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竹内好かく語られ記

都立大・中文に学んだ頃


 

都立大・中文に学んだ頃

近藤 裕
 
昭和31年春、中央大法科(夜)を卆業した私は、迷わず都立大中文に学士入学した。理由は幾つかあった。

① 公務員の仕事上法律が必要と考えて中央大法科を出たのに、知人のいない東京での淋しさから山登りに明け暮れて、四年間殆ど勉強しなかったことへの反省

② 法律より文学の方が面白そうだと思い、それには戦後流行の英米文学より人のやらない巾国文学の方が希少価値もあり、将来きっと役に立つと思ったこと

③ 都立大は公立だから月謝が安い上に、昼夜開講制とかで昼夜の区別をしない珍しい大学だと聞いて魅力を感じたこと

④ それまで通っていた中国語会話塾の倉石武四郎先生(東大名誉教授)から、都立大中文には竹内好・松枝茂夫他立派な先生が多数居られるからと言ってすすめられたこと、etcである。

 学士入学の編入試験は、私のせいで極めて珍妙なものとなった。学科は英語と中国語の二科目だけ。英語は多分可もなし不可もなしの出来であったろう。問題は中国語の方である。出題は二題。第一問は、出典は不明だが、中国の古典らしいまことに難解な、長文の、しかも返り点なしのいわゆる白文で、全然歯が立たない。第二問は、「咋日の日記を中国語で書きなさい」というものであった。私は倉石塾の「初級中国語会話」の教本を丸暗記していたので、その中の会話をつないで咋日の日記風にまとめて書いた。

さて、面接の時間が来て、竹内・松枝両教授と永島先生他数人の先生が居並ばれた前に座った。

竹内先生「あなたはどういう経歴の方ですか?」

「税務署に勤めながら中央大法科の夜間部を卒業しました。」

松枝先生「中国に住んでいたことがあるのですか?」

「ありません。」

両先生 顔を見合わせて、「あなたの答案はどうもよくわからないのですよ。」

「?」

松枝先生「私の息子は東大の中文科に行っていますが、恐らくこんな完壁な文章は書けないでしょう。」

竹内先生
「完全な中国語なのに文章が幼稚なのですよ。一体どんな勉強をして来られたのですか?」

「倉石塾で初級会話を三カ月やりまして、それを丸暗記しただけです。」

両先生「それでわかりました。語学の才能があるのですね。面白いから採用しましょう。但し二年間は中国語の基礎をしっかりやって下さい。専門課程に進むのはそれからということでよろしいですか。」

「はい、結構です。有難うごさいます。」

 かくして私は都立大の三年に編入したのだが、一年の語学の授業だけ受けるという変則的な学生となったのであった。今にして思えば、このあたりが初期都立大のまことにおおらかな校風であった、となつかしい気がするのである。勿論授業はすべて楽しかった。もともと語学は好きであったし、何より都立大は学生が少なくて先生は多いという恵まれた環境。当時私の中文同級生は昼が二人と夜が二人の計四人。それに対して先生は、教授二、助教授二、講師二、助手二の計八人であった。その上あちこちの大学を出てから都立大中文の大学院に来ている人も多く、教えを乞う相手には事欠かなかった。

 当時の中文研究室にはいろんな経歴の方が居られ、年令もまちまちで、自由闊達、談論風発、さながら梁山泊のようだと先輩達は言っておられたが、私にはそれぞれの方々が期する所を胸に秘めておられるように見えて、とても刺激的であった。そうして、後にこの研究室から出た方々が、都立大はもとより、東大・慶應・早稲田その他都内の主な大学の殆どに中文の教授として花開いたのである。

 同時期に、あの懐かしい研究室に私もいたのだと思うだけで、肩身の広い気がする。卆業後数年して、この頃のOB一同で現代中国文学全集を出そうと言う話が持ち上り、私にも一人の作家を担当して翻訳するよう要請が来たが、丁度税理士を開業したばかりで忙しかったので辞退せざるを得なかった。

 そんなわけで中国文学研究の道からは外れてしまったけれど、卆業後も竹内・松枝両先生からは年賀状を頂戴し、竹内先生からは毎年所得税申告を仕事としてやらせて戴いた。

先生方から教わったことは文学以外にもまことに多く、その後の私の人生観の根っこになったと思っている。都立大中文ばんざい!!

(初出:調査中)


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