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竹内好の軌跡

竹内好年譜 1951年~1965年

ここに表示する「竹内好年譜」は『竹内好全集』第17巻所収のものを、一部の誤植を訂正することを条件に、制作者久米旺生さんに掲載の了解をいただきました。
「竹内好を記録する会」での作業のために、使用する検索ソフトに合わせた加工を施してありますが、内容は同じです。

1910年~1930年 1931年~1950年
1951年~1965年 1966年~1980年

『竹内好全集』所収「年譜」より
西暦 和暦 事項
1951 昭和26 41歳
1951 昭和26 3 1 「評伝毛沢東」脱稿。109枚。
1951 昭和26 3 6 はじめて中野重治訪問。午後3時から8時まで酒を供されて懇談。文章のことなど(前年春以来、中野重治論を構想していた)。
1951 昭和26 3 28 近代文学と中文の会のメンバ―合同で湯河原へ1泊旅行。
1951 昭和26 4 1 浦和市仲町2丁目98番地の一戸建へ転居。
1951 昭和26 4 24 慶応に本を売る、15,000円入金。
1951 昭和26 5 19 河出書房で『国民講座』の打合せ会。清水幾太郎、中島健蔵、阿部行蔵、荒垣秀雄ら。
1951 昭和26 5 26 東大5月祭で講演、「平和と文学」。
1951 昭和26 5 30 学習院大学の清水幾太郎研究室で、中国インテリの初期について話す。討論活発。
1951 昭和26 6 「近代主義と民族の問題」脱稿。国民文学論争の発端となる。
1951 昭和26 6 11 法政文芸会で、戦後中国文学の動向について講演。壺井繁治にあう。
1951 昭和26 6 24 岩波書店の雑誌『文学』の編集方針を相談する会に出席。
1951 昭和26 6 30 日中友好協会主催の文芸講演会で講演。
1951 昭和26 7 林語堂『嵐の中の木の葉』訳出のため杉山市平とかんづめ。
1951 昭和26 7 5 東京都立大学で講演、武田泰淳と。
1951 昭和26 7 夕刻、日中翻訳出版懇話会に出席。
1951 昭和26 7 19 次女紹子誕生。
1951 昭和26 9 評論集『現代中国論』。
1951 昭和26 10 25 中文の会で湯河原へ1泊旅行。
1951 昭和26 11 18 11 24 米子、松江、出雲市にて魯迅記念講演会。
1952 昭和27 42歳
1952 昭和27 1 これまで日本文学協会に依嘱されてきた『文学』が編集委員制となり、その1人に加わる(1957年2月まで)。
1952 昭和27 1 東京大学東洋文化研究所に入所を内諾(実現せず)。
1952 昭和27 1 『嵐の中の木の葉』売行き不振で当てが外れる。
1952 昭和27 2 2 朝日新聞調査部で魯迅と毛沢東について話す。
1952 昭和27 2 17 2 24 北九州へ松枝茂夫訪問旅行(松枝の東京都立大学赴任と東京移住がきまったため懸案を果たしたもの)。
1952 昭和27 2 17 2 24 兼ねて名古屋大学、北九州大学、九州大学で集中講義を行なったが、母危篤の報にて予定を端折って帰京(病気は軽症)。
1952 昭和27 4 このころ時々日教組へ行き、また日本文化人会議、日中翻訳出版懇話会に出る。
1952 昭和27 7 7 静岡高校で講演。
1952 昭和27 8 評論集『日本イデオロギイ』。
1952 昭和27 10 訳書、葉紹鈞『小学教師』。
1952 昭和27 10 4 4日より東京大学非常勤講師(翌年1月24日に了)。
1953 昭和28 43歳
1953 昭和28 1 思想の科学研究会編『芽』の出版企画委員となる(1954年5月まで)。
1953 昭和28 1 10 武田家(長泉院)で家族とともに新年会。
1953 昭和28 1 18 1 20 臼田。
1953 昭和28 1 19 青沼小学校で講演。
1953 昭和28 1 25 1 31 九州大学集中講義。
1953 昭和28 2 それより2月上旬、有田、嬉野、佐賀から大阪へ。
1953 昭和28 2 帝塚山短大、大阪市立大、大阪外語大で講演。天理を経て10日帰京。
1953 昭和28 2 訳書『魯迅評論集』。
1953 昭和28 3 総評、社会党から衆議院議員(第26回総選挙)立候補をすすめられ断る。
1953 昭和28 4 14 4 17 総評の依頼で宇部、下関で講演。
1953 昭和28 5 訳書『魯迅作品集』。
1953 昭和28 5 24 東大五月祭エスポア―ル国民文学講演会。
1953 昭和28 6 作家論『魯迅入門』。
1953 昭和28 6 東京都立大学人文学部教授となる。
1953 昭和28 6 6 福永健司官房長官選挙違反糾弾浦和市民大会委員長となる(「市民大会始末」全集13巻参照)。
1953 昭和28 7 27 思想の科学研究会会長就任。月例研究会毎回出席。
1953 昭和28 8 5 8 14 四国に家族旅行。
1953 昭和28 9 『中国革命の思想』(山口一郎、斎藤秋男、野原四郎と共著)、2年間にわたって岩波書店でつづけてきた現代中国思想研究会の成果。
1953 昭和28 11 岩波講座『文学』(全8巻)を共編。
1953 昭和28 11 19 11 28 大阪市立大学集中講義。
1954 昭和29 44歳
1954 昭和29 1 1 1 6 家族と千葉県鴨川、白浜で過す。
1954 昭和29 1 14 14日~17日静岡県相良市で15日に成人の日の講演。静岡によって帰着。
1954 昭和29 1 30 1 31 京都、河上肇祭で講演。
1954 昭和29 1 評論集『国民文学論』。
1954 昭和29 2 1 2 8 名古屋大学集中講義。
1954 昭和29 2 『現代中国文学全集』(全14巻)を共編。
1954 昭和29 2 同全集第1巻『魯迅篇』(松枝茂夫と共訳)。
1954 昭和29 4 岩波講座『文学の創造と鑑賞』の編集会議、雑誌『思想の科学』講談社版創刊の会頻繁。
1954 昭和29 4 住宅金融公庫にあたって土地捜しに追われる。
1954 昭和29 5 講談社版『思想の科学』創刊に際して、思想の科学研究会評議員となる。
1954 昭和29 7 10 思想の科学研究会総会で1953年度事業報告。
1954 昭和29 7 『魯迅作品集』の読者を中心とする読者組織「魯迅友の会準備会」を創立、機関誌『魯迅友の会会報』第1号(不定期刊)発刊。
1954 昭和29 8 9 8 10 信濃木崎夏期大学出講、演題「中国近代文学の特質」。
1954 昭和29 8 17 南佐久教育会で、国民文学について講演。
1954 昭和29 9 訪中学術文化視察団参加を勧められたが辞退。
1954 昭和29 9 『プロレタリア文学大系』(全9巻)を共編(1955年2月刊、第8巻を担当、執筆)。
1954 昭和29 9 10 松本市県ヶ丘高校で講演。
1954 昭和29 10 31 静岡大学で中国文学と国民文学について講演。
1954 昭和29 11 岩波講座『文学の創造と鑑賞』(全5巻)を共編。
1954 昭和29 11 評論集『知識人の課題』。
1954 昭和29 12 8 明治大学で生活と文学について講演。
1954 昭和29 12 16 東京都武蔵野市吉祥寺426(現、吉祥寺東町)に転居。
1955 昭和30 45歳
1955 昭和30 2 5 2 15 北海道大学集中講義。
1955 昭和30 4 東京大学大学院講師(2年間)。
1955 昭和30 4 16 『サンデ―毎日』に出た『思想の科学』編集に関するゴシップ記事(毎月講談社からでている編集費20万円を編集スタッフのひとりが不当に他に流用しているというもの)をめぐって、同研究会臨時総会。
1955 昭和30 4 16 席上、会長として経過報告をおこなう。
1955 昭和30 6 22 学習院大学で国民文学について講演。
1955 昭和30 7 訳書、魯迅『野草』。
1955 昭和30 7 訳書『続魯迅作品集』。
1955 昭和30 7 9 思想の科学研究会総会で1954年度事業・一般報告、同会会長職を辞任(評議員は継続、毎回出席)。
1955 昭和30 8 8 10 信濃木崎夏期大学出講、演題「魯迅の文学」。
1955 昭和30 8 16 8 19 静岡、茅ヶ崎へ家族旅行。
1955 昭和30 9 17 カゼをこじらせて入院。直腸膿瘍手術。
1955 昭和30 10 8 退院。
1955 昭和30 11 訳書、魯迅『阿Q正伝・狂人日記』。
1955 昭和30 12 このころから岩波書店『魯迅選集』の話はじまる。
1956 昭和31 46歳
1956 昭和31 1 日教組教研講師に就任。ただし病気のため実際の参加は1957年の第6次集会から(1959年3月辞任)。
1956 昭和31 5 8 8日から1週間ほど熱海の岩波書店別荘に滞在、魯迅『両地書』を訳了。
1956 昭和31 5 19 5 21 長野県伊那市に講演旅行。
1956 昭和31 5 岩波書店『魯迅選集』(全12巻、別巻1)を共編。
1956 昭和31 5 第三巻『故事新編・両地書第一集』(松枝茂夫と共訳)。
1956 昭和31 6 16 16日から1週間余、熱海に滞在、『魯迅選集』の校正、解説など。
1956 昭和31 6 第一巻『吶喊・野草』。
1956 昭和31 7 第二巻『彷徨・朝花夕拾』。
1956 昭和31 8 第四巻『両地書第二集・第三集』(松枝茂夫と共訳)。
1956 昭和31 8 7月末~8月中旬、長野県角間温泉にて毛沢東『文芸講話』翻訳(10月刊)。
1956 昭和31 8 20 原水禁世界大会中国代表として訪日した許広平女史(魯迅未亡人)と、岩波書店で懇談(「許広平氏を囲んで」、『魯迅案内』)。
1956 昭和31 11 1 没後20年を記念して魯迅展の開かれていた丸善で講演(「魯迅の思想と文学」)。
1957 昭和32 47歳
1957 昭和32 1 30 2 5 金沢の日教組教研集会に参加。
1957 昭和32 3 都立大学人文学部教授会、昼夜開講制を実質廃止し、A類・B類制にきりかえる方向にかたむく。この問題で大学辞任を考える。
1957 昭和32 4 文学教育の会設立発起人となる(「文学教育の会に望む」全集8巻)。
1957 昭和32 4 安保条約改定反対運動に加わる。
1957 昭和32 4 21 「魯迅友の会」正式に発足(同会は1979年3月に『魯迅友の会会報』第69号を発行して解散)。
1957 昭和32 5 17 「孫文観の問題点」脱稿(『思想』6月号、特集・孫文と日本)。
1957 昭和32 5 この特集のため前年2月ころから孫文の研究会が精力的に続けられた。
1957 昭和32 6 1 日本文化人会議総会で、都留重人が米国上院国内治安分科会に喚問された問題について報告。
1957 昭和32 6 21 現代中国思想研究会を発展解消して中国近代思想史研究会発足(規約を定む)。
1957 昭和32 7 7 思想の科学研究会総会に出席。
1957 昭和32 7 11 7 17 長野県蓼科高原へ(勁草書房の講座『現代芸術』を編集)。
1957 昭和32 7 30 日本文芸家協会から中国旅行をすすめられたが辞退。
1957 昭和32 7 27 27日~8月22日まで主として長野県角間温泉に家族と滞在。
1958 昭和33 48歳
1958 昭和33 1 3 埴谷雄高家のダンスパ―ティ。
1958 昭和33 1 23 1 31 別府の日教組教研集会に参加。
1958 昭和33 2 しきりに大学の辞職を考える。
1958 昭和33 3 勁草書房、講座『現代芸術』(全7巻)を共編(第5巻を担当)。
1958 昭和33 3 1 都立大学人文学部長選挙で小場瀬卓三と同点、おりる工作をしてまぬかれる。
1958 昭和33 5 12 テレビを購入。
1958 昭和33 5 14 武田泰淳『森と湖のまつり』完成慰労会の発起人を三島由紀夫と連名は困るという理由で断る。
1958 昭和33 5 29 憲法問題研究会発起人から参加の呼びかけをうける。
1958 昭和33 6 8 神田学士会館の憲法問題研究会第1回総会に出席。
1958 昭和33 6 訳書『現代中国文学全集3・茅盾篇』(共訳)。
1958 昭和33 6 都立大学に「近代文学懇談会」をつくる。
1958 昭和33 7 都立大学に朝鮮語科を設ける案を進める(10月から非公式に講師を招く)。
1958 昭和33 7 訳書『世界文学大系62、魯迅・茅盾篇』(共訳)。
1958 昭和33 7 13 7 17 都立大学中国文学研究室の合宿で長野県の海の口温泉。
1958 昭和33 8 5 8 12 長野県戸隠へ(6日に講演)。周辺を歩いて戸隠が気に入る(「戸隠だより」全集13巻参照)。
1958 昭和33 8 18 8 22 栃木県那須へ家族旅行。
1958 昭和33 10 20 護憲連合の警職法反対文化人の会に出席。
1958 昭和33 10 24 都立大学で警職法反対声明起草メンバ―に加わる。
1958 昭和33 10 27 思想の科学評議員会、警職法反対声明案文作成。
1958 昭和33 12 前月来、筑摩書房『近代日本思想史講座』のための集り頻繁。思想・文学畑のレポ―タ―を招いて討議。
1959 昭和34 49歳
1959 昭和34 1 22 1 27 大阪の日教組教研集会に参加。最終日の講師団会議で井上清らと激論(「危機の教研と日教組」全集8巻参照)。
1959 昭和34 1 29 谷口修太郎の案内で京都の部落問題研究所訪問。
1959 昭和34 3 JCJの朝日推薦評議員を引きうける(1961年4月まで)。
1959 昭和34 3 2 日教組教研集会講師辞任。
1959 昭和34 3 23 「安保条約改定問題に対する文化人の声明」に参加。
1959 昭和34 5 26 岡崎俊夫急死。のち遺稿集刊行などに尽力。
1959 昭和34 5 30 日本読書新聞と執筆関係を絶つ。文部省の青少年向図書選定問題に対する同社の態度に不満を表明したもの(1960年5月まで。「押しつけの図書『選定』」全集12巻参照)。
1959 昭和34 7 筑摩書房『近代日本思想史講座』を共編(全8巻。第一巻の刊行序言を起草。第7、8巻を直接担当)。
1959 昭和34 7 17 7 21 都立大学中国文学研究室の合宿で山梨県の増富温泉へ。
1959 昭和34 7 27 7 31 伊豆土肥、仁科へ家族旅行。
1959 昭和34 10 都立大学内に「安保の広場」をつくる。「安保問題研究会」に参加。
1959 昭和34 10 7 「近代の超克」116枚脱稿(『近代日本思想史講座』第7巻)。
1959 昭和34 10 9 「安保批判の会」成立、参加。
1959 昭和34 10 このころより積極的に安保廃棄の実践活動。
1959 昭和34 11 30 講演前日、谷口修太郎に京都の被差別部落を案内してもらう。
1959 昭和34 12 1 大阪朝日講堂での部落問題研究所主催の公開講演会で講演(「基本的人権と近代思想」)。
1960 昭和35 50歳
1960 昭和35 1 5 1 7 千葉県鵜原へ家族旅行。
1960 昭和35 1 25 国際基督教大学アジア文化研究委員会で講演(「方法としてのアジア」)。
1960 昭和35 3 都立大学中国文学研究室で学生を中心に学童疎開の研究をつづける(「『戦争体験』雑感」全集8巻参照)。
1960 昭和35 3 5 憲法問題研究会で「日中関係と中国問題」報告。
1960 昭和35 4 4 日比谷公会堂の「安保批判の会」批准反対請願大会で講演。そのあと数人で藤山愛一郎外相に面会。
1960 昭和35 4 26 文京公会堂の中国人俘虜強制連行殉難者国民大慰霊祭で講演(「殉難者の霊の前に」)。
1960 昭和35 5 安保反対運動に全力を傾注。
1960 昭和35 5 18 「安保批判の会」代表の一員として岸信介首相に面会。
1960 昭和35 5 21 19日夜の衆議院安保条約強行採決に抗議して、21日付で東京都立大学に辞表を提出。知人に「ごあいさつ」を送る。
1960 昭和35 5 31 「民主か独裁か」。
1960 昭和35 6 連日各所で講演。
1960 昭和35 6 2 「民主主義を守る全国学者・研究者の会」集会で「四つの提案」、12日憲法問題研究会「民主主義を守る講演会」で「私たちの憲法感覚」等。
1960 昭和35 6 19 部落問題研究所の評議員となる。
1960 昭和35 6 30 東京都から都立大学教授依願免職の辞令。
1960 昭和35 7 24 思想の科学研究会総会で報告(「五・一九前後の大衆運動をどう見るか」)。
1960 昭和35 8 3 8 18 伊豆仁科へ家族旅行。
1960 昭和35 8 社会党公認で国会議員選挙出馬のデマ。
1960 昭和35 9 13 名古屋の国民救援会で講演(「水に落ちた犬は打つべし」)。
1960 昭和35 9 14 杉浦明平を訪問。
1960 昭和35 9 23 「思想史研究会」(家永三郎、上原専禄、内田義彦、大塚久雄、佐々木斐夫、野田良之、丸山真男、のち市井三郎)の第1回会合。以後、同会に出席したあと丸山真男とともに帰宅することが多かった。
1960 昭和35 11 2 11 6 夫人と関西、淡路島へ。
1960 昭和35 11 3 関西学院大学で講演。
1960 昭和35 11 5 立命館大学で講演。
1960 昭和35 11 11 普通社(社長、八重樫昊)の共同研究「日本のなかの中国」の第1回会合で、尾崎秀樹の案をきく(研究会は1962年秋まで続く)。のちの「中国の会」の前身。
1961 昭和36 51歳
1961 昭和36 1 19 AA作家会議東京大会準備委員となる(3月28日~30日開催)。
1961 昭和36 2 1 嶋中事件(『中央公論』1960年12月号に深沢七郎「風流夢譚」がのったことで、右翼を自称する少年が中央公論社嶋中社長の私邸に押入り、夫人重傷、手伝いの女性死亡)。
1961 昭和36 2 3 思想の科学研究会評議員会の嶋中事件対策協議会に座長をつとめる。
1961 昭和36 2 4 「嶋中事件に関する声明」発表。
1961 昭和36 3 15 3 19 関温泉にはじめてのスキ―行。これより病みつきとなり、最晩年まで毎シ―ズン欠かさずスキ―に出かける。
1961 昭和36 4 11 貴司山治と、多磨墓地に徳田球一、浅沼稲次郎の墓参に来る許広平と会い、藤野厳九郎碑建立の話をする(前月来、建碑の運動が始まっていた)。
1961 昭和36 4 25 中央公論社で「満州国研究会」第1回。
1961 昭和36 4 26 武蔵野市立第四小学校PTA会長就任(1年間)。
1961 昭和36 7 評論集『不服従の遺産』。
1961 昭和36 7 27 8 12 伊豆仁科へ家族旅行。
1961 昭和36 8 5月来の茅盾『もみじは赤い』(『霜葉紅似2月花』)訳完成。
1961 昭和36 10 5 瑞聖寺で『天上人間――岡崎俊夫文集』出版記念会。
1961 昭和36 11 3 11 4 熱海で大高7回生の卒業三十年の会。
1961 昭和36 11 11 日本橋精養軒で「朝鮮研究所」創立総会(9月以来創立発起人)。
1961 昭和36 12 中央公論社、『思想の科学』1962年1月号「天皇制特集号」を断裁廃棄処分。
1961 昭和36 12 26 12 27 これをめぐって26日夕刻より翌27日明方5時まで思想の科学研究会評議員会。激論のすえ、竹内の発言によって『思想の科学』1月号発売中止をきっかけに中央公論社と円満に関係を断つこととする。
1962 昭和37 52歳
1962 昭和37 1 2 武田泰淳一家、埴谷雄高夫妻と夜半まで宴会。
1962 昭和37 1 8 「蓮の実会」に出る。
1962 昭和37 1 28 思想の科学研究会評議員会。中央公論社の背信行為(廃棄した1月号を公安調査庁に見せたこと)に対する抗議、雑誌自主出版計画の推進をきめる(「思想団体の原理と責任」全集9巻参照)。
1962 昭和37 2 訳書、毛沢東「矛盾論」(『世界教養全集』15)。
1962 昭和37 2 魯迅「阿Q正伝」ほか、茅盾「もみじは赤い」(『世界文学全集47、魯迅・茅盾篇』)。
1962 昭和37 2 『中国現代文学選集』(全20巻)を共編。
1962 昭和37 2 18 2 21 猪苗代ヘスキ―行。右足を捻挫。
1962 昭和37 2 25 思想の科学研究会臨時総会の議長をつとめる。新雑誌推進と声明をきめる。
1962 昭和37 3 思想の科学社設立、社員となる。
1962 昭和37 3 訳書、茅盾「酉北見聞記」(『中国現代文学選集15、記録文学集Ⅰ』)。
1962 昭和37 3 「毛沢東思想の受けとり方――『矛盾論』の翻訳について」(『思想』3月号)。
1962 昭和37 3 これに対して松村一人、竹内実の反論が出され、翌年1月号の『思想』に「ふたたび毛沢東思想について」を執筆。
1962 昭和37 4 1 1日の日付から、みすず書房のPR誌『みすず』に「日誌抄」の連載始まる(1964年3月まで)。当初は半年間の予定であった。
1962 昭和37 4 『思想の科学』自主刊行第1号。
1962 昭和37 4 22 国民文化会議に出席。国民概念について感想を述べる。
1962 昭和37 5 3 憲法問題研究会の講演会で話す(「自衛と平和」)。
1962 昭和37 5 7 「小新聞の会」発足(1965年ころまで。「小新聞の可能性」全集12巻参照)。
1962 昭和37 5 9 「岡倉天心」脱稿。
1962 昭和37 6 6 塩谷温の告別式に参列。
1962 昭和37 7 5 アジア・フォ―ド財団資金問題に関する全中国研究者シンポジウムに出席。
1962 昭和37 7 5 この前後、同問題に関して何度か発言(「全中国研究者シンポジウムについて」等)。
1962 昭和37 7 29 8 18 伊豆蓮台寺、仁科に家族旅行。
1962 昭和37 9 訳書、葉紫「夜哨線」、艾蕪「山峡中」(『中国現代文学選集7、抗戦期文学集Ⅰ』)。
1962 昭和37 9 15 木曽福島へ。
1962 昭和37 9 16 講演。馬籠をまわる。
1962 昭和37 9 18 帰着。
1962 昭和37 9 このころ、碁をはじめる。三十数年ぶり。
1962 昭和37 10 27 仙台へ。青葉城址の魯迅記念碑を見る。
1962 昭和37 10 28 気仙沼で講演。
1962 昭和37 10 29 29日から、都立大卒業生の守屋洋と平泉の中尊寺、花巻の鉛温泉、高村光太郎の「高村山荘」をみる。
1962 昭和37 10 31 帰着。
1962 昭和37 11 21 京都へ。
1962 昭和37 11 23 下賀茂に青木正児を訪問。夜、大高7回生の同窓会。
1962 昭和37 11 24 帰着。
1962 昭和37 12 27 1 7 スキ―行。奥只見で新年を迎える。
1962 昭和37 12 この月、「明治維新研究会」に参加(同会は思想の科学内のサ―クルが発展したもの。主宰者は市井三郎)。
1963 昭和38 53歳
1963 昭和38 1 4 関山に移動、鶴見俊輔一家と合流。
1963 昭和38 1 25 中国近代思想史研究会。
1963 昭和38 2 「日本のなかの中国」研究会を「中国の会」と改称、雑誌『中国』創刊号を「中国新書」の別冊付録として普通社から発刊、編集責任者となる。スタッフは橋川文三、尾崎秀樹。
1963 昭和38 2 はじめ飯倉照平、のちに今村与志雄がこれに協力した。同誌に「中国を知るために」を連載開始。
1963 昭和38 2 4 思想の科学社社員会に出席。久野収社長の辞任問題でもめる。
1963 昭和38 2 6 2 10 夫人と鹿沢にスキ―行。
1963 昭和38 2 12 アサヒ芸能出版社(当初は経営思潮研究会名儀、同社はのち徳間書店と社名変更)から、『中国の思想』全12巻の監修を頼まれる(のち承諾)。訳者は都立大学中国文学出身者を中心とする柿の会の同人。
1963 昭和38 2 14 満州国研究会。
1963 昭和38 2 16 明治維新研究会。
1963 昭和38 2 21 2 26 乗鞍ヘスキ―行。
1963 昭和38 2 25 左足を捻挫し、3月1日~13日まで入院加療(「スキ―頌」全集13巻参照)。
1963 昭和38 3 3 軍隊時代おなじ部隊にいた三谷作七の依頼で碑文を執筆した「黎明の碑」が、大宮市島根の氷川神社境内に建立される(「黎明の碑」)。
1963 昭和38 4 思想の科学社監査役となる。
1963 昭和38 4 17 4 23 捻挫の治療と茅盾『子夜』(訳題『夜明け前』)の翻訳をかねて伊豆蓮台寺に滞在。
1963 昭和38 5 「中国の会」事務所を千代田区神田三崎町2の28、東光ビル内の一室に設ける。
1963 昭和38 5 8 18 茅盾の翻訳でふたたび蓮台寺。
1963 昭和38 5 前月来、翻訳とあわせて『現代日本思想大系・アジア主義』の編集・解説をすすめていた。
1963 昭和38 5 22 痔瘻再発のため永沢外科に入院
1963 昭和38 5 23 手術。
1963 昭和38 7 1 1日の退院まで、病院で仕事を続ける。
1963 昭和38 6 6 来日中の旧友杜宣の見舞をうける。
1963 昭和38 8 9 8 24 蓮台寺、仁科に家族旅行。茅盾の訳を続行。
1963 昭和38 9 訳書、茅盾「夜明け前」(『中国現代文学選集4、長篇小説1』)。
1963 昭和38 10 5 『中国の思想』の研究会にはじめて出る。
1963 昭和38 10 この月、思想の科学の市民学校に4回出講、テ―マ「中国と日本」。
1963 昭和38 12 4 中国学術代表団の侯外盧を囲む会に出席。
1963 昭和38 12 25 義母、死去。
1963 昭和38 12 26 山田温泉から山田牧揚へ家族でスキ―行。都立大学のグル―プと合流し、同地で越年。五色温泉にまわる。
1964 昭和39 54歳
1964 昭和39 1 4 帰着。
1964 昭和39 1 31 小新聞の会。
1964 昭和39 2 岩波書店『魯迅選集』増補改訂版(全13巻)を共編。
1964 昭和39 2 2 思想史研究会。
1964 昭和39 2 7 2 10 石打ヘスキ―行。
1964 昭和39 2 16 明治維新研究会。
1964 昭和39 2 26 白樺湖ヘスキ―行。菅平にまわって鶴見良行、鶴見俊輔らと合流。
1964 昭和39 3 4 臼田に立ちより、6日帰着。
1964 昭和39 3 27 3 31 沼尻ヘスキ―行。
1964 昭和39 4 国際基督教大学で中国の近代化の過程について議義(講義、と思われる=編者注)(6月下旬まで8回)。
1964 昭和39 4 10 小新聞の会。
1964 昭和39 4 12 福井市足羽山公園の藤野先生碑除幕式に参列(「『惜別』の碑への感慨」全集2巻参照)。敦賀を経て15日帰着。
1964 昭和39 4 18 憲法問題研究会に出席。
1964 昭和39 4 22 青森の酸ヶ湯温泉ヘスキ―行。十和田、湯瀬、弘前をまわって、28日帰着。
1964 昭和39 5 『中国の思想』全12巻を監修(松枝茂夫と)。前年秋に始まって1965年末まで、全巻に徹底的に目を通す。
1964 昭和39 5 3 憲法問題研究会の講演会に出席。
1964 昭和39 5 5 思想史研究会。
1964 昭和39 5 10 佐藤春夫の葬儀に出る。
1964 昭和39 5 16 橘樸追悼会であいさつを述べる。
1964 昭和39 6 前年9月から普通社の倒産で刊行がとまっていた「中国新書」は勁草書房が引き継ぎ、雑誌『中国』は会が自主刊行することとし、新出発準備号(第7号)に「会と雑誌のとりきめ」暫定案を発表。
1964 昭和39 6 本年は、これより第13号までを編集発行。自主刊行期の会の実務は藤本幸三が主に担当した。
1964 昭和39 6 6 『みすず』の「日誌抄」3月分(最終回)を渡す。
1964 昭和39 6 6 旧中国文学研究会の記録づくりの会、第1回。
1964 昭和39 6 13 憲法問題研究会。
1964 昭和39 6 22 小新聞の会、運営打合せ。
1964 昭和39 6 28 思想史研究会。
1964 昭和39 7 10 中国近代思想史研究会。
1964 昭和39 7 13 小新聞の会。
1964 昭和39 8 3 8 11 千葉県上総湊に家族旅行。
1964 昭和39 8 17 8 22 『中国の思想』訳者グル―プと長野県霧積温泉に合宿。
1964 昭和39 8 25 AA作家会議で杜宣と会い、前回とおなじく訪中をすすめられる。
1964 昭和39 8 31 中央公論社嶋中社長、笹原編集長に、鶴見俊輔とともに会う。
1964 昭和39 9 『中央公論』10月号の「戦後日本を創った代表論文」に、ことわり書きを付して「日本の近代と中国の近代」を再録。
1964 昭和39 9 9 夫人と臼田へ。
1964 昭和39 9 10 墓参。
1964 昭和39 9 12 下諏訪を経て帰着。
1964 昭和39 9 30 同志社大学のシンポジウム(鶴見俊輔、多田道太郎、梅原猛)に参加。
1964 昭和39 10 7 中国の会の第1回研究会。報告は村松一弥「中国少数民族の音楽」。本年はあと2回開く。
1964 昭和39 10 31 憲法問題研究会。
1964 昭和39 11 前月の中国核実験に反対して、学者・研究者の声明に加わる。
1964 昭和39 11 1 思想史研究会。
1964 昭和39 11 6 小新聞の会。
1964 昭和39 11 14 大阪へ。大阪市立大学で講演。
1964 昭和39 11 大高7回生同窓会。
1964 昭和39 11 15 東和歌山で大高同窓会総会。
1964 昭和39 11 17 これより姫路、赤穂を経て、17日帰着。
1964 昭和39 12 9 12 12 谷川温泉。自選評論集のプランを練る。
1964 昭和39 12 18 小新聞の会。
1964 昭和39 12 19 憲法問題研究会。
1964 昭和39 12 20 思想史研究会。
1964 昭和39 12 25 奥只見へ、『中国の思想』シリ―ズの『論語』検討会をかねてスキ―行。
1964 昭和39 12 30 検討会を終え、越年。
1964 昭和39 1 6 苗場を経て帰着。
1965 昭和40 55歳
1965 昭和40 この年、雑誌『中国』編集のため、ほぼ10日に一度、神田三崎町の事務所に通う。
1965 昭和40 同誌第14号~25号を出し、ほぼ毎号「中国を知るために」を連載。
1965 昭和40 中国の会の研究会を9回行なう。
1965 昭和40 1 桜美林大学中国文学科設立に際し、清水安三より教授に招請されて断ったが、助力を約し、駒田信二を推す。
1965 昭和40 1 16 憲法問題研究会。
1965 昭和40 1 22 小新聞の会。
1965 昭和40 1 31 明治維新研究会。
1965 昭和40 2 4 2 6 諏訪、霧ヶ峰に小旅行、『中国の思想』の『論語』の稿に目を通す。
1965 昭和40 2 27 明治維新研究会。思想の科学社社員会に出席。
1965 昭和40 3 9 3 13 鹿島槍にスキ―行。石田雄、橋川文三が途中参加。橋川に手ほどきをする。
1965 昭和40 3 18 3 19 高峰ヘスキ―行。左足をひねる。
1965 昭和40 3 26 3 31 『中国の思想』シリ―ズの『荘子』検討会をかねて、高湯へ家族とスキ―行。
1965 昭和40 4 10 憲法問題研究会。
1965 昭和40 4 11 思想史研究会。
1965 昭和40 4 18 22 栂池、八方ヘスキ―行。柿の会の数人と同行。右足首を捻挫。
1965 昭和40 5 立間祥介編著『竹内好著作ノ―ト』。
1965 昭和40 5 3 憲法問題研究会の講演会、台風のためはじめて欠席。
1965 昭和40 5 23 岡崎俊夫の追悼会をかねて旧中国文学研究会会史の座談会。在京同人多数が出席。
1965 昭和40 5 30 思想史研究会。
1965 昭和40 6 4 6 8 思想の科学講演会で能代、横手、仙台を回る(安田武、しまねきよしと同行)。
1965 昭和40 6 12 憲法問題研究会。
1965 昭和40 6 25 小新聞の会。
1965 昭和40 7 10 憲法問題研究会。出席少数。
1965 昭和40 7 11 思想史研究会。
1965 昭和40 7 17 思想の科学社総会に出席。
1965 昭和40 7 21 小新聞の会。
1965 昭和40 7 31 8 1 明治維新研究会で、野猿峠の大学セミナ―ハウスに合宿。鶴見俊輔と同宿。
1965 昭和40 7 12 12日~17日と22日~30日、8月6日~21日、『中国の思想』の『荘子』の監修で訳者グル―プと千葉県岩井に滞在。
1965 昭和40 8 25 25日以降、風邪の症状を呈して医者にかかる。
1965 昭和40 9 20 9月にはいって右胸部に激痛、20日秀島病院に入院。乾性肋膜、肺炎。一時、危険状態に陥る。
1965 昭和40 10 10月いっぱい入院加療、30日退院(「回復期の食欲」全集13巻参照)。
1965 昭和40 11 自宅にて静養、あらゆる雑誌に目を通す。
1965 昭和40 12 自選評論集(筑摩書房)の編集にとりかかる。
1965 昭和40 12 12 千田九一急死(旧中国文学研究会同人)。
1965 昭和40 12 15 葬儀に参列。

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