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竹内好かく語られ記

橋川文三の思い出


 

■追悼 橋川文三■
橋川文三の思い出


鶴見 俊輔
 
―普通に誰でもが気にすることを気にしないのが歴史家なんです。ぼくは、そうした歴史家とは、違った歴史をやってみよう。―
(橋川文三「西郷隆盛と南の島々―島尾敏雄氏との対談」)

 戦後まもなく橋川さんに会った。私に会いに来たのではなく、姉のところに原稿をたのみに来たところで、会った。そのころ彼は『潮流』の編集者で、マルクス主義者だった。しかし、あの時代のマルクス主義者にありがちな、天下のことを自分は皆知っているというおしつけがましさを感じなかった。

 その次に会ったのは、数年あとで、丸山眞男氏の御宅で、先客として彼がいた。
「橋川文三さん」。しばらくおいて、「評論家だ」と丸山さんは私に紹介した。前に会ったことがあることは、そのあとで、おたがいに確認した。丸山氏が、橋川さんを、もとの学生としてでなく、評論家として紹介したのは、そのころ彼の書いていた『日本浪曼派批判序説』のはじめの部分をすでに知っていたからではないか。しばらくして『同時代』に連載されたこの論文を私も読んだ。

 やがて、雑談の折に、乃木希典のことが話題になり、そのことを、「乃木伝説の思想」として、『思想の科学』に書いてもらった。もっとあとで、「国体論・二つの前提」という題で朝鮮人作家に対して示された国体論の攻撃性を分析した論文を、おなじくこの雑誌に発表した。二つの論文から、私は多くを教えられた。

 橋川さんについて、彼はどういうマルクス主義者だったのかという問題をもっている。それは、彼が、戦時に、どういう日本浪漫派(保田與重郎への敬意のあり方)だったのかという問題にかさなる。

 著者としての橋川文三には、文献を手がたくつみかさねる実証の方法と、それからかけはなれて、自分の心情の指さすところをいつわらずつたえる流儀とが、たがいに混同されることなく、二つながらあった。かけはなれた二つの流儀を混同しないでともに使いこなすところに、橋川文三の特色があり、それは文章だけでなく、考え方の特色でもあった。

 この二重の魂は、時代の傾向の中にいて、彼に孤独を守らせた。おそらくは戦時の日本浪漫派の潮流の中にあっても、戦後のマルクス主義の潮流の中にあっても、そうだっただろう。そのあとの高度成長の時代にあっても、彼は、その前の時代に自分のしてきた忘れ物について気にしていた。このことが日本浪漫派、乃木伝説、国体論(それにひしがれた朝鮮人作家のこと)を彼に書きつがせた。彼が最後に書こうとして果たさなかった西郷隆盛への関心も、おそらくはそこに根ざしていた。

誰か知る凄月《せいげつ》悲風の底、泣いて読む盧騒《ルソー》民約論

 この詩をつくった熊本の宮崎八郎が西郷軍に投じたことを、橋川氏は、遠山茂樹『明治維新』の註で読み、そこから、西郷にひきよせられた。

「一般に最後の封建反動とされる西南戦争が、その参加者のあるものにおいては、ルソーの名において戦われたということをどう考えるかというのが私の問題である。」(「西郷隆盛の反動性と革命性」『展望』一九六八年六月号)

 西郷は三十代の五年間、島ながしにあって海をながめてくらした。そこから海の脈絡において問題を見るという流儀を坂本龍馬とともにした。ゆるされて政治にもどるのは、維新よりわずか四年前にすぎず、島にいたあいだに、彼は別の見方にかわってしまっていたのだと橋川氏は考える。その間に同志はあいついで倒れ、彼自身が東京の中央政府の最高の権勢の位置にのぼってからも、もはやここにはなじめず、権力の自己運動に自分をくみいれることができなかった。一切をなげすてて、田舎にもどり、それが別の大きなうねりに彼をのせた。

 橋川さん自身が対馬うまれであるということも、島から日本を見ることを、内面から理解させた。それにもまして、時代からのはずれものとして日本を見るという見方は、橋川氏の内部に、父母の死につぐ一家離散の歴史としてあった。みずからを語ることは少なかったが、「私記・荒川厳夫詩集『百舌』について」(『標的周辺』、弓立社、一九七七年)は、実弟の死にふれ、一九四〇年から五五年までの十五年が、彼にとってどれほど暗い日々であったかを記している。

 七〇年ごろに道端で会ってしばらくはなしたことがあり、このごろは何か力がなくなってきたと言った。しばらくして、パーキンソン氏病だと言われているという。動きがゆるくなり、字が小さくなり、今までよりさらに口ごもるようになった。この病気が、彼を、東京病(日本病)というむやみな忙しさにまきこまれることから守った。この間に発表した節度のある断片的な文章を読むと、彼が、いつも現代日本ばなれした別のものを見ていたことがわかる。それは、ノヴァーリスの『青い花』、ヘルデルリーンの『ヒュペーリオン』を思わせる。保田與重郎もそこから出発し、その根のところに、橋川さんは共感をもっていたのだろう。橋川さんは直感として語り、資料は資料として示し、この二つをとりちがえることをしなかった点で、保田與重郎とちがい、この点では、竹内好と似ている。「じつはついこの間、私にとってはやはり西郷さんに負けないような偉い先生というか、先輩というか、そういう方が亡くなられました。その方は、竹内好さんといわれます。私は、西郷さんのことはもちろんだけれども、竹内さんのこともどうしてもお話ししておきたいと思います。」(「西郷どんと竹内さんのこと」『暗河』一九七七年夏号、『西郷隆盛紀行』、朝日新聞社、一九八一年)

 突飛でおだやかなこの語り口は、まぎれようもなく橋川さんのものだ。

初出:『思想の科学』1984年2月号 思想の科学社発行

この文章の掲載にあたっては、鶴見俊輔さんのご了解をいただきました。

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