本文へスキップ

父の思い出

スキーとヒヤシンス ―冬のしたく 雪の時間―


 

スキーとヒヤシンス ―冬のしたく 雪の時間―

父には雪の冬時間と、海の夏時間がありました。

竹内好とスキー冬のはじまり。それは二つのことから始まります。ヒヤシンスの球根を、ガラス鉢に乗せて、水栽培を始める日。書斎の書棚の奥から、スキーの板やクツをとり出して、庭で手入れを始める日です。

床がひんやりと冷たく足裏に伝わってくるようになると、父は大玉のヒヤシンスの球根を、いくつかのガラス鉢に乗せました。冬の陽にスキーの板を当て、クツを干し、ストック、カバー、シール、道具類を全て庭のタタキに並べました。そして板の裏に入念にワックスをぬりました。

水栽培のガラス鉢は、厚みのない軽いものでした。緑色や紫色をした、きゃしゃなひょうたん型です。父の書斎の机の横には造りつけの本棚があり、北隅の上の方、ここがガラス鉢の置き場所でした。夏の時間、父はヒヤシンスの鉢を、ここに一列に並べて置いていました。

北西向きの書斎は早くに冷えこんできます。球根をおいたガラス鉢を本棚から机の前に移して、ストーブをつけるのをがまんして、父は仕事に向かいました。

雪のたよりが聞かれるようになると、父は新聞の天気図をよく見るようになりました。降雪のもようをテレビやラジオで注意しています。
地図を出してきて、雪の降り具合とスキー場をつき合わせ、シーズンの計画を立てていました。

初めてのスキー父の初めてのスキーは、1961年3月、関・燕温泉スキー場。都立大のスキーグループからのおさそいでした。ヌプリの会ができる前です。

はじめは乗り気でなかったと、計画を立てた松井博光さんは記憶されています。松枝茂夫さんとごいっしょに雪見をしましょうと誘われたそうです。運動ぎらいの父には、若いころからスポーツをする習慣はありませんでした。

それが、このスキーに同行して一変したのです。幾度もの骨折、ねんざに全くめげることなく、ひと冬に3、4回。これが父の雪山行のペースでした。


スキー道具より一足早く、書斎で目をさましたヒヤシンスも、居間に運ばれました。出窓に並べられ、直射日光や夜気にあたらないように、
毎朝、毎夕、父はこまめに鉢の位置を変えていました。水と根の張り具合を確かめていました。ヒヤシンスは初めに白い根を伸ばし始めます。水の中に何本も太い根が伸びそろうと、若緑色の芽がまっすぐに伸び始めます。太く角立てて伸びる芽は、やがて厚い葉と房咲きの花を咲かせました。

純白、ピンク、うす紫色、紅紫… 毎年花の色合いは変わりましたが、白ヒヤシンスだけは必ず咲いていました。花がひらくとこんどは、ガラス鉢を窓から部屋の中央に移します。食卓の父の横に。そうしてひと冬を、父のそばでヒヤシンスは咲き続けました。
<つづく>
1961年3月 燕温泉スキー場


ナビゲーション