東南アジアで竹内さんを想う
鶴見 良行
竹内さんの死は、ジャカルタで知った。日本人特派員の家で拡げた新聞にその記事があった。すでに一カ月近くもたっていた。
その夜、竹内さんの長女、裕子さんにお悔やみの手紙を書いた。彼女は、私が世話役をしていたアジア勉強会の一員で、このグループの東南アジア旅行にも参加した。その夜寝つかれず、自分がこうして東南アジアにあるのも、実は、竹内さんが念頭にあるからだ、としきりに想った。そのことをかれにぶつけられないままに逝かれたのが、なんとも悔やまれた(私は晩学奥手のたちで、身近かにある先輩に教えを請おうと思ったときには、すでにその人は亡い、という口惜しさを経験したことが、何度かある。梅本克己はその一人である)。
東南アジアで竹内好の方法を考えると、それはまぎれようもなく、近代主義に似て見えてくる。私は、近代主義を、西洋近代という特殊な歴史状況で生れた一連の価値が普遍的な規準として歴史裁断に用いられる方法、といった意味で用いる。いうまでもなく、竹内は、西洋化に等しい、単一概念の拡大解釈的適用には、強く批判的だった。
竹内の近代主義は、かれのアジア概念とわかち難く結びついている。かれのアジアは、西洋近代に対抗しつつ、それぞれのネーションが、内発的に自立した文化と政治の組織を形成する立場をいう。いうまでもなく、こうした立場の運動は、アジアでも、さらに広く第三世界でも、今日進行中の運動である。「未来の文明を告知するものだけがアジアなのです」(竹内編『アジア学の展開のために』)。
こうした規定からすると、アジアも近代化も、本来的に、多元的で相対的なものであるはずだ。にもかかわらず、竹内のアジアは、どこまでも中国を基軸としていた。「私は戦後に一つの仮説を出した。後進国の近代化の過程に二つ以上の型があるのではないか……鶴見(和子)さんは日本人として、アメリカで教育を受けた日本人として、パール・バックを扱うことによって、日本、中国、アメリカという三本立で現在の問題を考えようということをこの本で提唱している。私は同感なのです」(「方法としてのアジア」)。
「人間の帰属するある種の本源なるものは、これを民族の名でよべば、それは支那民族のことではないか」。伝統中国、魯迅、毛沢東の革命を基軸とした理念形成は、一貫している。実体としての魯迅ではなく、方法、理念としてのかれを一度とり込んで、それを武器として日本を批判するのは、確かに有効だった。漢民族の伝統は雄大であり、魯迅は、竹内の衝迫を受けて立てるほどに勁かった。
だが、東南アジアで、竹内のこうした思想の方法を想うと、どうも違うな、という違和感がいつも残った。ここには漢民族の歴史伝統はないし、魯迅もいない。断っておくが、私は、事実を述べているまでであって、先進、後進といったような進歩史観の価値判断で読まないで欲しい。
ここでは人間は、ほとんど絶対的な無から出発しなければならない。遡れる歴史は、せいぜい五、六〇〇年であり、その大部分は、植民地の時代と重なっている。だからフィリピンの民族史家レナト・コンスタンティーノは、過去にネーション作りの原点を求める方法は不毛だ、という意味のことを書いている。
最近、インドでコンスタンティーノと語りあった在日朝鮮人の鄭敬謨は、「フィリピンに較べれば、韓国には磐石の道が敷かれています」と胸をはっていた。朝鮮には、歴史の厚みと民族伝統がある、という意味だ。どんなに抑圧されても、自分たちの問題は、自分たちで解決する、という気概もあった。別にフィリピンがダメというわけではない。神は、地球を不平等に創り給うたのだし、歴史の展開はいつも不均等だった。
東南アジアには、竹内の「未来形」の近代が極限の形としてある。今日も地底にくすぶりつづけている、といったらいいだろうか。竹内にとってはほとんど自明の理だった実体概念としてのネーションも成立していないところが多い。
東南アジアに在住する日本人は、自分たち日本人を指すのと同じ形で、無意識のうちに、マレーシア人、インドネシア人と称んでいるけれど、呼称形成の歴史、従ってナショナル・アイデンティティ形成の背景は、われわれとかれらとでは、まったく異る。
つい最近読んだマラヤの歴史地理学者の書物に次のような文章があった。「半島史の偉大な皮肉は、今日も多くの人びとが、マラッカ王国を当時の最大の国家とみなし、伝統的マラヤ国家の典型だ、と考えていることだ。これにたいする反証は一つならずある。マラッカの国家建設は、ここに定着していた伝統的諸社会の資質や特長とまったく無縁だった。マラッカ河口の半径僅か二〇哩に住みついたこの国は、半島内の伝統的諸社会で、もっとも意味のない土地を選んだのである。一五世紀初頭にマラッカ河口に定着し始めたこの社会は、世界でももっとも著名な交易社会になったけれども、この社会は、その最盛時でさえも、伝統的定着社会の特長である水田耕作をなんら発展させなかったのである」。
マラヤ人著者のザハラ女史は、さらに言いきっている。「歴史的にいうと、マラッカ建国の状況は、この半島の伝統の延長として考えるよりも、ペナンやシンガポールの設立がしめしているような、外国勢力による商業社会の流れの先駆者として考えた方が論理的である」。
彼女の文章は、植民地主義の部分をとりこむことなしには自国の歴史は完成しない、とか、伝統は土から生れるという農本主義史観の指摘を含んでいる。ここはその事実を論じる場所ではない。私は、彼女の主張に賛成ではないけれども、これを読んだときに、われわれ日本人にはやや欠けた、歴史書直しの自覚的営みを感じて、感動した。
そのマラヤで、華人系マレーシア人と魯迅について語りあったことがある。かれは魯迅をよく読んでいたし、コンスタンティーノをも評価していた。しかし今は語ることがすくない。魯迅の評価は、華人への対抗意識として成立したマラヤ人ナショナリズムを刺戟することを恐れているのである。
くりかえせば、ここには、未だ実現せざるものの極北がある。かれらは、ほとんど実体的な手掛り(たとえば魯迅、毛沢東といったような)なしに、おのれの理念を未来に向って創出していかなければならない。考えてみると、世界の人口のおよそ過半数は、こうした状況にある。
竹内好の理念装置を成立させる時代的背景として戦争がある。私がやや自覚的な選択によって東南アジアにこだわるのも、似た事情にある。今日、日本の企業は、抵抗のもっとも弱い部分として、こうした地帯を狙い射ちしているからだ。
いや、そうした政治的判断以前のものもある。「北京という町の自然にも感心したのでありますが、それだけでなくて、そこにいる人間が自分と非常に近い感じがした」。あいまいに、さりげなく、竹内の中国接近は始まった。私の東南アジアも同様だ。
竹内が魯迅や中国で日本を斬ったのと同じような形で、東南アジアを典型とすることはできないだろう。理念型創出の選択と手段はかれらにあり、それは未現のものだからだ。あるいは、ミクロネシアやアフリカでは、理念にこだわることなく、平等な社会建設も可能かもしれない。
竹内はどこまでも中国に迫り、魯迅に自己を収斂させていった。竹内とはまったく対極的な方向で、日本を東南アジアにつなげるのは可能だろう、と私は考えている。収斂という姿勢に対比させれば、拡散、解体の方向である。
等質度が高く大衆動員の技術を完成させている日本では、拡散、解体の運動は、やはりかなりのエネルギーを必要とする。それがどこから生れてくるのかは判らない。しかし、日本国家社会のまとまりを弱める方向に、無から未来を築くしかない東南アジアへ近づける方向に、動かなければ、この国民の尊大と自己満足は、とめどなく上昇し、さらに大きな迷惑を近隣にかけるに違いない。
おそらく、人間誰しもぼちぼちといった、小田実風の諦念を逆手にとって動き始めるよりないのだろう。ぼちぼちであっては困る、東南アジアと日本が同じでは厭だ、という上昇指向の強いこの国では、この道もまた容易ではない。
竹内さんが魯迅にこだわったのとやや似たような形で、だが私たちは無から始める以外にない。それが東南アジアで竹内さんに伝えておきたいことだった。
【解題】鶴見良行著作集6 バナナ(みすず書房、一九九八年一一月二五日発行) 『ちくま』一九八〇年一〇月号(通巻一一五号)に発表された。
この文章の掲載にあたっては、鶴見千代子さんのご了解をいただきました。
Copyright (C) Chiyoko Tsurumi 1980 All Rights Reserved