本文へスキップ

竹内好かく語られ記

「中国文学研究会」のこと(1)


 

「中国文学研究会」のこと(1)

岡崎俊夫

先日、若い同学友人が遊びに来て話しているうちに、「風媒花」のために、竹内さんと武田さんが一時まずくなったそうですね、といわれて、びっくりした。そんなことはない。あそこに出て来る軍地というのは、なるほど竹内がモデルだろうが、他の連中に比べて別に悪く描かれているわけではないし、それに竹内はそんなことで武田と仲違いするような男じゃないよ、と、こうぼくは否定したわけだが、それにしても、「風媒花」を通じて、中国文学研究会というものが、妙ちきりんに印象づけられていることは否定できぬようだ。小説の罪ではなくて、読み方がわるいわけだが、しかしあの小説によらなくても中国文学研究会は、いまでは、かなり伝説化されているようで、ときどきとんでもないことが耳に入る。

 そんなわけでかねてから中国文学研究会の生い立ちやその性格について書きしるしておく必要があると考えていた。本来なら、この会の中心人物である竹内好が書けばいいのだが、彼は回想とか告白といった甘い形式をとることを好まぬらしいから、ぼくが代りに書くことにする。むろん、ぼくが書くからには、ぼくの主観が多少入ることはまぬがれまいが、少くとも事実については忠実でありたいと心がけている。

 往年の同人の一人で、最長老の実藤恵秀は後年人に中国文学研究会のことを紹介するのによく、竹内と武田と岡崎、この三人が桃園に盟を結んだのがそもそものはじまりでなどといっていたが、こうした善意の冗談がそもそも伝説化の源なので、全くとんでもない三国志だ。だいたい三人が元であることには間違いないとしても結盟なんてものじゃない。それまでに前史があるから、まずそれから書こう。

 ぼくは昭和八年、一九三三年の春に、東大文学部支那哲学科を卒業した。竹内は一年下で支那文学科であった。支那哲と支那文は研究室は同じだが、二人とも研究室にはほとんど顔を出さなかったし、それに高校がちがうので、大学時代は互に未知であった。ところが、彼と同じクラスに武田覚がいて、大学は中退したが、これがぼくと同じ浦和高校の出身で浦高のときから面識があった。彼は一年下でしかも文甲、ぼくは文乙だから、本来なら知らぬ仲なのだが、ぼくが二年のころに、浦高文化会というものができて、ぼくも彼もその会員であった。ほかに三年の三上次男(東大教授、東洋史)豊田武(東北大学教授、日本史)岡田章雄(東大教授、日本史)二年の中島武雄(日本女子大教授)一年の野上素一(京大教授)といった面々がいた。それぞれ研究報告をやったが、どんな報告があったか、他の人のはすっかり忘れてしまったなかで、ただ一つ一年の武田のやった「役の行者」というのを覚えている。なかなか面白くこいつは秀才だわいと思った。なお、彼の伯父さんが、ぼくの母校、芝中学の校長渡辺海旭先生で、ある年、お寺へ伺ったら、こんど甥が君のあとへ入ったからよろしくたのむといわれた。

 だが、それにしても、高校時代はさほど彼と親しくはなかった。親しくなったのは、大学を出てからだが、それまでの間、少々ぼく自身のことを述べておく必要がある。
 ぼくは、高校時代、初めの二年間寮に住み「寮友」という雑誌の編集をし自分でも小説や戯曲を書いた。二年のとき文芸部の委員になって「学友会雑誌」を編集し、これにも小説を二度ばかりのせた。また同じころ「浦高時報」という校内新聞(月刊)を創刊し、主筆気取りで社説や評論を書いた。左翼運動の盛んなころだったので、当然その影響をうけて論調もはげしく、そのため生徒監にたびたび注意をうけた。

 こうした中で、ぼくには二組の友人がいた。一方は社会科学派で、一方は文学派。前者で親しかったのは同級の吉沢忠(いま日本美術史で活躍している)で、後者で親しかったのは、同級の江原謙三、中島武雄(ぼくと同じ中学出身)、文甲の萱本正夫の諸君であった。前者と後者は同じく左翼の影響をうけながらも肌合いが合わなかったようだが、いずれもぼくを通じて、学内の出版物に寄稿した。江原は美しい童話を書き、萱本は新感覚派的なプロ小説を書いた。

 童話の江原が教育科に進み、俳句の中島が国文に進んだのは当然として、萱本が支那文に、ぼくが支那哲に入ったのは、当時みんなからよほど不思議がられた。だが、二人とも文学をあきらめたわけではなかった。ぼくが支那哲へ入ったのは、独文へ入りたかったけれど、卒業後の就職の心配があったのと、もう一つ、宗旨はちがうが武田と同じ坊主の子で、中学時代から宗教や哲学に多少興味をもっていたから、一つ東洋哲学をかじってみようという気もあったのだ。ところが、入ってみると幻滅、支那哲学とはいっても、哲学のテの字もない、要するに漢学なのだ。後悔したがもうおそい。萱本も同様だったらしい。それで二人して、「集団」という同人雑誌に入った。これは高見順が親分格で、渋川驍、荒木巍、皆川駿(石光葆)などがいた。ぼくも下手な短篇を二つばかり載せたが、萱本の方が出来がよく、高く評価していたらしく、後年、高見に会うたびに「あの君の友だち、いまどうしていますか、書いていますか」ときかれた。いま、萱本は都立高校の漢文の先生で、高見の主宰する「日暦」の同人になっている。自分の書いた号は必ず送ってくれるが、ちんまりまとまりすぎて、昔のような新鮮さがないように思う。

 ところで、私は「集団」へ入っていながら、一方、高校時代の先輩の手引きでプロ科に属して、はじめはドイツ語の文献の翻訳などを手伝っていたが、のちに傘下の支那問題研究会の方の仕事をするようになった。そのため中国語を習う必要を感じた。大学でも中国語の時間はあって、中国人の先生が教えていたが、時間も少く力がつきそうもないし、それに第一、大学の空気がいやなので、別に習いに行くことにした。はじめ東京外語の夜学の専修科に入ったが、一学期でやめ、それからしばらくしてこんどは本郷金助町にあった第一外語というのに入った。やはり夜学だった。奥平定世という先生で、現代小説のプリントをテキストに使った。王二というびっこの貧乏人が軍閥戦争の渦中で苦しむ話だったと覚えているが、それがぼくの中国の現代文学に接した最初である。

 ところで、偶然、この学校で武田に会った。「やあ、君も習いに来ていたのか」というわけだったが、それ以上、二人とも今、何をしているかについてはふれずに別れた。たしか、それは、武田が大学に入ったばかりの春だったと思う。
 この夜学も、しかし、ぼくはまもなくやめてしまった。「満州事変」が起って、仕事が忙しくなってきたからだ。文学の方も自然、お留守になってきたが、それでも、そのころ「集団」に胡也頻の小説を訳してのせた。研究会に入って来た資料から見つけたのだが、昭和六年は、つまり一九三一年で、胡也頻が殺された年だから、その記念に載ったものであろう。雑誌の名も題名も皆目忘れたが、ともかく、これがぼくの現代小説を訳した最初のものだ。

 昭和七年の春に大あらしがあって、プロ科も潰れた。ぼくのおままごとも終りを告げた。痛い目にあったあと、父に諭され、宇野先生のお情で、おとなしく大学を出ることにした。論文は魏晋時代の儒仏道三教の交流によって生じた「神滅不滅論争」つまり霊魂が不滅かどうかの論争について書くことにしたが、一向気が進まない。学外の仕事のために、もともと弱い体が、ますます弱っていたためでもあった。その夏、萱本と同じ浦高文甲出で英文科の萩原文彦が論文書きのため一夏だけ家庭教師の代りをつとめてくれという。聞けば、相手は中学生、七、八両月、片瀬の別荘、午前中教えて、あとは遊んでいればいいということだから、これは願ってもないとばかり引受けた。そのとき、文求堂で郁達夫の小説集を一冊買って持って行った。郁達夫の名は、第一外語で奥平先生から聞いて覚えていたようだ。これが案外おもしろく、ことに「春風沈酔的晩上」が気に入った。そこで、ある晩、坊ちゃんのお伴で楽焼屋へ入ったとき、この小説の一場面を皿に画いた。郁達夫が本をつみ重ねた上に板を渡して腰をかけ、ローソクの光で読書している姿だ。このことはのちに「中国文学月報」に「楽焼の郁達夫」という随筆にして書いた。

 郁達夫によってぼくは再び文学にひきもどされ、その年の暮、萱本たちと語らって「明日」という同人雑誌を出した。同人にはほかに英文出の萩原、支那文の小森政治、ぼくと同じ支那哲の岩倉具正らがいた。同人の集りは専ら岩倉の邸でやった。彼は明治の元勲具視の孫だが、直孫ではなく子爵家で、あまり裕福でもなかったようだ。それでも渋谷の邸は、ほかの同人たちのと違って豪勢なものだった。卒業してからもつづいて昭和九年の二月に第七号を出して終った(これは先日萱本に問合せてわかった)が、その間ぼくは二度ほど小説を書いた。大学を無事卒業し、時事新報に入ってからだ。いまNHKに勤めている小森は、大学を出て北九州の郷里に帰ったときには郷党がのぼりを押し立てて駅に出迎えたそうだが、東京で職にありつけず、しばらく郷里で小学校の教師をし、原稿もそこから送ってきていた。小説も書いて、その中で私はモデルにされたが、そのほかに魯迅の「明天」を訳してのせた。彼は、そのころ卒論といえば、ほとんど古典である中で、珍しく現代文学、しかも魯迅論を書いたのだ。これは特筆に値する。

 ところで、この「明日」に武田も同人として入ったのである。いま、その雑誌が一冊もないのではっきりわからないが、何号目か(かなり末期)に狐塚何とか太郎というペンネームで小説を書いた。怪奇小説めいたもので、思えば、最近の作風の萠芽は、すでにあそこにあったようだ。ぼくは人々の武田泰淳論が、どうも気に入らないので、一つおれが書いてやろうという気があるから、いずれこの旧作も探し出してきて、調べてみたいと思っている。
(一九五九年四月) 

底本:『天上人間 岡崎俊夫文集』岡崎俊夫文集刊行会編刊
   1961年8月発行
初出:『北斗』第18号(第4巻第2号)
   1959(昭和34)年4月10日発行

ナビゲーション