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竹内好のトリビア

粕谷一希さんの「竹内好が文章を取り消した」という言及について


 

粕谷一希さんの「竹内好が文章を取り消した」という言及について

粕谷さんは、「民主か独裁か」について、竹内さんが「翌号でその文章を全文取消」したと一九七九年に書きました。それだけであれば放っておいたのですが、さらに二〇〇八年には対談で「(竹内さんが)一回公表したものを取り消すというのはどうかと思います」とまで発言していることが、ごく最近わかりました。

 翌号に取り消すことなど出来ないのです。これは、資料探索をするまでもない自明のことです。粕谷さんは元著名な編集者とも思えない、資料特定がいい加減な方です。あとの引用文で記述されているのですが、そもそも最初に「『日本読書新聞』に書いた」のではありません。著作権を放棄したので、『日本読書新聞』には『図書新聞』での初出の翌々週の号(正確には九日後)に転載されたのでした。このほか都立大学新聞などにも転載されています。

 初出でなく二週間後に転載された『日本読書新聞』文章を「翌号」取り消すことは、理屈がとおりません。もちろん初出の『図書新聞』の翌号で取り消して、五日後に他紙へ転載することもです。

 二〇〇八年版が出ていなければ放っておいたのですが、藤原書店のような硬派な出版社で出ているのでは無視できませんね。まず、ネタ元をご披露します。次に、二〇一一年一一月三日に開催された「竹内好を記録する会」の締めの会で配布した「竹内好と福岡ユネスコ」の一部を再掲します。

粕谷一希 「対比列伝五 保田與重郎と竹内好」 『諸君』一九七九年九月号
(抜粋)
 こうした竹内好にとって、六〇年安保闘争は、戦後知識人にとって多くそうであったように、最大の試錬であると同時に、最高の政治的機会であったろう。
 有名な「民主か独裁か」というテーゼを提出することで、竹内は日本人に選択を迫ったが、彼の本音はよりラディカルなものであったろう。
〈いまや国会はその機能を喪失した。われわれはいまこそ、新しい人民議会の創設を!〉
 当時の読書新聞にそう提唱した彼は、その翌号でその文章を全文取消す。おそらく情勢論としてそうした情勢にないこと、あるいはそうした提唱が政治的に逆効果であることを周囲から説得されたためであろう。


粕谷一希・御厨貴 「〈解説対談〉「新古典」のすすめ」 『戦後思潮――知識人たちの肖像』 藤原書店 二〇〇八年一〇月三〇日第一刷
 これは『日本経済新聞』の別刷「教養特集」で一九七七~一九八一年に今鏡の筆名で連載した「戦後思潮」をまとめたもの。なお、本文には「竹内好――文士と国士の間」が収録されているが掲載時期の記載は見当たらない。
(抜粋)
粕谷 ただ実際問題として言えば、岸政権を倒したというだけでも、あの安保騒動の評価は大したものだということも言えるわけです。だから突っ込めと言った清水さんたちは非常に純粋だけれども、例えば竹内好は「今こそ人民議会をつくれ」と『日本読書新聞』に書いたんだけど、丸山さんたちによってたかって「あれを取り消せ」と言われて取り消す。一回公表したものを取り消すというのはどうかと思いますが、でも竹内好もそう期待したように、丸山さんたちもみんな、あのデモ隊はまた出てくるだろうと思っていたんだ。だけど、一回で終わってしまうのね。面白いことに、岡義武さんがそれを「大正政変」と言ったんだ。大正時代の民主化運動が、やはりこれも一回で終わってしまったということを言って「いや、そのことを書こうと思ったんだけど、書くと同僚といろいろあるからやめました」と(笑)。


〈付録〉
メモ 竹内好と福岡ユネスコ
二〇一一.一一〇一作成
粕谷一希さんのおとぼけ? または悪質なデマ?
 現在も精力的に執筆されている粕谷一希さんには、竹内さんについての、どう理解したらよいのかわからない記述があります。彼は、『竹内好全集』第一六巻「日記一九六〇年」に、以下のように“出演”しています。

五月十二日(木)晴。午前、共同ゼミ。午后、教授会。七時二十五分上野発急行で、粕谷君と共に水戸へゆき、駅前に泊。

五月十三日(金)晴。九時、速記者をつれ、橘孝三郎翁訪問。正午まで対談。スシを供される。一時十分発準急で帰る。

 他にも数カ所登場しますが、当時粕谷さんは中央公論社の編集者であり、同社が請け負っていた『思想の科学』の編集の担当者でした。(粕谷さんが思想の科学グループにどのような思いがあったかは、『中央公論社と私』に書かれていますが、それはさておき) 彼は『思想の科学』六月号〈特集:見のがされている農本主義〉所収「対談 ある農本主義者の回想と意見」の取材に同行していたのでした。それほど密な関係でしたが、信じられないことに、その粕谷さんが同じ年、同じ月の出来事を以下のように書いています。

 こうした竹内好にとって、六〇年安保闘争は、戦後知識人にとって多くそうであったように、最大の試錬であると同時に、最高の政治的機会であったろう。有名な「民主か独裁か」というテーゼを提出することで、竹内は日本人に選択を迫ったが、彼の本音はよりラディカルなものであったろう。
――いまや国会はその機能を喪失した。われわれはいまこそ、新しい人民議会の創設を!
 当時の読書新聞にそう提唱した彼は、その翌号でその文章を全文取消す。おそらく情勢論としてそうした情勢にないこと、あるいはそうした提唱が政治的に逆効果であることを、周囲から説得されたためであろう。
(「対比列伝五 保田與重郎と竹内好」『諸君』一九七九年九月号 文藝春秋。その後単行本『対比列伝 戦後人物像を再構築する』一九八二年一二月五日新潮社で刊行した。ささいな二ヶ所の修正があり、著者の校閲を得ていることが伺われるが、この部分の訂正はされていない。)

 「民主か独裁か」については、飯倉照平さんの「『竹内好全集』第九巻解題」で経緯を追うことができます。

民主か独裁か――当面の状況判断――
  一九六〇年六月四日付『図書新聞』(図書新聞社刊)に発表。著者がこの稿に関して著作権を放棄したため、六月一三日付『日本読書新聞』そのほか若干の学生新聞などに再録された。『不服従の遺産』にはじめて収める。のち『竹内好評論集』第二巻「新編日本イデオロギイ」(一九六六年五月、筑摩書房刊)にも収める。次項に引く評論集の著者解題を参照。
(なお、二〇一〇年現在、市販されているものでは『竹内好セレクションⅠ』(丸川哲史・鈴木将久編 二〇〇六年一二月刊 日本経済評論社)に収録されている。=竹内好を記録する会で追記)

四つの提案
  一九六〇年六月二日、文京公会堂で催された「民主主義をまもる国民の集い」の講演筆記に手を入れたものである。
  一九六〇年七月号『思想の科学』(第一九号、中央公論社刊)の「緊急特集・市民としての抵抗」に「戦いのための四つの条件」と題して発表、また一九六〇年八月号『みすず』(第二巻第八号、みすず書房刊)の「特集・危機に立つ日本の民主主義」に「民主主義再建のたたかい」と題して発表、『不服従の遺産』にはじめて収める。
 そのさい改題された。のち『竹内好評論集』第二巻にも、「四つの提案」の題で収める。評論集の著者解題には以下のように記されている。

 〈〔「四つの提案」を〕筆記したのは、私の記憶では、みすず書房編集部だが、『思想の科学』には次のように記されている。「これは六月二日『民主主義をまもる国民の集い』が東京・文京区公会堂で行われた講演速記に竹内好氏が御自身手を入れられたものです。速記は岩波書店・みすず書房でとられたものですが、一日も早く誌上に収むることを望んで『思想の科学』に譲って下さったものです。記して感謝致します。」してみると、岩波とみすずと両方だったのかもしれない。〉

〈この二つ〔「民主か独裁か」と「四つの提案」〕は、書くとしゃべるのちがいはあるが、内容はほぼ同趣旨であって、のちにブント派から、安保と民主主義を切り放して戦線を分裂させたとして、非難されるキッカケになったものである。たしかに、目標を縮小することによって動員の幅をひろげるという戦術的配慮もなかったわけではないが、戦術を除外しても、「市民主義」の名で呼ばれるようなものが要素としては私に内在していることは否定できない。私はやはり本心を語っていると自分で思う。
 ただ、弁解させてもらうならば、分裂は結果論である。「市民派」とよばれるものが、派として存在したと私は思わないが、傾向としてなら認めてもよい。その市民派が、戦線分裂を意図した、というブント派の主張は承服しがたい。批判は結構だが、批判がコロンブスの卵であっては困る。

「大事件と小事件」〔本巻後出〕にも書かないで伏せてあることだが、五月の末のある日、私はある会合に招かれて出席した。その席で吉本隆明氏と激論になった。若い連中もみな吉本氏の味方で、私は孤立無援だった。清水幾太郎氏も同席だったが、清水氏は一言もしゃべらなかった。議論の内容は省くとして、対立の要点は、私がプログラムの必要を力説し、彼らが、その必要を感じていない、というよりもプログラム無用説だったことにある。それは私に、無鉄砲で、アナキイという印象で受けとられた。最後に、では双方わが道を行くほかない、ということで私は会を中座した。

 プログラムが必要だが、その必要なものが手に入らない、という窮地に私は立たされていたわけだ。必要の有無を論じたり、作製の手続きを論じたりしていては急場に間にあわない。提唱と同時にモデルを示さなくてはならない。そのために、ちょうど寄稿の約束のあった『図書新聞』の紙面を使った。これが実情である。
 私はかねて、自分の手で記録づくりをやりたいと思っていたが、もうその力がなくなったようだ。もしかして若い人が研究してくれるなら、という心頼みでヒントだけを示しておく。
 今から思うと「民主か独裁か」は、無署名か仮名にすべきだったかもしれない。記録づくりはやれても、怪文書づくりがやれぬのは、われわれ仲間の弱点なのだろう〉

 また、竹内さんは一九六一年刊の『不服従の遺産』にも「あとがき」で触れています。

七、「民主か独裁か」という文章と、それと同趣旨を集会の席で述べた「四つの提案」とは、賛否が当時もやかましかったし、その後もやかましい。一部からは、目標をそらせ、戦線を分裂させたという非難を蒙った。私はいま弁解はしない。長い時間をかけた研究が行われることを希望し、その材料をここに提供するだけが私の任務と考えている。ただ、弁解はしないが、黙しがたい一つのことだけは言わせてもらう。あのとき私は、プログラムがない空虚感を痛切に感じたのである。そしてプログラムは、与えられるのを待つのでなく、自分で作らねばならないと考えた。私ばかりでなく、各人が自分で作るか、作らぬまでも選択すべきだと考えた。あのとき私に、拠るべきプログラムがあったと反論する人は、その証拠を示してもらいたい。あのプログラムは、私の空想の所産であって、不備は百も承知であるし、人に強制して承認を求める気は毛頭なかった。ただ、それがキッカケとなて、自主的なプログラム作製の機運がうまれることを期待しただけである。


(二〇一一年一一月三日配布の資料を一部修正した。)

作成:二〇一一年一二月一二日  竹内好を記録する会事務局 斉藤善行
修正:二〇一二年一月二日 ホームページ掲載を前提に一部を修正した。



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