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「竹内好に学ぶこと」

第12回北京日本人学術交流会報告 孫歌さんの講演


 

題目:「竹内好に学ぶこと」
報告者 孫歌:(中国社会科学院)
(2009年3月6日於清華大学人文社会学院)

竹内好について話して下さいと頼まれた時、私はちょっととまどいを感じたんですね。若い日本人の、専門の違う皆さんに、私は竹内の何を、どの側面について話せばいいのか。そして竹内という「厄介な」人物についてどう話せば誤解されずに、どうすれば生産的な結果が得られるか、大分悩んできたのですね。レジュメを作りながらもなかなか決められなくて、そこで今日は、ちょっとした準備会をしました。いまここにいらっしゃる立命館大学の中国文学者で私の古い友人でもある宇野木洋先生、そして留学生の若い方3人とコーヒーを飲みながら議論しました。その結果としてレジュメの内容とはまるで違う方向性が見えてきたのです。要するに、皆さんを眠らせない、時間の無駄にならない話になればいいと思います。
 
 これも山口さんのご注文だったのですが、レジュメを中国語で作るよう頼まれました。しかし中国語で考える竹内と、日本語で考える竹内のイメージは大分違うのです。皆さんにも似たような経験があるかと思います。中国語で竹内を書く時のポイントやイメージは日本語で書く時のそれとは大分違うのです、何が違うかというと文脈が違うのです。私はその束縛から自由になれませんでした。ですから中国語で書いたレジュメというのは中国の読者に向けた竹内なんです。簡単に言いますと、中国語で竹内を読む時に大事なのは、竹内好の持っている歴史性というのを竹内を通して受け止めなければならないということ、そして竹内を通して政治的正しさということの概念化を暴露しなければならないということです。この2点を展開すれば、中国の知的状況の要素は出てくるわけです。正直にいって、中国語のレジュメを使いながら日本語で喋ることにもの凄く困っているのです。努力して2つの言語の間である交錯した場を作らないと、今日の話はできないのです。ですから今日はそのような努力をさせて頂きます。
 
 まずレジュメの第一行部分の2つのポイントをお話させて頂きます。私の専門は政治思想史でありまして、具体的に言えば日本政治思想史です。戦後の日本政治思想を中心にやって参りました。 その中で出会った人物が竹内好です。そして私は今でも彼を完全に把握できたとは思っていません。彼は非常に複雑な人物ですから。なぜ冒頭から彼を紹介しなかったというと、ポイントをしっかり抑えておかないと視座というものを皆さんと共有できないと思ったからです。皆さんにとって竹内はただの過去の日本人という漠然とした存在なのではないでしょうか、しかし私にとっての竹内はただの過去の日本人ではありません。彼と接して次の2点を強く感じたのです。
 
 第1点ですが、竹内から学んだのは歴史を見るというのはどういうことかという問題です。人類にとって歴史というのは不可欠なものです。人間と動物の大きな違いは、人間にとって記憶がなければならないということです。歴史というものはある意味ではパブリックの記憶であり、大きく言えば人類にとって歴史は必要であり、小さく言えばある民族、言語共同体にとっても必要なのです。そして歴史というのは決していいものばかりではなく、はっきり言って歴史ほど残酷なものがありません。それから歴史を生きるということは容易いことではありません。今日の私達が同時代史の中で生きているかというと、決してそうではないです。生きながら同時代史の外に置かれる可能性も十分にあるのです。では歴史とは一体どういうものなのでしょうか。
 
 竹内から私が学んだのは、まず歴史を研究する人間にとって、歴史の流動性を常に感じなければいけないということです。その流動性というのは常に変化しているということです。具体的な例は挙げませんが、歴史感覚というものは一定したものになれば、それは歴史理論または歴史哲学になり、歴史感覚ではなくなってしまいます。歴史の状況に入って初めて歴史の変化を感じることができます。しかし激しく変化する時代の中で、今の瞬間は平和でも、次の瞬間は戦争になるかもしれない。そのような流動性をどう把握するか。  
 
 皆さん、考えてみて下さい。9・11の時、一体何を感じたのでしょうか。その瞬間はそれまでの歴史の変化を明白な形で示したのですが、それまでの長い蓄積を果たして把握できていたのかどうか。もしできていなかったとすれば、その歴史の流れにいなかったことになるのかもしれません。こういうことが歴史の流動性なのです。9・11の後、世界は激しく変わりましたが、私達はその変化に追いついているのでしょうか。このようなテーマを竹内は一生をかけてずっと問い求めていたのです、歴史の中に入るということを。歴史を把握する場合、流動性を敏感に感じ取る能力というのを持たなければ、歴史に入ることができないのです。そしてその歴史の状況に入ってしまえば、もっと厄介な問題に当たります。

 もし歴史の外に身をおけば、全ての現象が確定できます。戦争は悪、平和は善であり、プラスマイナスがはっきりしているのです。しかし歴史の進行状況に入ってしまえば、決してそうではありません。例えば、世界的大事件が起きた時、左翼が右翼と同じ立場に立つという現象がしばしばみられます。なぜかというとその時は状況自体がはっきりしていませんから、判断の際に錯誤が避けられないという側面はあるのです。これが歴史の流動性であり、不安定性という特徴なのです。ですから歴史を見る時に、この肌の感覚を育てなければ私達の見た歴史はただの安定した文字でしかない。これは生きている歴史ではないのです。

 第2点として、歴史の人物を見る時、その人物自体はどういう視座を持っているのかを追求しなければなりません。この場にいる皆さんは思想史研究をなされていない方が多いと思いますので、日常的な例で説明させて頂きます。例えば、普段とても優しい友人がある日突然、乱暴になりました。そのとき、あなたはどう思いますか。この人は乱暴な人なのだと判断しますか、それとも何か特別な原因があるのだろうと思いますか。同じ感覚で歴史人物を見る時に、思想史研究の中で他者を理解するという考え方は必要となります。この意味が一番表現されているのは、丸山眞男の「他者を他在に置いて理解する」という言葉です。つまり他者は私ではない。私だったらこの場面で暴れないだろうが、彼は暴れた。だが彼の性格と今までの経緯を見れば、私に理解できないわけではないと。これは歴史の人物を扱う時の大事な原則だと思います。私が悪いと思うことをしたから、あなたは悪いのですという見方。これは歴史の人物に対する正しい扱い方だとは思いません。歴史の中でこれを考える場合はどうなるか。私には一つ面白い経験がありまして、皆さんと共有したいと思います。

 これは数年前に福岡の学会に出るために北京を出発した時の話です。ある文章にも書いたことがあります。台風の影響で乗る予定の大連経由便がなかなか出発できなかったのです。翌日の朝私が一番に発表を控えていましたから、この状況にぶつかってとても慌てました。なぜなら、その日の夜のうちに福岡に着かないと行く意味がないから。さらに飛行機の故障や雷雨の影響もあり、いつ離陸できるかは全く分からない状況にありました。そんな中、行くべきか行かないべきかについては判断不能だったのですが、私がその判断に迫られています。その都度その都度、私にはキャンセルの機会があった。日本の友人に申し訳ないことをしたくはないから、私が決断をして、とりあえず行くことに決めました。最終的には本来2時間の予定を12時間もかけましたが、午後9時頃にはなんとか福岡に着くことができました。私は福岡の方に連絡し、私の12時間の屈折した気持ちを相手に少しでも伝えようとしたのです。ですがその人は忙しかったらしく興味がないといった感じで、「あ、そう。良かったですね」と簡単に応答して電話を切ってしまったのです。その時私が感じたのは、私が体験した12時間の緊張と悩みは本当に他の人と共有できるのかという問題です。また立場を入れ替えれば、私が受け入れ側の人間として、苦労して飛行機でやってきた人を迎えたという立場だったら、大勢の参加者を受け入れる中で、もっとも重要なポイントは、参加者が到着するかしないかということのみに絞られるでしょう。そしてもし私が福岡に到着できなくなってしまえば、話がまた別になるでしょう。そのとき、この12時間の経験の意味も変わるかもしれません。これはあくまで一つの日常的なケースの話ですが、ここから歴史人物をどうみるかという問題を取り出したいと思います。

 私達は歴史を見る時に、歴史人物の置かれている状況を決して共有できるわけではないのです。さっそく竹内好について話しますと、竹内は人生の前半を戦時中に過しました。今私達が知ることができるのは彼が書き残した物だけです。皆さんも含め私達は平和の時代に生まれ、その時代を生きてきました。戦争体験がないのです。私の飛行機の経験と同じように、その戦争期において、色んな緊張関係の中で決断をする必要があった人物の感覚は、私達は如何にしてそれを共有できるのか。個人的に思想史研究をやる際の原則としているのですが、私達には過去と出会う際に今日の価値観で過去の歴史または人物を裁く権利はなくて、このような行為は反歴史的ということなんですね。かといって歴史はどうせ相対的なものでいつも動いているから私達には判断できないという結論にもならないのです。価値判断はどの時代の人間にとっても必要なもので、原則というものは常に状況の中で守られなければならないのです。そこで今日と過去の価値判断の間にある種の出会いを作る、あるいは緊張しながら繋げるような継承関係を作るというのが思想史研究の役割だと思います。

 このような視座から見れば、竹内好という人物のユニークさはとても顕著にみえると思います。このレジュメには彼の活躍した時代の代表的な事例を並べました。まず竹内は1931年に東京帝国大学文学部支那文学科に入学し、4年間はほとんど勉強しなかったようです。親友の武田泰淳との出会いも卒業後らしいので、2人ともあまり授業に出なかったようですね。卒業後の1934年に「中国文学研究会」という研究会を作りまして、翌年に「中国文学月報」を創刊しました。そこで竹内は中国文学研究という新しい分野を開いたわけです。もちろん竹内だけではありませんが、彼がこの組織で最も重要な役割を果たしたことは、9年後に竹内がやらなければ誰もやれないということで研究会が解散したことからも分かります。これはその後、雑誌「中国」として生まれ変わりました。その参加者の一人はここにいらっしゃる池上正治さんですね。

 この時期の竹内の活動の中から2つのポイントを練り上げたいと思います。第1点目は竹内の中国文学研究会での10年間の活動における最も大切な仕事というのは、日本で優れた業績を挙げた支那学と対立した形で思想性と緊張感に満ちる中国文学研究を作ろうとしたことです。どれだけ成功したかは別として、支那学が学問として相対化されたのは確かなんです。そして竹内は支那学者との対立の中で自分の思想的模索を続け、その結果、名作『魯迅』が誕生しました。

 第2点目ですが、これは非常に厄介な問題です。竹内は太平洋戦争が勃発した1941年12月にある短い文章を書いたのです。中国文学月報という機関誌の宣言として掲載された「大東亜戦争と我等の決意」というものでした。これを読めば、素直な嫌悪感といいますか、あるいは反感を持たれると思います。実際に中国の若手研究者たちがこれを読みまして、竹内に不快感を抱いた者も少なくありません。その内容と言いますと、我々は今までの日本による侵略戦争に対してずっと違和感を感じて、抵抗してきたが、アメリカに対する太平洋戦争が始まったことによってこの嫌悪感が消え、この戦争によって我が国はやっと正しい道に辿りついたということを書いているのです。また興味深いことに当時の色々な雑誌に宣言文が掲載されましたが、右翼雑誌だけでなく「改造」といった左翼雑誌ですら42年1月号に太平洋戦争を支持する宣言を掲載しているのです。しかし竹内の文章は他のと比べても特質なものです。なぜなら他の戦争支持の宣言は戦場などについて全部具体的な内容を論じていますが、竹内の宣言文はからっぽな、ロマンチックな情緒的な内容になっており、戦争の中身に触れていません。唯一書かれたのは、我々はこれから支那学者を追い出そう、或いは彼らを倒そうということだけです。太平洋戦争における我々の役割は支那学者と戦って正しい中国認識を作ろうという内容なのです。話をさらに展開していけば、おそらく次の問題点にたどり着くでしょう。

 竹内はその戦争時代の中で歴史にコミットしようとしました。彼が最もなされたかったのは、歴史の渦巻きの真ん中に入って歴史と一緒に動いていくということでしょう。残念ながら彼の人生の前半は戦争の歴史でした。彼は実際、兵隊にもなったのですが、人を殺したことはなかったようです。ある意味では、実際の戦争はやらなかった、しかし精神の面では戦争をやったのです。彼の歴史にコミットしたことなのです。しかし彼の精神的な戦争の中身は中国侵略でもないし、アメリカと戦うというわけでもなかったのです。彼は何をなされたか、ここで次の分析に移ります。形の上で戦争を支持したという宣言文を読んだ時に、私は緊張した社会情勢を想像して可能な抵抗の形がどういったものなのかについて考えました。もちろんその時に黙って何も言わないこともできます。しかし竹内は敢えて危険を犯しながらはっきりと戦争への支持表明をしたのです。それは歴史に介入しようとする意思の現われだとも言えます。

 そしてこれを考える際には、もう一つの出来事についても触れなければなりません。1942年1月に竹内の「大東亜戦争と我等の決意」が出てから数ヵ月後に、いわゆる漢奸という、つまり日本政府の協力である中国人文学者達が日本を訪問し、大東亜文化大会という会議に参加しました。竹内たちの中国文学研究会は当時唯一の中国文学研究の学会ですから、主催者から会議の事務を務めるよう要請されました。しかし竹内は参加を拒否するだけでなく、公の形で恩人である周作人に会うことをも断りました。このような事情も考慮しなければ、当時竹内の考え方はおそらく正しく把握できないと思うのです。

 その後の1943年は、竹内にとっての大きな転換期となりました。その1月に中国文学研究会は解散しまして、中国文学月報は停刊ではなく廃刊としました。その後、彼は『魯迅』を書いたのです。このテキストは私から見れば魯迅研究書ではありません。もちろん魯迅研究者としても一流のものですが、私から見ればそれは竹内の人生にとっての、『魯迅』の中で使われた言葉を引用すれば、一つの「暗黒な点」なんです。これはどんなことかと言いますと、人間は子供から老人まで一直線に生きているわけではないのです。もちろん肉体的に考えればそうですが、人生の面で考えれば、一生の中で肝心な時期が必ずあるのです。皆さんにもそういう体験がおありかと思います。竹内はこう言っています、「すべての人の一生には、ある決定的な時機というものは、なんらかの形であるであろう。」この決定的な時機は、彼は「暗黒」とたとえた。「暗黒」の意味は、うまく説明がつかないというのです。しかし、このうまく説明できない時機を捉まえば、人間の人生の軸が見えてきます。「ある一個人が、彼の生涯にとって決定的な自覚を得るまでには、おそらく無数の要素の堆積があるだろう。しかし彼が一旦自覚が得た後には、要素は逆に彼の選択に任される。」

 竹内にとって、この決定的な時機というのは、1943年の一年間で、そしてその「暗黒」をうまく表現した様式が『魯迅』というテキストなのです。私は方法論として、その後の竹内が書いた全てのテキストをこの「暗黒」によって解釈し、理解しました。そうしなければ竹内という人格は一人の人間として成立できないのです。『魯迅』の中では色々なことが書かれましたが、その中で最も大事なのは人間は如何に自己否定を通して生活者、生きている人間になるという問題だと思います。一つのキーワードがあります。挣扎(そうさつ)という言葉ですが、中国語でzhengzhaと言います。この言葉は魯迅のキーワードなんですね。竹内の面白い定義によると、耐えるやもがくといった我慢する意味に近いとされる挣扎を日本語に訳すのは難しいが、強いて訳すならば抵抗になるのです。私はずっと竹内の色々なテキストを読んでいても分からないことが多かったのですが、ある日この注釈を入れて読むと目の前に全体像としての竹内像がぱっと現れたのです。つまり抵抗イコール挣扎なんですね。常識的に抵抗というのは外部に対する排他的な行為で、自己防衛のために暴力を伴うこともあります。竹内の定義は逆なんですね。抵抗の対象は外部でなく内部にあり、これは中国の魯迅で、そして中国現代の精神そのものだと定義したのです。確かに考えてみれば、五四運動以降の中国は自己否定を繰り返しながらも外部のことをスムースに受け入れたわけではありません。皆さんはこれほど混乱した、自己矛盾した国は他にないと思いませんか。私は中国人としてこういうったことを感じています。この国は黄河を母とする国ですが、黄河で泳ぐ人は一人もいません、ドロドロですし渦巻きがありますから。中国はこういった国なんです。

 竹内はこの挣扎という言葉で中国の魂を捕まえたと思います。そんな竹内は敗戦によって戦後期に入り、たくさんの名作を書きあげました。竹内は中国文学者を名乗っていますが、戦後に彼が書いた代表的なテキストの多くは日本について書かれています。1948年に書かれた「近代とは何か」という文章ですが、これは竹内「魯迅」の続編にあたると言ってもいいと思います。中央公論によって戦後に影響を与えた論文の一つに選ばれました。これは非常に難解ですが、やはりキーワードは挣扎です。竹内の有名な定義に、日本は転向文化で中国は回心文化というものがあります。この問題自体を展開する余裕はあまりありませんが、転向文化が自己否定というプロセスを経ずに他者からうまく学べるのと比べ、回心文化は他者からうまく学べず補強もうまくいかない、自己否定をしながら挣扎している。皆さんが中国で今感じているかなりの部分は、こういった視野から分析できるのではないかと思います。

 また1951年から「評伝毛沢東」という長い文章が書かれています。おそらく竹内は『魯迅』のもう一つの続編として書いたつもりだったかもしれませんが、『魯迅』ほど凝縮された文章にはなりませんでした。逆に言えば「暗黒」という時機は一回限りで十分ということかもしれません。しかし「評伝毛沢東」の最後で非常に鋭い指摘がなされています。中国革命の原理は「根拠地」哲学に基づいていると。この根拠地というのは中国革命の延安時代によく唱えられた一つのカテゴリーです。これは固定した地域の名称ではなく、闘いという流動性の中で常に変化するカテゴリーなのです。敵が強くなれば少し退いて反撃の準備にあたり、そして敵に隙ができれば打撃を加えるといったことです。また弁証法的な考え方でもあります。竹内の説明によれば、中国共産党の一番大きな武器倉庫は東京にあるとされます。つまり日本人の作った武器が戦闘の失敗によって共産党の手に入れば、日本人は共産党のために武器を作っていることになるのだと。これはもうただの戦略的位相を超えて一つの認識論となります。

 そこから毛沢東の「矛盾論」という著作をどう読むかという問題があり、竹内にとっては数十年をかけて議論し続けた一つの大きなモチーフとなりました。竹内によれば、毛沢東は矛盾論には2つのポイントがあります。矛盾にも色々あるが、主要な矛盾を捕まえてその主要な側面を自分のものにする。矛盾は常に転化する、今日は敵かもしれないが明日は友になるかもしれない。よって友になりそうな敵を敵としてだけ扱ってはいけない。そこには矛盾の転化という原理がなければならないのです。ですから矛盾論を詳しく研究することで、初めて中国のことが分かる。これは竹内の毛沢東研究と中国革命研究の基本的な手段です。 

 そして他にも少なくとも2つの名作を紹介しなければなりません。一つは1959年の「近代の超克」というテキストです。この論文も現在日本で時々批判されることがあり、政治的に正しいテキストではないです。竹内はここで日本の侵略戦争を分類しました。つまり1941年以前の侵略戦争と太平洋戦争の性質が微妙に違うと、太平洋戦争は侵略戦争というより帝国主義同士の戦争ではなかったかと。これは非常に批判もされましたが、しかし竹内には戦争を正当化する意図は全くありません。むしろ如何にして歴史の状況性に近づくという努力ができるか、なぜなら歴史の状況はそんなに単純ではありませんから。ですから一般論として戦争を非難するだけでは日本の戦争歴史を処理できないと竹内は強調したのです。

 また1961年に書かれた「方法としてのアジア」というのは、かなり難しい文章ですね。アジアがなぜ方法になるのか。なぜ実体になれないのか。これは非常に重要な問題ですが、今日は展開できません。そしてその延長線上において、1963年の「アジア主義の展望」があります。その日本のアジア主義という流れ自体もこうばしくなかったのです。その前期における少数のアジア主義者は責任感がありアジアの連帯意識を持っていたのですが、途中から変質していく過程で日本軍国主義の侵略と結びついていったわけですね。その中から連帯の可能性を救い出すことができるか、というのが竹内のテーマでした。

 これらの竹内の代表的な論文を通して、少なくとも私は2つのことを皆さんと共有したいと思います。まずどうやって私達が個人として自分が属している文化との関係について考えるということです。これは与えられた、選択できない条件ですが、すべての物事の前提になるかという問題を一緒に考えたいのです。竹内は若い時、非常に面白い発言をしています。私は別に支那を愛したわけではない。しかし私と同じような面白い支那人が多くいて、日本人よりも親しく感じているというのです。皆さんはどうでしょうか、私は先生や友人を選ぶ際に国籍を気にしません。しかし国籍があるのは事実として否定できません。竹内は一見、国際主義者という外観を持っておりません。中国文学を研究しながら、彼がいつも強調したのは「私は日本のために何かをやっている」ということでした。では彼は日本主義者なのでしょうか。私はこう考えました。人がある言動を行う際には必ず前提があります。もし前提が国籍であるなら、排他的なナショナリストです。もし前提がそうじゃなければ、自分を日本人や中国人だと主張しても排他的なナショナリストにはなりません。竹内はむしろ後者なのです。彼が生涯思想の原点としたのは、日本人ではなく中国人の魯迅でした。しかし竹内にとって魯迅は外部に位置する中国人ではなく、精神の原点そのものでした。私にとっても竹内はただの日本人ではないです。竹内の文章を読んでいる時に、私は彼から学びながらある親しみを覚えます。その感覚は国籍を全く前提としないときのものです。

 もし国籍を前提としなければ、私達はどうやって日本と中国について考えていくのでしょうか。私が冒頭に出した歴史の特徴という問題でもありますが、歴史を考える時に国籍で歴史を割り切っていいのかという問題があります。現実において日中の歴史は常に深く絡み合ってきましたが、それを日中両国の歴史として別々に分ける時に私達の居場所をどう設定すればいいのか。ここで竹内の方法論を思い出して下さい。挣扎というものは、国籍を超える所で発生した行為だと思います。自己否定というのはただの言葉の表現だけではないのです。例えば、私は中国人として竹内を読み研究する際に、これは日本の問題としてしまえば得られるものは少ないはずなんです。しかし歴史の渦巻きに入る際に、日本人にとっての侵略戦争は中国人にとってはもっと複雑で、抗日戦争でもあり内戦でもありました。この戦争という暴力に直面する際、人間はどういう決断をすべきかという問題があります。そして戦争が終ってからは日本人も中国人も平和をいかに守るか、どのように理想社会を実現するのかという問題に直面しています。

 ちょうど1月に朝日新聞に頼まれまして、「生活者の言語」というエッセーを書きました。この中で使ったエピソードに、さっき紹介しました福岡空港までの机上での会話を取り上げました。隣に座った日本人男性は中国に初めて旅行に訪れ興奮して、いろいろ話してくれましたが、最後に「中国には活力がありますけど、あなた方には言論の自由がないですよね」と言いました。こういう話を皆さんはどう受け止められるのでしょうか。私はそこでイデオロギー批判の抽象性と現実生活の豊かさのギャップを強く感じました。私達は日常色々な事が起きるなか生きていますが、反応しないことが多いと思います。しかし起きている出来事の多くの一部は同時代史になっていて、将来には歴史になると思います。場合によっては私たちは係わっているかもしれない。その係わり方、どう作れば、どう育てればいいのか、こういった問題はとても難しいのですね。竹内好は生涯を通して錯誤、過ちを恐れませんでした。事実、彼の書の一冊には『予言と錯誤』というタイトルがついています。そしてその錯誤には政治的な誤りも含まれています、一番極端なケースは「大東亜戦争と我等の決意」ですね。

 ある意味では、私たちは歴史の激しい流動性というのを日頃感じているはずなんですが、しかし意外にも私たちは鈍感で、メディアから与えられた出来上がった判断基準を使って豊かな日常生活または日常政治を測っているわけです。さっき飛行機で聞いた話を紹介しましたが、それは典型的な事例だと思います。考えてみれば、もしも我々も激動な同時代史に身を投じてしまえば、歴史人物と同じように、さまざまな過ちを犯す可能性があると思います。常に自分の感覚を分析しながら、政治的、思想的な生産をするというのは非常に難しい。しかしその努力がなければ 思想の形成はできません。これは私が竹内から学んだ一番大きな教訓だと思います。時間がそろそろ来たようですので、皆さんからのご質問をお聞きしながら、議論に入らせて頂きたいと思います。(テープ起こし:倉重拓)

著者紹介
孫歌(そんか)
現在、中国社会科学院文学研究所研究員。55年、中国吉林省長春市生まれ。吉林大学卒。日本の東京都立大学で博士号(政治学)を取得。一橋大客員教授などを歴任した。専攻は日本政治思想史。中国では主に『読書』、日本では『思想』(岩波書店)や『現代思想』(青土社)などで様々な論考を発表し続けている。また東京大学名誉教授の溝口雄三氏と「日中知の共同空間」のプロジェクトを立ち上げた。日本語の著書に『アジアを語ることのジレンマ』(岩波書店)、『竹内好という問い』(同)。『歴史の交差点に立って』(日本経済評論社)など。日本、中国にとどまらず、東アジア各地で活発な対話と発言を続けており、台湾や韓国、日本の研究者とともに論文集『ポスト〈東アジア〉』(作品社)も出版している。竹内好の中国語版『近代的超克』の翻訳者でもある。

(付記)私が、孫歌氏の論考を始めて読んだのは、『批判―植民地教育史認識』(社会評論社,2000)の中に収録されていた論考だったと記憶する。そこでも歴史の捉え方に関することが議論されていたことが印象に残っている。この報告の主題となった竹内好は、「すでに過去の人になっているのではないか」という一部の評価には反して、私にとっても非常に気になる存在でありつづけていた。

 まず、第一に1950年代はじめに竹内好が、すでに「近代科学は人類最高の頭脳が生み出したものだが、それはヨーロッパがアジアを支配する道具になっている。」といった趣旨の発言をしていたことが、その理由のひとつである。これは、エドワード・サイードの『オリエンタリズム』やルイス・パイエンソンの「近代科学と帝国主義」三部作の基礎にある主張ともいえるからである。第二に竹内好が、自分とは対極にある論者の言説に常に注意しなくてはならないと考えている論者であったことである。竹内好が語ったとされる「中国共産党のことを知るためには、中国国民党の動きに注目しなければならない。」という言葉はその思考をよくあらわしているとおもわれるが、いわばここに表明されている弁証法的な思考は、今日ますます重要であろうと私にはおもわれていた。

 さて、その一方、私は北京に滞在してかなりの時間が経過していたが、北京の日本人留学生から竹内好の名前を聞いたことがほとんどなかった。1937年から1939年にかけて北京に留学し、魯迅の文学作品の翻訳者として著名な竹内好のことが、北京の日本人留学生の間でほとんど話題にすらのぼらないことが、私には非常に不思議なかんじがしていたのだった。竹内好の著作は、ドイツ語、韓国語、中国語などに訳され、海外での竹内好の遺した仕事への関心は高まりつつあり、また日本のなかでも最近『竹内好セレクション』が刊行されるなど一部では関心が高まっているといえるのにこれはどうしたことだろうという思いがあったのである。 

 そんなとき中国社会科学院で竹内好の研究をされている孫歌氏と接点をもつことができた私は、北京日本人学術交流会で竹内好について主に中国に滞在している日本人に向けてはなしていただけないかとお願いすることにした。孫歌氏は、日本では日本人に向けて講演する機会はたくさんあるとおもわれたが、中国にいる日本人から講演の依頼をうけることは、おそらく珍しいことだったのではないかと思う。

 日本にいる中国人が日本語で研究会をやっているのであれば、中国にいる日本人も中国語で研究会をやることが望ましいと考えていたためレジュメは中国語でお願いしたのだが、語りを中国語にするとわからない日本人もかなりでてくることが予想されたので、語りは日本語でお願いすることにした。

 しかし、これは結果としては、日本語と中国語のニュアンスの違いの問題があってかなり混乱を招くことになってしまった。レジュメも中国語、語りも中国語とすればよかったのかもしれないが、中国にいる日本人の中国語力が、そこまで高くはないため、こうせざるを得ないところがあった。それなら中途半端なことはせず、どちらも日本語でお願いすればよかったかとも考えたが、中国で日本人が学術交流会をやることの難しさを感じた瞬間だった。主催者の不手際を孫歌氏には、この場を借りてお詫びしたい。

 参加者は全部で30人以上いたが、質疑応答では、日本と中国における愛国主義の問題などが、なされた。孫歌氏は、中国の愛国主義は、五四運動のころのものは本物のものはあったとおもうが、近年のネットなどのバーチャルな空間で見られる愛国主義は、個人の生活の不満を愛国主義として発散させているような質のものが多く、五四運動のころのものとはかなり違っていると思いますと応答していたのは印象的だった。私の知りあいの清華大学の大学院生は、私に「それにはとても共感しますね。」と語った。

 懇親会には、竹内好にあったことがある在野の中国研究者、池上正治氏や跡見学園女子大学の池上貞子氏、神戸大学名誉教授の山田敬三氏、立命館大学から清華大学に訪問学者としてこられていた宇野木洋氏をはじめとして留学生や中国人学生など多くの参加者があり、さまざまな議論が交わされることになった。

 日本の民衆と中国の民衆の相互信頼の回復を課題とする中国研究者の加々美光行氏は、日本ではなく中国から孫歌氏のような竹内好の研究者があらわれ、竹内好の思想のモチーフを「敗北を自覚した抵抗の持続」(この講演のなかでは挣扎という言葉が使われている。)として把握したことに注目した。また、孫歌氏は、東京大学名誉教授の溝口雄三氏と「日中知の共同空間」のプロジェクトをたちあげてもおられる。北京日本人学術交流会のわれわれとしては、中国の日本人を主体として敗北を自覚した抵抗を持続させ、「日中知の共同空間」の立ち上げを継承させていければと希望している。それこそが竹内好とそして孫歌氏に学ぶことであると考える。忙しいさなか講演を引き受けてくださった孫歌氏には、この場を借りて感謝したい。また、孫歌氏の講演をこうして活字で読めるようになったのは、地味なテープ起こしという作業をやってくれた倉重拓君のおかげである。あわせて感謝したい。(山口直樹)

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