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竹内好かく語られ記

竹内好の孤独


 

竹内好の孤独

武田 泰淳

 中国からの留学生に対しても、竹内の選り好みはひどかった。僕らが見ると同じような中国人らしい中国人に過ぎないのであるが、彼はすぐさま彼らの個性(それも欠点の方)を見分けてしまうのである。中国文学研究会の同人は、みんな日本人なのであるからお互いに隠された欠点も見抜きやすいのはともかくとして、相手が大陸から渡来してまもない留学生で、どやどやと、いわば十ッぱひとからげにしてお目にかかるのであるから、ふつうだったら「まあまあ、今日は本物の中国青年に逢っておもしろかった」で済むはずなのに、彼は初対面から好き嫌いを決めてしまう。彼の好き嫌いは中国、日本の区別なしに作用するらしく、別れてからあと「どうも不愉快だなあ」などと憂欝そうにつぶやいている。あとになって、どこかいいところを発見すると、大変うれしくなってしまって「あれはやっぱりいいよ」とひとりで満足している。彼の辛棒づよさは有名なのであるから、僕らがつき合っている相手との交渉を急に止めることはしない。頭の中でさまざまに批判したり、再批判したりしていても急には僕らには分らない。

 茅ヶ崎の海岸に留学生たちと一緒に出掛けた。僕らは中日双方とも泳いだり相撲をとったりして遊ぶ。彼だけは砂浜に膝をかかえて動こうとしない。「竹内さんはいつもユウウツです」と女の留学生が、困ったように笑いながらいう。彼の憂欝そうな顔つきは、岩石に岩石の肌があるように消しがたいものであって、わざと瞬間的にそうなっているのではないのであるから、僕らも留学生もさほど気にしないで彼のそばで勝手なことができたものだ。

 そのころは彼の郁達夫熱がまだ醒めてなかった。(彼の卒業論文は郁達夫論である)。「郁達夫という作家は全く抱きしめてやりたくなるようなやつだ」と彼がその重苦しい大きな顔にかすかな輝きを示して吐き出すようにいうと一種の強い感じがあった。葛西善蔵の中国版、あるいは郭沫若流にいえば気の弱い風流才士的なところのある郁とは本質的に違っているはずの竹内が、そう咏嘆をする時には、その違いも何もかも忘れているようなところがあって、それは奇妙なことではあるが、また風情あるものであった。廃名というほとんど日本では知られない、幽玄の趣きのある不可思議な作家を発見した時にも、彼はまるで僕らの知らぬ別世界に踏み入った人のようにボンヤリとした表情になって、いわば夢見ごこちの中で廃名とたった二人で向い合っているように見受けられた。市川に居を構えていた郭沫若に対しては、彼はさほどの胸さわぎは覚えなかったのではなかろうか。少くとも積極的に相手の胸中に喰い入ろうとはしなかった。どうせ自分の胸中はそう手取り早く異国の大家に理解してもらえないと投げていたのか、あるいは彼の文学論に香気や彩りを投入するきっかけが認められないと判断していたものなのか。

 どうも彼は日本に来た留学生の中に心の支えを見出すことができなかったように思われる。研究会の各同人のよいところはいち早く嗅ぎつけてその部分でおのおの違ったやり方で結びつこうと努力はしていたが、当時の彼にとっては、われわれのすべては極めて不満足、不十分な文学的(というよりむしろ非文学的)存在にすぎなかったのではあるまいか。中国人は中国人であるから、中国を愛するからには、少し大目に見てやるという態度を彼は決して採らなかった。彼の北京日記はほんの一部分発表されただけであるが、その中に書かれてあるのはものすごく酔っぱらった記憶などであって、これこれの中国人に逢って感心したとか感動したとかいう記事は一行もない。

 一般の日本人の間で孤独であった彼が、一般の中国人の間でより以上孤独であったとしても当然な話ではあるが、中日友好を戦後になって急に騒ぎ出した文化人の多い中で、中日にまたがった彼の、徹底した孤独感は、空おそろしいようでもあり、異様に鮮明な印象を与えるものである。彼が魯迅研究に没入している姿は、つまりは彼の抜きがたい孤独感の影であり、密室なのであって、彼についてかなりよく知っているはずの僕にも、なかなか底の底まで見透すことのできないものなのである。(作家)


底本 臼井吉見編『現代教養全集第十五 日本文化の反省』の「月報15」 筑摩書房、1959年11月発行。本巻には、竹内好「日本と中国の場合」を収録している。

この文章の掲載にあたっては、武田花さんのご了解をいただきました。

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