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つ む ぐ

別れ - 墓誌 -


別れ  - 墓誌 -


 2012年3月31日 2010年4月に他界しました母の納骨式を多磨霊園にて執り行いました。


 この日は春の大嵐となり、列車の遅れが発生し、チャーターのタクシーも予定に来ず式の最後は、大粒の雨が横なぐりとなり、ご参加の方々に容赦なく降り注ぎました。


 前日はうららかな春日和、翌日も晴天。そのあいだの、この日。なんということか、、、 ご参加のみなさまに申し訳なくうろたえるわたしに、みなさまから、「実に 照子さんらしい きょうの日は」と、なぐさめとも、感嘆ともつかないお声をかけられ返すことばもなく、おわびの気持ちでいっぱいになりました。


 あらためてご参加のみなさまには こころからお礼を申し上げます。

<烈婦>母照子 お見送りをありがとうございました。


 このような中 式もそこそこに切りあげたため、みなさまにはもうひとつの大切なご報告をしそびれてしまいました。長くなりますが、ここにそのご報告を申し上げます。


 母の納骨式には、もうひとり、いっしょに納めた<母>がおりました。

父の母 竹内起代路です。(起よじ 起よし ともよばれております)



 今回母を埋葬するにあたり、石材店の刻字担当の方から、我が家の「墓誌」について尋ねられました。1977年の父と、1963年の義母の間に、一行「空間」があると。

 「墓誌」は通常、納骨順に間をとらず名前を刻字していくのが慣例で、このような形は、長年の仕事で経験がない、と。

 うかつでした。

父の墓参をずっとしてきましたのに、わたしは全くこのことに気づきませんでした。



 この「墓誌」は、父他界の後、母が新しく作ったものです。

父は墓だけを建てました。

父を埋葬の折り、母は墓所の改装を大きくいたしました。

その時に「墓誌」もつくり、この形に刻字をしたのです。



 どうして一行空けたのか?  おおきな謎ができました。



 丸二年 わたしのもとにいる母に尋ね続け、父にも尋ね、思いいたったこと。

それは、 父の 母 。


 父の眠る{ここ}に、{父の母}が <いない>。  起代路さんが <いない>。



 もしかしたら母は、この空白に、「起代路」と刻字を入れようとしたのではないか。

実母を父の横に、埋葬しようとしたのではないか。

それは、生前の父との約束か あるいは 父の心情を汲んでの母の決意か。



 母も6歳の時に、実母と永別しています。

朝いってきますといって、学校に行って、帰った時にはすでに絶命。

しかもその最期に 会うこともかなわなかった 会わせてもらえなかった。

別れをいうこともできず、実母と別れた母にとって、父の想いは{わがこと}だったのではないのか。


 そう考えが浮かび、ここ<空白の一行>に、「起代路」と、わたしは刻字しました。


 ここは、<起代路さんの 場所 >



 母を埋葬するにあたり、「墓誌」の好の右に起代路。左に照子。 刻字しました。



 母 起代路死去の時に 14歳だった父。



 実父武一は、そのあとすぐに、後添えの千代と生活を始めます。

父たち兄弟は、親戚の家に移りました。



 そして、母の初盆。

墓参に帰ったのは、好、潔の兄弟のふたりきりでした。



 14歳の父の目に、12歳のおじの目に、臼田の墓はどのように映ったのでしょう。

その後の父の年譜には、父武一とともに臼田の墓をお参りした記録はありません。



 いくらかの思いがあったのか、母の死後、武一は兄弟に自分の趣味の「カメラ」を持たせました。

兄弟は、これを持って、臼田町に行きました。



 カメラはこれ以降、父、おじ、ともに終生の趣味となり、特に戦時には、ふたりの往復軍事郵便に、カメラのことが多く書かれています。撮影に必要なものを、不足分送ってほしいことを、専門用語を連ねて書いています。写真も同封されていて、いっしょに中国各地の生活の様子を写しています。



 武一はその後、1939年3月に亡くなります。父はまだ20代でした。

武一の墓を、父は臼田町ではなく、東京多磨霊園に作りました。

すでに、実母起代路の墓が、生地臼田町に建立されておるにもかかわらず。

なぜ 父と母の墓を分けたのか。

終生 いっしょにしなかったのか。

父のこころを 推し量るすべもありません。



 母(祖母)起代路は、1924年11月 40歳の若さで他界しております。

長男好 14歳 次男潔 12歳 妹貞子 8歳

幼いこどもたちを遺して逝きました。



 臼田町の竹内家一族の<くるわ>の墓所は、あたらしく一括の「廟」に建て替えられ、<くるわ>の方々はその中にお入りになりました。



 武一建立の墓 起代路の眠る大きな墓は、そのままになっております。

<くるわ>の外に。



 現在はここを束ねる本家のご厚意に甘え、お守りをしていただいておりますが、この先確実に継承はむつかしく、わたしの代でなんとかこの墓をたたみ、多磨墓地に移そうと試みましたが、果たせませんでした。


 生地臼田町の方々にも、父にも、祖母起代路にも、すまなく思っております。


 実際の祖母を多磨墓地に埋葬できなかったことを父、母にわびて、

納骨式の日 刻字とともに

父が実母と写るただ一枚の写真を納めました。


 この写真は、弟潔 母起代路 起代路の母?とともに撮影されたものです。


 潔おじは成人してから、父方の伊藤家へ養子に入ることになり、生家の竹内を離れました。



 「おじさんは、ここに入れないんだよ、、、」

父の埋葬の時、そう言って墓石に顔をくっつけるようにして、長く見入っていた

おじの姿が忘れられません。



 せめて、写真だけでも、、、



 おじと父 母起代路に寄りそう写真を 父の中に納めました。



 わたしの思いはさらに拡がります。



 父が「一高受験に失敗」、と年譜にありますが、本人の言「合法的に家から脱出する」

方法として、遠くの高校へ行く。

父は本当に、一高へ入りたかったのか。



 母を亡くし、「善について」悩み、臼田を彷徨した父は、

< なにかから  ひたすら遠くへ >

そのこころが強くあったように思われてなりません。

< とにかく  遠くへ --->



 大阪高等学校時代 父にとって ここは この時間は 

人生の<要>になったように思います。



 東京に戻ってからの父は、武一の死後、後添えである千代をずっとみました。

千代は先の結婚で子をもうけています。

その子とその家族のことも、父は千代と同様に面倒をみました。

千代の孫にあたる青年の大学から結婚までを、 わたしたち家族と同じように。

孫の青年は、おだやかで控えめなやさしいひとでした。



 母は認知症になった千代の介護を長くしました。



 2011年ごあいさつに使用した両親の写真は、千代の孫の結婚式の時に、写真館で正式に撮ったものです。

自分たちの婚姻の写真がないこと。

ここにきて、ようやくふたりの写真を撮ったのでした。



 母の納骨式には、母の母 初恵さんの写真もいっしょにと、懸命に探しましたが

見つかりませんでした。



 母の母 初恵さんの名をわたしが知ったのは、母が死んでからです。

母死去の手続きに戸籍を取り寄せて 初めて知りました。



 母の「戸籍」は、28枚も用意しなければなりませんでした。実の両親の長女として生まれながら、戸籍には、母方の祖母の「五女」として届けられていたためです。そして、両親の「養女」となりました。

 そのため、先々代にさかのぼっての「戸籍」が必要になりました。そして、母の父(祖父)の度々の再婚により、「兄弟姉妹」が 会ったこともないひとまで、たくさんのひとの戸籍が必要でした。


 見つけられない写真を母にわびて、「名」のみ、母に納めました。

最初の結婚でもうけたふたりの子といっしょに写る写真を 母の傍らに添えました。



 父の母  起代路さん 享年 40歳  父 14歳



 母の母  初恵さん  享年 28歳  母  6歳



 ふたりの母は  父の傍らに 母の傍らに 眠っております



 「竹内好を記録する会」を始めてから お別れをした方々がいらっしゃいます。



みなさまのお名前を ここに記します。



2008.12 - 2012.12


2009.1 野村玉江さん


2009.10 安藤彦太郎さん


2010.4  母 照子


2011.3 川俣優さん


2011.5 久米旺生さん


2011.10 丸山ゆか里さん


2011.11 奥平卓さん


2011.12 近藤幸子さん


2011.12 村山孚さん


2012.2 左右田一平さん


2012.11 松井博光さん


2012.11  斎藤淑さん


2012.11 兄義母 飯塚美津子さん



たくさんの ありがとうを  こころから ありがとうを

ここに お別れをいたします

さようなら



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