 |
昭和24 |
9 |
12 |
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北京時代の友人長野賢の追悼会に出席。弟の長野広生に会う。 |
1949 |
昭和24 |
9 |
12 |
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慶応にまとめて本を売り、10000円。 |
1949 |
昭和24 |
9 |
12 |
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『展望』9月号に「伝統と革命」。これがはじめての寄稿で以後常連となる。12000円の稿料で一息ついた。 |
1949 |
昭和24 |
10 |
19 |
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明治大学で開かれた魯迅祭で講演。中野重治とあいさつをかわす。 |
1949 |
昭和24 |
10 |
25 |
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『展望』の井上達三にさそわれて座談会『進歩・保守・反動』に出席。謝礼3000円。 |
1949 |
昭和24 |
10 |
25 |
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柳田国男に会う。 |
1949 |
昭和24 |
10 |
25 |
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このころ生活苦しく、売り食いがつづく。 |
1950 |
昭和25 |
|
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40歳 |
1950 |
昭和25 |
1 |
15 |
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倉石武四郎からかさねて東大に非常勤で出講の交渉をうけたが、慶応のほうがよろこばぬせいもあって断る。 |
1950 |
昭和25 |
1 |
15 |
|
|
同時に、魯迅全集を岩波書店で出す相談をうける。この件については2、3月にかけて岩波側と折衝、選集案を進言。 |
1950 |
昭和25 |
1 |
|
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|
この月、コミンフォルムによる野坂参三の平和革命論批判。 |
1950 |
昭和25 |
1 |
|
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これに関して『展望』に出したアンケ―ト「ゴマカシとタワゴト」がきっかけとなり、臼井吉見の依頼をうけて「日本共産党に与う」を書く(2月21日脱稿)。 |
1950 |
昭和25 |
2 |
16 |
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長女裕子誕生。 |
1950 |
昭和25 |
2 |
18 |
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魯迅の件その他で岩波書店へ。林達夫、久野収らと語る。 |
1950 |
昭和25 |
4 |
19 |
|
|
前回教圏研究所所長大久保幸次死去。 |
1950 |
昭和25 |
4 |
24 |
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告別式に出る。 |
1950 |
昭和25 |
5 |
|
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「ちかごろ共産党で当りをとってから雑文の注文が割にあって、手っとり早い収入の道なので、つい引受けてしまうので勉強の時間がちっともありません。 |
1950 |
昭和25 |
5 |
|
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これではダメだから何とかしたいが相手がおりません。十年かゝれば何か一つくらいまとまるだろうと考えました。どんなちっぽけなものでもいいから、十年計画なら史記でも何でもいいのです」(松枝茂夫あて手紙)。 |
1950 |
昭和25 |
5 |
|
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『世界文学はんどぶっく・魯迅』『魯迅雑記』がゾッキに出て、幻滅。 |
1950 |
昭和25 |
8 |
5 |
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家族で臼田へ。帰途、塩壺温泉により、9日帰宅。 |
1950 |
昭和25 |
9 |
26 |
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E・H・ノ―マンの送別会に出席。魯迅について若干話す。 |
1950 |
昭和25 |
10 |
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|
『現代中国文』(中国語教科書)。 |
1950 |
昭和25 |
10 |
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このころ各社に原稿料催促にまわるのが日常化する。 |