本文へスキップ

竹内好かく語られ記

竹内日記を読む 丸山真男氏に聞く


 

竹内日記を読む 丸山真男氏に聞く

聞き手・『ちくま』編集部  

「一身にして二生を経るがごとく……」
 ――竹内さんの日記は生前「中国文学研究会結成のころ」(一九三四年)と「転形期」(一九六二年四月―六四年三月)という題で一部分が発表されて話題をよんだことがありますが、こんどの『竹内好全集』では十五、六巻を日記の巻にあてております。収録されているのは一九三二年の「鮮満旅行記・遊平日記」、一九三四年から五年の「中国文学研究会結成のころ」、一九三七年から四〇年にかけての留学生時代の「北京日記」、兵隊にとられて中国から帰還した一九四六年四月から浦和に住んだ一九五〇年六月までの「復員日記」「浦和日記」、それから六〇年から六四年までの「六〇年安保のころ」「転形期」となります。学生時代からのもので、竹内さんについて新しい光をあてることができる事実がたくさんあると思うのですが、今日は生前の竹内さんと親しい友人であり、また同じ時代に青春を送られた丸山さんにこの日記の感想などを伺いたいと思います。

丸山 ぼくは好《ハオ》さんとは歩んだ途も異なるし、戦後は別として青年期の交友関係も違っていたし、兵隊で朝鮮までは行ったけれども北京へ行ったことはないというわけで、共通性よりむしろ違った生活面の方が多いとこれまで思っていました。ところがこんど好さんの日記を読んでやはりあの激動の時代を生きてきた共通感覚のようなものを強く感じましたね。福沢諭吉が『文明論之概略』緒言で「恰も一身にして二生を経るが如く」と言ってるのは有名ですが、福沢は明治維新のときに三十五、六ですね。ぼくは敗戦のとき三十一で、好さんはちょうど福沢ぐらいでしょう。もちろん、維新と今度の戦争とは一緒くたにできないし、福沢と比べるほど不遜じゃないけれども、二十代または三十歳そこそこの年にファシズムと戦争の時期をくぐりぬけ、あとの半生は――もう半生以上になっちゃったけれど――昨日までの価値体系が暴落して、敵も味方も民主主義と平和万歳の世の中でしょう。「一身にして二生を経た」という言葉に実感があるんです。ぼくは好さんの日記を読んで、同じ世界史的な激動の事件の中を歩んでいるだけでなく、資本論とか野呂栄太郎とかを、ほとんど時日を同じうして読んでいるといった個人的な経験の共時性もわかって、今更のように親近感を覚えました。それだけに、ああもうこの人と面と向って話せないんだなという寂寥の思いが胸をつきあげて来て、読みながら涙ぐんでしまった。

 好さんは生前に、ぼくたちの世代は戦争貴任と戦後責任と両方の課題のためにも、ちゃんと記録を残しておく義務があるとさかんに強調していた。実はそれでぼくも『現代政治の思想と行動』のように、戦後ジャーナリズムに発表したものをまとめる気になったんです。竹内日記を読んで、ぼくらの世代の体験を誇るとか逆に卑下するとかいう気持を離れて、ありのまま後につづく世代の人たちに書き残すことの大切さをあらためて感じた次第です。

 ――竹内さん自身も自分の何かを確かめるように日記を読み返していますね。ところで竹内さんの日記ははじめから終りまでスタイルは一貫して変っていないですね。感情的表現などは少なくて……。

丸山 なかに出て来る人物や作品の短かい批評は辛らつ[#「らつ」に傍点]を極めるけれど、全体として一つのスタイルをなしているというのは驚くばかりです。文語体が口語体に交っているというか、あるいは逆に口語体が文語体の間に割り込むというか、それでかたい感じにはなるけれど、いずれにしてもちゃんと文章をなしている。高見順さんなんかの日記の方が日記らしいといえば日記らしい。「ああいやだ」式の直接の感情の吐露があちこち出て来てね。ところが好さんのは、発表されなかったところを見ても体をなしていますね。日記というのは高見式になるか、それともまったく事務的なメモになるか、ふつうどっちかなんですが、好さんのはそのどっちでもない。

好さんの北京生活――時代と人生の転換期
 ――このなかの一九三七(昭和一二)年から三九(昭和一四)年までの北京日記は、外務省から補助金を受けて北京に留学した時期のもので、今度はじめて発表されるものです。竹内さん二十七歳から三十歳までで日中戦争の勃発期なんですけれど、この日記にあらわれる竹内さんは、留学生というよりは日常の私生活そのもののなかに埋没しているように見えますね。一九三四(昭和九)年にはすでに中国文学会[#中国文学研究会]を結成して一つの活動期を経ているわけですが、ここにはそういう痕跡もうすいし、時局批判もほとんど出て来ないのですが……。

丸山 そうね、戦後派の人たちがこれを読んで拍子抜けというか、好さんの「志」はどうなっちゃったんだ、という感じを抱いたとしても無理はないですね。好さん本人もどこかで、三二年のときの中国旅行は新鮮だったけれども、三七年からの二年間の北京生活はブラブラ無為の日を送った、と自己嫌悪の念で回想しているくらいですから……。しかしそこがさっき言った同時代体験というものなのか、ぼくなんかはこの北京日記を舐めるようにして読みました。もうこれからの竹内好論はこの北京日記をぬきにしては意味がないと言いきってもいい。それくらい重要なものです。当時の北京をめぐる客観的状況と、好さん個人の内面的な心理の屈折が重なり合ってこの日記になっている。おっしゃったように、好さんが北京に着いたのは蘆溝橋事件の直後でしょう。はじめは日中戦争の全面化でそもそも行けるかどうかも分らなかった、そういう時に外務省留学生として来たわけです。どうしたって日常生活でいたるところ、軍はもちろんのこと、外務省や各官庁の出先機関と接触しなければ生きて行けない。

 一二月二六日の日記に、内務省赤羽事務官の顧問にならないかという勧誘を受け、条件がいいので「大に食指動く」と言っています。会ってみると「愚劣なる官吏のタイプ」なので失望していますが、結局、翌年の元旦にもこの赤羽氏と一緒に大使館その他の年賀交わりをしている。晩年の好さんだけ知っている人にはちょっと想像しにくいでしょう。日本の国内状況でも三七年の日中戦争の拡大は劃期的な転換で、これ以後の社会運動や昭和研究会などの動きには、戦争協力と時局批判の両義性がどうしてもつきまとうようになる。協力と抵抗との問にそうスッキリと線がひけなくなる。むろんミイラ取りがミイラになる危険性も著しく増大して、ぼくたちはいやというほどその例を目の前に見せつけられました。しかしこれが日本でなくて、戦争が拡大している北京の生活となると、そういう問題が加重されるだけでなく、まったく内地とちがう面が出て来ます。

 つまり日中戦争というと、何か一つの国家と他の国家とが軍事的にブツかったようにきこえますが、実態はまったくちがうんです。当時の中国はいってみればどろどろ融解している半国家なんです。そうでなければ、敵国のなかで北京日記に出て来るような日常生活をすごすこと自身がおよそ不可能な筈です。敵国の只中にいて、一方では軍事占領している出先機関と接触し、他方では北京大学教授や中国知織人[#知識人]から街の女まで広汎につき合っている。どうも話が大きくなって恐縮ですが、十九世紀末から太平洋戦争にいたる中国というのは、何千年もつづいた中華帝国が音を立てて崩れ、伝統的な中国社会の解体がどんどん進行してゆく時代で、そういう解体過程のなかで、三一年のいわゆる満洲事変もおこる。ですからそれ以後の日中戦争は国家としての帝国主義と運動としての[#「運動としての」に傍点]ナショナリズムとのたたかいであって、中国のナショナリズム運動[#「運動」に傍点]に日本帝国が敗れたというべきです。日本をふくむ帝国主義国家が土足で中国をふみにじってゆくその過程が、同時に新生中国の陣痛でもある。

さっき言った個人レヴェルの接触の問題で両義性をたえずかかえこむのと同様に、マクロの歴史過程でも解体が同時に新生の陣痛だ、という矛盾する両面をもって事態が進行している。北京の現地にいる少数の日本人は、たとえば中江丑吉というような人は、おそらくこの混沌の内包する両義性を見抜くしたたかな[#「したたか」に傍点]目を持っていたんじゃないでしょうか。そうして好さんもこの二年間の北京生活の、いわば混沌が日常化したような状況のなかで、これまでの中国文学研究会結成時代までの「志」をもった自分が一旦もみくしゃになり、ほとんど自己解体の寸前まで行って蘇生したことが、日記を辿るとよく分ります。「すべて混沌としていた」(三八・一二・一九)「潔癖よ呪われてあれ、混沌の泥沼に一度は面伏せよ」(三九・八・一四)というような言葉は直接にはM子との恋愛に関して言われているにしても、北京時代の好さんの精神的内面を象徴しているように読めるんです。どうも簡単に言おうとするとうまく表現できないんですが……。

時局用語のない日記
 ――自己解体といわれたのは、現象的にはあの酒色に溺れる日々ということですか。実はあまり赤裸々に書いてあるので、出版社としてもこのまま出していいものかという問題があったんですが……。

丸山 いや、それは断然出した方がいい(笑)、週刊誌的興味じゃなくてね……。街の女を買う一方で、エッケルマンの『ゲーテとの対話』やトルストイの『戦争と平和』を連日読んでいるでしょう。あそこなんか、奇妙な連想かも知れないが、たしかサマセット・モームの小説に出て来る――淫売女と寝ながらスピノザの『エチカ』を読んでいるあの人物を思い出したな。そういう日常生活もふくめて、日記に描かれる北京の雰囲気にぼくなんか一種の逆説的な静けさを感じましたね、同じころの日本国内にくらべて……。つまり全体が動乱状態だから、かえって観念的に勇ましい言辞や絶叫が横行する余地がないんです。これは戦後の日記ですが、老舎の『四世同堂』を読んで「空疎な観念的描写」とやっつけ、老舎は「戦争下の北京の生活を体験していないらしい」(四六・八・二二)と言っているのは、好さんの眼に映った戦時下の北京をネガ像で暗示していて面白い。ですからあなたはさっき時局批判が北京日記に乏しいといわれたんですが、ぼくなど逆にあの当時に流行し、ごく普通に使われていた時局用語がこの日記にほとんど登場しない[#「しない」に傍点]のに感心しました。その二つは楯の両面でしょう。時局用語だけでなく、大事件の勃発がいとも簡単に触れられている。三八年一〇月二六日の日記には「漢口陥落にて巷騒がし」同じく三〇日にも「漢口陥落の祝賀で街さわがし」とたった一句で、それにすぐ「外套いいのなし」などという言葉がつづく。実に見事にスパッと時局と切れているんです。一一月一四日に文藝春秋に出ている杉森孝次郎の議論を読んで「東亜共同体とか新秩序の意味少しわかる」などとあるのは、ほとんどほほえましいくらいノンポリの態度ですね。

己れ自身を凝視する
丸山 ですから外の事件や時代の動きを見るというより、精神が内へ内へと凝集してゆくんです。たしかに放蕩の日々にはちがいないが、そのなかで「荒々しいものの呼吸をかいで生命の力をもやしたし」(三八・一二・一九)という必死のあがきがある。あたかもそういうときにM子との遭遇、真剣な恋愛感情とその挫折を体験する。恋愛経験は北京に来る前にもあったようですが、このM子の場合はすさまじい人格的な格闘ですね。記述も異常に長くてそれがそのまま作品の一部になると思うくらいです。そうしてすべてが自分の内面の奥底をのぞきこむ機縁になっている。意地張り・見栄坊・負け惜しみ・俗物性等々……。ここにはあの泰然自若とした、前にいる人を何かすくませるような好さんの裏側に潜んでいる小心翼々としたもう一つの魂が露呈していて、それを好さんがたじろがずに見つめています。そうしてこういう立ち入った長い記述のなかに、いわばひょっこりと「独波(ドイツ・ポーランド)両国は一日遂に干を交え」という欧洲大戦勃発のニュースが、これまた、いとも簡単にはさまっているので、その好さん本人も意図しないアイロニーにぼくなんか唖然とするし、ほとほと感嘆もするんです。

 ここで竹内好はデカダンスとニヒリズムをくぐり、自分のすべてを坩堝《るつぼ》にたたきこんで生れ変るんじゃないですか。北京生活の混沌のなかに身を置いて、ちょうど阿Q的な中国が鉄火の洗礼を受けて変貌してゆくのとパラレルに、竹内好も自己凝視を通じて昨日までの自分と変ってゆく。そこから引返す途はもうない、という極限のところに帰国直前の好さんは立っていたように見えるんです。

 帰京してから武田泰淳と再会し、何をしていいか分らなくなった、という気持を泰淳と共有し「俺の北京生活はそういうものの連続であった」(四〇・二・四)と回想していますね。しかもそこで「いわば虚しい仕事をしてみたいと思っている」といい切っている。戦後の好さんのめざましい活動はまさにこの「虚しい仕事」を覚悟したうえでの、その延長線上にあるのじゃないでしょうか。もちろん、好さんの意識のうえでは八・一五の敗戦がやはり個人体験としても大きなエポックになっていることは、「屈辱の事件」(全集、第十三巻所収)の一文だけでも明らかですし、戦後も期待と失望を繰り返している。けれども、もっと奥底の精神的回心ということになると、ぼくの推測は北京時代に遡るんです。

啓蒙と進歩の精神
 ――竹内さんの大学卒業論文は郁達夫論のようですが、抵抗の文学者、啓蒙の文学者としての魯迅を発見した『魯迅』のモチーフもそこで育ったのかもしれませんね。

丸山 だから好さんは否定を媒介にした啓蒙なんです。根本的には啓蒙者なんだ。ただ、すさまじいニヒリズムをくぐった啓蒙なんですね。好さんが根本的に啓蒙者だからこそ、価値判断の根っこのところは非常にがっちりしている。進歩と反動の区別自体が[#「自体が」に傍点]ナンセンスだという考え方にはけっして与《くみ》しない。ただ歴史必然論と単線進化論にはげしい抵抗感があるから、その時点時点での歴史の可能性の幅に着目しながら、マイナスをプラスに翻転させる途をさぐろうとするわけです。もし進歩の観念自身が無意味なら、そもそも人間が歴史を経て来たということにどういう意味があるのか。啓蒙というのは、やはりある方向を価値とし、ある方向を反[#「反」に傍点]価値とする前提があって、そうした価値が、ジグザグを経ながらも蓄積されてゆくことに歴史の意味を認めてはじめて成り立ちます。その点はニヒリズムの面だけで好さんを捉えようとするとわからないところです。

 ――「復員日記」の方を見ると、竹内さんは自分の周囲の友人の動きもふくめて、戦後の動向にはじめから実にきびしい目をもっていますね。

丸山 これは一般的に言えることなんですが、何年何月に復員したかということがひとつには[#「ひとつには」に傍点]大きいんですね。好さんが復員して東京に来たのは四六年六月二六日です。そうして七月四日の日記には総司令部の郵便雑誌の検閲のことに触れ、「コンミュニズム(原文英語)に対して神経が鋭い、今ではもう天皇制支持だ。最近、反動勢力の反攻が非常に強くなったのは彼らの自信のあらわれだ」と書いて、読売争議の弾圧を例にあげています。つまり、敗戦直後のアナーキーともいえる民主主義の「噴出」がその短い黄金時代を終ろうとするころに好さんは帰国しているわけです。この点で、ずっと国内にいて、大日本帝国の崩壊と新しい力の噴出を目の前で見て解放感を覚えた同世代の人たちとの間に、微妙な実感のくいちがいがある。

 それにしても、ぼくから見ても好さんに比較的近いと思っていた『近代文学』の人たちに対しても帰国早々の評価はきついですね。いわんや他においてをやです。東京に帰った翌日の日記には、新旧の綜合雑誌をあわせて「どれも興味なし」と一蹴している。同じ日に「『アカハタ』も見たが昔のままで興ざめした」と言っている。この「昔のまま」復刊したことへの幻滅と怒りというのが決定的に重要でしょうね。それに比べれば、復員時期の問題などは第二義的といってもいい。つまりここに竹内好がすでに戦時中に人格的な死と再生を経験したことが意味をもって来ると思うんです。いわば見るほどのものは見て帰って来た。それ以前の自我も、また心情的な左翼シンパの思想も洗い直されて日本へ帰ってみると、戦後の進歩勢力が昔のままの姿で運動を再開している。社会主義者も自由主義者も、解体と再生の弁証法をまったくつかんでいないじゃないか――この焦だちがまっすぐにあの「日本共産党論」につながるんですね。ぼく自身、あの論文は感銘したが、日共はなぜダメなのか、それは日共が革命を主題にしていない[#「主題にしていない」に傍点]からだ、というああいう批判理由には度ぎもを抜かれた。けれど、こんど日記を辿ってみて、あれがたんなる鬼面人をおどろかす逆説ではなく、好さんの内面から自然に湧き出たものだった、ということが前よりもよく納得できました。

 そういうきびしさがたんに外在的な批判でないということを一番よく示しているのが『中国文学』が通し番号で復刊されたことへの強硬な抗議でしょうね。いちばん好さんの近くにいた友人たちで、しかもいちばん因縁のふかい『中国文学』ですからね。同人たちには、おれたちはあの苦しい時代に必死に抵抗しながら、中国と名乗って旗をかかげて来た、それが今や晴れて活動できる舞台ができた、という思いがあったにちがいない。その点では、イデオロギー的意味は同じとはいえないけれど、暗い谷間を経て復活した左翼の意識と似たところがある。どっちも心理的にはもっともなのです。それに対して好さんは猛然と喰ってかかる。同人たちはなんであんなに好さんが怒るのか、最初はあっけにとられたんじゃないでしょうか。

 中国という呼称についてはぼくも個人的に思い出があるんです。日記にも出て来るけれど、好さんとは四七年九月三〇日にはじめて会って孫文の全集を貸してもらうんですが、そのときのっけ[#「のっけ」に傍点]から議論になっちゃったのが、シナというのはヨーロッパ語でもそう言ってるんだからなぜ悪いんだ、とぼくが時流へのあまのじゃくの気持もあって言ったからなんです。むろん好さんはおだやかに反駁したけれど、好さんはたんにどう呼ぶかという呼称を問題にしているんじゃない、ということは、たとえば戦争中の『中国文学』に書いた「支那と中国」という一文(全集、第十四巻所収)ひとつ見てもわかります。そこには、支那という言葉に改めて愛着を感じる、自分には支那がちょうどいい、とさえ言っています。ここにも北京生活が翳をおとしているんですが、戦後に『魯迅』を復刊するとき、「支那」を出版社が無断で「中国」に改めたので好さんが怒って原版どおりにしろと言ったけれど、これは間に合わなかった、という経緯があります。そういった問題にも自分の内面性にどこまでも忠実に行動する人だりたな。

考えがちがうから学べる
 ――「浦和日記」を見ますと、丸山さんが実際に竹内さんにお会いになる一年近く前に、丸山さんの『世界』五月号に出たあの論文を読んでいますね。「丸山真男という人……の『超国家主義の論理と心理』よむ。而白かった。近来になく面白かった。帰還後読んだ中で随一のものである」。その後も、これはお会いになって後かと思いますが、四八年七月一〇日、一一日に「日本ファシズムの思想と運動」の読後感があって、これも激賞ですね。この前後のことで何か……。

丸山 いや、自分のことだから言いにくいけれど、正直言ってこの日記を読んでぼく自身びっくりしたんです。みんな、なでぎり[#「なでぎり」に傍点]にされているなかでこんなに高く評価されていたとはね……。むろん根本的に許し合った友人とは思っていたんですが、なにしろ最大の親友の武田泰淳の作品に対してさえあの調子の好さんでしょう。ぼくの記憶しているかぎり、発表された文章でぼくが批判されたはじめは四九年一月に『展望』にのせた「近代日本思想史における国家理性の問題」という未完論文です。「丸山でさえも、日本人の中国蔑視感から免れていない」と言われた。「丸山さえも」という保留がついているのでそう悪い気持はしなかったんですが(笑)、そこからはじまって福沢の「脱亜論」の位置づけから、太平洋戦争勃発のニュースの受けとめ方まで、むしろぼくの側からすれば、考え方のちがっている面を強く意識して来たんです。考え方がちがうからこそ好さんから学べると思って来た。畏友とか益友とかいう言葉は、ぼくが好さんにたいして用いるかぎり、単なる修飾じゃない。もちろん福沢論にしても脱亜論にしても、ぼくには、そこらのアジア主義者や土着主義者よりもずっとぼくの考えの方が好さんに通ずるものがあるという自信はあったけれど、それにしてもこの日記での評価はおどろきです。まあそのへんで勘弁してよ、ぼくのことは……。

 日記には戦前戦後を通じてたくさんの友人が登場するけれど、好さんが終始もっとも深く許し合った友は武田泰淳だった、ということが日記でいよいよハッキリしますね。その泰淳がいまの赤坂の家に引越したあとは、以前ほどぼくと行き来がなくなっていたのが、七〇年代のはじめのころかな、珍しく百合子さんと一緒にぼくのところに寄った。それでぼくは「あんた、好さんのところにはちょくちょく来るらしいのに、すぐ近くのぼくのところは素通りなのはけしからん」となじったら、泰淳いわく「竹内はおっかねえからな。やはりきまってお参りしとかないと……」(笑)。お参りとはいかにも泰淳らしいと思った。

ジャーナリズムへの志
丸山 泰淳で思い出したけれど、やはりその泰淳があるときに「竹内は長谷川如是閑を一つの目標にしていた」とぼくに言ったことがあるんです。竹内日記には意外なところで戦前にぼくとも関係がある人物が登場してオヤと思うんですが、それはここでは一々申しません。ただ、如是閑はね、子供のときからぼくは親父の関係で知っていたので、泰淳の言葉を人一倍面白く受けとめたのです。好さんは一九三四年七月に、如是閑を東中野の宅へ訪ねていますね。そうして三五年にも如是閑の「芸術イデオロギーの発生」という論文を非常に評価しています。もっとも戦後には如是閑もなでぎり[#「なでぎり」に傍点]の相手の一人にされていますが、それは期待が高かっただけ幻滅したということでしょう。表面的なことからいえば、如是閑の焼けた家の蔵書は洋書から漢籍にいたるまで大へんなものでまた事実おどろくべき博識です。しかも好さんが訪ねたころの如是閑は彼のもっともラジカルな時代で、社会批判や芸術批判を辛らつ[#「らつ」に傍点]な皮肉で展開していた。他方、好さんの読書家ぶりも、日記でみるとものすごいものですね。三四年五月、つまり大学を出たころの日記に、もっと時間を節約すれば、一日十三、四時間は読書出来る筈だ、とあるのはいかに青年客気とはいえ、ただただ恐れ入るほかない。大学時代から『ジャーナリズム講座』を持っていて人に貸したりしているので、どうもジャーナリズムに普通以上の関心を早くから持っていたように思える。そして生涯の最後まで、タブロイド版でいいからクォリティー・ペーパーの週刊紙を出したい、と言っていました。単に自分だけで評論活動するのでは満足できなくて、編集も発行もする組織者です。欧米でいう意味でのエディターですね、そういう理想は終始あったんじゃないですか。多くの人が大学教授対文学者という二分法で、文学者竹内好というように見るんですが、ぼくはそこにエディターという第三の契機を入れて、三角関係のなかに位置づけないと好さんの本当の姿は見えないと思う。

 好さんがもっと早く生まれていたら、たとえば維新か、明治前期の時代に生まれていたら必ず大新聞記者になっていたと思いますね。大学教授にならず、また文学者にもならず、きっと大ジャーナリストになっていたと思う。もっと早く生まれればよかったし、でなければ、もっと遠い未来に生まれればよかった。好さんの成長した時にはもう商業紙はみな大新聞の時代になっているわけですね。ところが皮肉なことに大新聞は大新聞記者を生まないようにできている。巨大な発行部数をもった日本の大新聞の記者のモデルは社会部の事件記者だし、誰々番の政界記者です。ところが明治の日本新聞とか万朝報とかいった、いわゆる硬派新聞の記者のモデルは論説記者です。そうして時事問題から文学芸術論まで手がける。山路愛山・三宅雪嶺・黒岩涙香といった流れ、好悪はともかく徳富蘇峰もその流れの中にいます。言論人・編集発行者・思想家の三位一体です。その系譜の最後に近く長谷川如是閑が来るわけです。深い学殖と借りものでない哲学的素養をもって、そういうものを背景として時論を書く――これこそまさに好さんじゃないですか。もし時代がちがっていたら好さんがいちばん志を貫き情熱を傾けることができたのは、文学でもアカデミズムでもなく、エディターの世界、大ジャーナリストの世界だったにちがいない、というのがぼくの想像です。

(これは五月二四日、西荻窪こけし屋での談話に丸山氏が加筆されたものです)

初出:『ちくま』第一三八号(一九八二年九月一日発行)

この文章の掲載にあたっては、丸山ゆか里さんのご了解をいただきました。

Copyright (C) Yukari Maruyama 1978 All Rights Reserved.


ナビゲーション