事実経過
【太宰と竹内】|【太宰の愛読者】|【竹内好から太宰治へ『魯迅』を贈呈】|【太宰が選ばれてから執筆まで】 | 【太宰治から竹内好へ返礼】|【太宰治の『惜別』執筆】|【「惜別」の出版】|
【竹内好の復員】|【『惜別』への批判 1946年】|【『惜別』における魯迅の思想のとんでもない誤解】|【「藤野先生」という短い文章】|1948年 太宰治没
太宰治の小説『惜別』は竹内好の『魯迅』を参考にして書かれています
太宰治の小説『惜別』は、魯迅の『藤野先生』を題材にして書かれた小説であることはよく知られています。
また『惜別』は、太宰治が多くの文献を集め、仙台での現地調査をするなど、各種資料を参考にしていますが、竹内好の『魯迅』についても参考にしています。このことは、現在発売されているものには載っていませんが、1945年の初版のあとがきにわざわざ記載しています。
さらに『惜別』を竹内さんが酷評したという事実もよく知られており、『惜別』が太宰治の失敗作であるというその後の定評に繋がっています。
【太宰と竹内】
太宰治は明治42年(1909年)生まれ、竹内好は明治43年(1910年生まれ)の一つ違いです。太宰は、昭和10年(1935年)『逆行』が芥川賞候補となり次席。人気作家となり、1940年『思ひ出』『走れメロス』、1941年『東京八景』『新ハムレット』『駆込み訴へ』、1942年『風の便り』『老ハイデルベルヒ』『正義と微笑』『富嶽百景』、1943年『右大臣実朝』、1944年『津軽』、1945年『新釈諸国噺』とぞくぞく発表し、『惜別』に至ります。
魯迅 (講談社文芸文庫)
【太宰の愛読者】
<竹内好>「私がいつから太宰治のファンになったか、記憶がたしかでないが、たぶん『東京八景』の少し前からではなかったかと思う。・・・『新ハムレット』や『正義と微笑』や『実朝』はむろんのこと、そのほかどんな小さな文章でも見逃すまいとした。太宰の著書もほとんど全部集めた。昭和十八年(1943年)の末に応召出征するまで、この熱狂状態が数年間つづいた。」*1
<竹内好>「先輩作家は別として、同世代でこれほど親近感をもった作家は、前にも後にも私には太宰治ひとりしかいない。」*6
<竹内好>「太宰治の何にひかれたかというと、一口にいって、一種の芸術的抵抗の姿勢であった。・・・彼だけが滔々たる戦争便乗の大勢に隻手よく反逆しているように映り、同時代者として彼の活躍に拍手したい気持ちになったのである。・・・もっとも私は彼と一度も会ったことはない。」*1
【竹内好から太宰治へ『魯迅』を贈呈】
昭和18年(1943年)夏に『文学界』編集部から竹内好に注文があり、当時すでに書きかけていた『魯迅』の一部を「魯迅の矛盾」という題で『文学界』10月号に発表しました。
<竹内好>「そのころ毎日のように往来していた武田泰淳から、太宰治が私のことをほめていたという話を聞いた。武田もまたぎきではなかったかと思うが、ともかく武田の話をきいたとき私は、ひどくうれしかったことを記憶している。相手が太宰だから、自分がひそかに認めている人だから、うれしかったのである。・・・
そんなわけで、『魯迅』を書きあげて間もなく召集がきたときは、跋を武田にたのみ、あわせて、寄贈者名簿に太宰治の名を加えた。
知名人に自分の本を送るなど、私の性質としてできぬことだが、このときは生きて帰るあてはなかったし、それに『文学界』の一件があるので、気にかからなかった。しかし、太宰治がそれをよんでくれたかどうかは、昭和21年(1946年)の夏に復員するまで知らなかった。」*1
【太宰が選ばれてから執筆まで】
日本文学報国会は、昭和18年11月、帝国議会議事堂で開かれた大東亜会議で顕示された、大東亜五大宣言の五原則の文学作品化を企図し、19年2月3日、執筆希望者を集めて説明会を行った。
伊藤佐喜雄氏著「日本浪漫派」から引用させていただくと「・・・結局、その日出席した50人ほどの作家が、筋書を提出して、その中から5人が選ばれるということになった。私も筋書を提出したが、選ばれなかった。太宰は選ばれて『惜別』という小説を書いた。」・・・
執筆希望者が多数あったのは、資料蒐めや調査について、紹介状、切符の入手等で便宜が与えられる上に、印税支払、用紙割当等でも、当時としては大変好条件を約束されたからであろう。
・・・「『惜別の』意図」を日本文学報国会に提出してから、1年近く立って19年の年末に「独立親和」の原則を小説化して「惜別」を書くことを正式に依嘱された太宰は「惜別」取材のため、12月下旬弁当持ちで内閣情報局に行って紹介状などを入手して20日夜仙台に向かった。
・・・仙台には12月21日の朝着き、25日の朝仙台発、夜帰宅している。年が明けて、昭和20年は終戦の年である。「惜別」237枚は、この年2月末に完成した。空襲警報におびえて、壕を出たり入ったり、日々の糧にも、酒、煙草にも不自由し、小さなこたつで凍える指先をあたためながらの労作であった。
3月末に、私と2児とが私の実家に疎開したのであるが、このとき太宰は、私の名前で郵便貯金通帳を作り、千円という私がかつて持ったことのない預金を入れて持たせてくれた。これが「惜別」の印税であったと記憶しているから、原稿とほとんどひきかえに支払われたのであろうか。」(津島美知子 *8)
【太宰治から竹内好へ返礼】
太宰治は昭和20年(1945年)2月3日投函のハガキで、竹内好にあてて礼状を送ります。文面は 「謹啓 ただいまは御芳著を私へも御恵与下され、御配慮ふかく感佩いたしました。本当にありがたうございました。仕事を投げて、さつそく拝誦して居ります。御厚志けつして忘却仕りませぬ。空襲下、くれぐれも御大事にお願ひ申します。敬具」 (山下恒夫 *2)というものでした。
が、それだけでなく、この葉書が竹内好の自宅で発見されたとき、「件の官製葉書は、同時に、別便で郵送されたに相違ない昭和十六年(1941年)に出た限定三百部本の『駈込み訴へ』と一緒に納められてあった。その佩入りの豪華本には、菊花をすかし入りにした色紙が一枚添えられていて、 思ひは一つ 窓前花 太宰治と墨書されていた。『魯迅』寄贈に対する太宰治の返礼は、丁重を尽したものであったのだ。」(山下恒夫 *2)とのことです。
【太宰治の『惜別』執筆】
<太宰治>「いよいよ私がこの小説を書きはじめた、その直前に、竹内好氏から同氏の最近出版されたばかりの、これまた秋の霜の如くきびしい名著「魯迅」が、全く思ひがけなく私に恵送せられて来たのである。私は竹内氏とは、未だ一度も逢った事が無い。しかし、竹内氏が時たま雑誌に発表せられる支那文学に就いての論文を拝読し、これはよい、などと生意気にも同氏にひそかに見込を附けてゐたのである。・・・(「魯迅」の跋に)この支那文学の俊才が、かねてから私の下手な小説を好んで読まれてゐたらしい意外の事実が記されてあつて、私は狼狽し赤面し、かつこの奇縁に感奮し、少年の如く大いに勢ひづいてこの仕事をはじめたといふわけである。」*3 惜別(新潮文庫)
惜別 (新潮文庫)
【「惜別」の出版】
敗戦直後の昭和20年(1945年)9月5日に『惜別』が刊行されました。ちなみに、昭和20年9月5日発行の奥付には定価2円80銭、初版1万部とあります。
【竹内好の復員】
<竹内好>「(昭和21年に復員したら)太宰治は私の留守宅あてにはがきの礼状をよこしていた。そこに彼らしいきちょうめんな一面が感じられた。のみならず、彼に『惜別』という作品があり、そこで私の『魯迅』が利用されていることをはじめて知った。」*1
【『惜別』への批判 1946年】
<竹内好>「しかし『惜別』の印象はひどく悪かった。彼だけは戦争便乗にのめり込むまいと信じていた私の期待をこの作品は裏切った。
太宰治、汝もか、という気がして、私は一挙に太宰がきらいになった。・・・
作品のできはともかくとして、『惜別』における魯迅の思想のとんでもない誤解にだけは抗議しなければならぬと、私は考えた。そして「藤野先生」という短い文章を『近代文学』に書いた。これを私は太宰治への挨拶のつもりで書いたのだが、反応はなかった。私の非力をもってしてはそれ以上のことはできない。そこで私と太宰の縁は絶えたのである。」*1
【『惜別』における魯迅の思想のとんでもない誤解】
<竹内好>「だけど魯迅の場合は、孔子をからかってはいるが、否定しているわけじゃない。・・・わたしが太宰治の『惜別』で不満なのも一つはその問題ですね。・・・
魯迅が書いているのは、日本に来たのは孔子が嫌で・・・ 孔子という場合は孔子そのものというよりも儒教体制、日本でいえば天皇制ね、それが嫌で来たのに・・・弘文学院に入ったところが、きょうは孔子の記念日だから湯島へお詣りへ行こうといって全員引率されて行った、それでがっかりした、ということが非常に軽妙なタッチで書かれている。・・・時代背景だけいうと、そのころ維新派と革命派がものすごく対立していた。一種の近親憎悪でね。その維新派が孔子をかついだ。・・・そういう政治の渦の中での孔子というものは、維新派にとっては神聖なシンボル、だから、よけいに革命派のほうがそれをからかいたい気分になる、あの頃はね。」*5
【「藤野先生」という短い文章】
<竹内好>「「惜別」の中の魯迅が、太宰式の饒舌であったり、また「孔孟の教」という、魯迅の思想とまるっきり反対の、一部の日本人の頭の中にだけある低級な常識的観念をふり撒いたり、また嘲笑者であるべきはずの「忠孝」の礼賛者であることなどは、・・・私は問わない。・・・
ただ、
1.いやがらせ事件と幻燈事件を作者が個別に取上げていること、
2.そのため幻燈の途中で魯迅が座をはずすという風に軽く扱っていること、
3.二つの事件が魯迅に打撃らしい打撃を与えていぬこと、
4.そのため彼の文学志望が外部から加えられていること、
5.学生幹事への憎しみがはっきりせぬため藤野先生への愛情が低く固定されていること、
6.従って結局において仙台を去ってゆく魯迅の後姿が浮かんでこないことなどは指摘せねばならない。(番号付けは編者)・・・
魯迅の受けた屈辱への共感が薄いために愛と憎しみが分化せず、そのため高められた愛情が、この作品には実現されなかったのではないかとおもわれる。そしてそれは「藤野先生」の中から、卑劣な学生幹事を忘れて藤野先生だけを取り出したいという、その藤野先生に「日本人」あるいは「私」という着物を着せたがる、一種のいい子になりたがる気持ち気持ちと共通の地盤を持つのではないかと想像される。」*4
1948年 太宰治没
その後、竹内さんの文章としては、1956年にもう一度太宰治について短く触れています。
【花鳥風月】
<竹内好>「たとえば一見、花鳥風月には反対のような太宰治の『惜別』にしろ、私はどうも花鳥風月を感じる。これはまた、おそろしく魯迅の文章を無視して、作者の主観だけででっち上げた魯迅像--というより作者の自画像である。たとえば作中の魯迅が、儒教の礼賛をやるなど、かりに留学時代の魯迅の文章をよまなかったにせよ、晩年の文章だけで見ても、儒教的秩序に反抗したくて日本に留学したとハッキリ書いてあるのに、強引にそれをむししている。この作品を書いたときの事情が、作者に曲筆を強いたという説には、私は同意しない。作者は曲筆のつもりではいないのだ。
戦争中、私は太宰治が比較的すきだったが、復員して帰って『惜別』をよんで、ガッカリした。いい気なもんだ、という気がした。
「いい気なもん」に反対なものを私は期待していたのである。このごろ太宰治に関する評論がよく出るが、だれも『惜別』を問題にしないのはなぜだろう。その人の致命傷ににこそ本質があらわれるにのではないか。もし、きらいな作品をよけて通るということであれば、これまた花鳥風月ではないのか。」*7
ということで一件落着、となるところですが、竹内さんの存命中に「了解不能の」「一種の新時代を感じた」事態に遭遇します。
そのために竹内さんが『惜別』について再度言及します。しかし、この続きは、会員宛の「竹内好を記録する会 会員専用メール」に場所を移すことといたします。
(編者 斉藤善行)
引用文献
*1 竹内好「太宰治のこと」 『太宰治全集』月報3 筑摩書房 1957年
*2 山下恒夫「竹内好に宛てた太宰治の礼状」 『図書』岩波書店 1993年9月号
*3 太宰治「惜別 あとがき」 朝日新聞社 1945年
*4 竹内好「藤野先生」 『近代文学』 近代文学社 1947年2・3月合併号
*5 竹内好・橋川文三「対話 革命と文学」 『ユリイカ』 青土社1976年4月号
*6 竹内好「メモ二則」 『ユリイカ』 青土社 1975年3・4月合併号
*7 竹内好「花鳥風月」 『新日本文学』 新日本文学会 1956年10月号
*8 津島美知子「「惜別」と仙台行』『回想の太宰治』 1978年 人文書院