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竹内好かく語られ記

竹内好のその好き嫌い


 

竹内好のその好き嫌い

安田 武

 これまで、竹内好に関しては、余り長くない文章を幾つか書いている。思うに、一人の思想家なり、作家なりに関し、折りに触れて、制限された約束と枚数のなかで書く。ということは、若し、その思想家なり作家について、本格的に書こうという意図をもっている限り、やめた方がいい。やめた方がいいらしい、ということが、近頃になってわかってきた。

思想の科学 昨年、まったく思いがけぬ竹内の急逝(それは、予想もしなかったから、どうしても急逝としかいいようがない)に会って以来、いくつかの注文がなかったわけではないが、竹内好に関しての文章は、いっさい謝絶してきた。もっとも、この場合は、いつか本格的に「竹内好論」を書きたい、という窃かな意図があってのことではなく、むしろ、ショックが烈しくて、故人として竹内好を考えるということに、神経が反射的に堪えられなかったからに過ぎない。

 とまれ、そうしたわけで、謝絶しつづけていた竹内好(小)論を、ついにまた書く破目になった。鶴見俊輔の出題に、さまざまな意味で、断わり切れないものがあったからである。まず、断わり切れなかった理由から書く。それには、旧文を引用させていただく。(実は、否応なく「旧文引用」といった、こういう仕儀になるから、いつか本格的に書きたいと思う思想家や作家については、小出しに語るな、ということなのだが――)

「数年前のことだが、思想の科学の編集部から電話で、竹内好について書け、という注文を受けた。何でも戦後思想家列伝といった特集企画で、私に与えられた課題は『実存主義者としての竹内好』というのであった。電話口で、エッと一瞬、私は絶句した。成程、実存主義者としての竹内好……か。これは、おそらく鶴見俊輔の出題であろう、と察した。むろん、二つ返事で執筆を承諾した。『魯迅』と、『みすず』に連載された「日記抄」が頭にあった。」

 これは、竹内の『転形期――戦後日記抄』が刊行された時、その感想書評を、『文芸展望』(昭和五十年四月、第九号)に書いた時の書き出しである。もう少し引用させていただく。その後、こう続く――。「だが、この時、私はついに執筆に到らず、約束の日が来てしまった。電話口で咄嗟に、『魯迅』と『日記抄』がひらめいた。そのまま書けばよかったのである。むろん、この二つについて書くつもりではあった。しかし、それには、竹内の他の著述も読み直してみて、と私は少々几帳面に考えすぎたようだ。あれこれと主要著作を読み返しているうちに時が経ち、〆切を逸してしまったのである。」

『文芸展望』の「読書」の頁に書いたこの文章は、同編集部からの依頼ではなく、私の方から柏原編集長に書かして呉れと頼んで、書いたものである。しかし、自分から頼み込んで、この本の感想を書きとめておきたいと思った、その動機の根には、引用したとおり、嘗て鶴見俊輔に「実存主義者としての」という課題を与えられながら、ついに果し得なかった、その一事が胸裡にあったからであり、だから、冒頭で、その間の経緯から書きはじめたのだと思う。

 そして、この時、この本の「あとがき」を書いた鶴見が「人には寛容を、学問には不寛容を、というのが私の信条」という竹内の言葉を、鵜呑みにしているのはまちがいだ。「人には寛容」というのは、人に寛容ではない竹内の自戒であって、自戒であるからこそ「信条」なのではないか、というイチャモンをつけた。

 いままた鶴見俊輔から「竹内好の好き嫌い」という出題を受けて、断わり切れなくなった原因が、そこにあるのだから、私としては、いわばグウの音も出ない、といった気味がある。そうした前例があるから、今度は、余り「几帳面」には考えないで、とにかく、竹内好に関して語り残しているところを書いておこう、と考えた。そう、本格的な竹内好論を書く機会があろうがなかろうが、差し当っては考えないことにしよう、と考えた。

 竹内好に関して書き残していることというのは、「自画像」に竹内自ら書いている、まさしく自画像[#「自画像」に傍点]に関する。現在での自己評価でいうと、私という人間の才能の特色は、ある種の組織能力にあるかのごとくである。それも三軍の総帥という柄ではないので、せいぜい独立守備隊の隊長格である。帷幕には参ぜず、さりとて単騎潜行もしない。ある程度の自由裁量の幅があり、戦闘の合間には魚釣りもできる。私はこの境地に至極満足である。

 ここで、竹内は自ら任じて「独立守備隊の隊長格」という、この自己規定が何ともおもしろく私には思われるのだ。「帷幕には参ぜず」というところがおもしろい。竹内とのかなり長い、近いつきあい、しかも酒の上でのつきあいで、竹内自身から軍隊当時の回想を聞いたことは一度もなかった。そういえば、私の方から訊ねようともしなかった。

 今度、「竹内さんを語る」企画・編集グループが刊行した『竹内好回想集』で、はじめて、竹内好上等兵の勤務ぶりがややわかったぐらいである。(同書、三谷作七「竹内好上等兵を語る」)竹内上等兵は、心窃かに自ら独立守備隊の「隊長格」をもって任じながら、「上等兵」勤務を忠実に果していたのであるか。軍隊に在って、野戦に在って、窃かに独立守備隊長の気慨をもった竹内上等兵は、戦後、復員して、「評論家としては中途ハンパ」、「学者としても中途ハンパ」、「また教育者としても中途ハンパ」ではあるが、にも拘らず、「自己評価」するところ、「独立守備隊の隊長格」ぐらいの器量はある、と自任し、「至極満足」していたという具合である。

 だが、竹内の発言には、いつもウラがある。「至極満足」といっている時には、きわめて不足(不服)といった含蓄を読み落してはなるまい。

 このごろ、だんだん悲観的になってくるんです。六・三制もいけないし、戦後の民主主義も余り残らないのじゃないかという気がするんだな。もし、それがあるなら、いまの安保反対運動というのは、こんなものじゃないと思うんですけれども。いまの反対運動にしても大部分は情勢論ですよ。世界の大勢は雪どけである。だから安保なんかいらんという情勢論ですよ。向うが情勢論で来るし反対も情勢論でやるというのは、「今や世界の大勢は」という、新人会以来の伝統ですよ。情勢は大事だ。条件としては大事だけれども、自分の行動を決定するのに情勢だけで割出すというのは、いかにも情ない話で、極端なことを言えば、情勢は何とあろうとも、我関せず焉で、我が道を行くというのが一本入っていきたいわけだ。それが明治はあったと思うんです。明治にあったものが失われたと思うんです。

 この発言は、六〇年安保の年、昭和三十五年のたぶん二、三月頃のことである。「たぶん」というのは、雑誌『新日本文学』五月号誌上での座談会における発言だから、逆算してそういうことになる。その前年、筑摩書房刊行の『近代日本思想史講座』の第七巻に、竹内が「近代の超克」について書いた。この竹内論文をめぐっての座談会で、佐々木基一が司会し、伊藤整と鶴見俊輔が出席している。

 座談会での竹内発言の引用した部分には、実に重要な問題点が幾つか含まれていて、ざっと数えたててみても、第一に例えば、その後、昭和三十八年になって発足した「中国の会」の六項目の「とりきめ」、あの論議を呼んだというか、物議をかもしたというか、その「とりきめ」の一項「世界の大勢から説きおこさない」という発想の根拠が何にあったか。つまり「新人会以来」の悪しき政治主義の伝統を断つ、という竹内の考えが明確に述べられているし、おなじく「民主主義に反対はしない」という項目も、戦後民主主義が、保守と革新とを問わぬ無原則的な、一種の「情勢」論に根ざしている限り、ほとんど意味をなさぬ、という批判が竹内の裡にあったことを、はっきりと示している点。

 第二に、この発言が、六〇年安保の年の始めに当っていて、そこで、竹内が「このごろ、だんだん悲観的になってくる」といい、六・三制教育から戦後民主主義全体への絶望を表白している点、にも拘わらず、それから数ヵ月、「六・一五」前後における竹内の昂揚ぶり、いうまでもなく、都立大教授辞任という行動として、また「民主か独裁か」を問うた言論面での活躍という「昂揚」があって、そしてもう一度「にも拘らず」、もっと烈しい絶望へと、竹内の内心は傾いていったものに相違ない、つまり、六・一五を中心とした安保闘争の激動に、束の間の「希望」(「ええ、六〇年安保闘争のときは、まだいくらか希望があると思っていた」――昭和四十五年五月二日「朝日新聞」)を托して、それだけに一層、ふかく裏切られ絶望してゆくというその一連の過程で、『転形期――戦後日記抄』と、後に題された「日記抄」が、安保の翌々年である昭和三十七年から九年にかけての三年間、『みすず』に連載されたという点、その上で、翌昭和四十年、「独立守備隊」の「隊長格」に自ら任じ、帷幕には参じないが、単騎潜行もしない、戦闘の合間には魚釣などもして、「至極満足」などと、如何にも悠々自適とでもいった「自画像」を描いている、この五年間の竹内内面の過程という点――さまざまに関心と興味をそそられるのではないか。

 だが、第三に、やはり、最も私が注目したいのは、六・三制から戦後民主主義の全体にたいし、そして迫り来る六〇年安保闘争への見通しを含めて、竹内が、「口をきわめて」という形容こそふさわしい烈しい口ぶりで、「情勢論」ではだめ、と極めつけている点であろう。「自分の行動を決定するのに情勢だけで割り出すというのは、いかにも情ない話」といい、「極端なことを言えば」と断わりながら、「情勢は何とあろうとも、我関せず焉」でなくてはならぬ、情勢がどうあろうと「我が道を行くというのが一本入って」いない議論も論理も思想も判断も行動も、すべて空しいと断言している点――ここに尽きるのだ。かくきっぱりと断言する竹内好の胸裡に底深く疼いていたものは、むろん、前後の文脈から明らかなごとく、「人間」それ自体にたいする関心と信頼と依拠の念であろう。しかも、竹内の場合、この「人間」は、飽くまで括弧つきであったという点を見落してはなるまい。

 朝野といえば「朝」、官民といえば「官」、を徹頭徹尾厭悪した竹内は、勿論、「帷幕」に参ずる筈はなかろう。福田恆存との対談(「展望』昭和三十年九月号)で、「どうやらわかってきました。竹内さんの根底にあるものは、アナーキズムですね」という福田に、「突き詰めていけば、そうなるでしょうね」と答える竹内は、よくいわれるようにナショナリストかも知れぬが、国家主義者ではなく、むしろ極端な「国家」嫌いだった。「国家」を牛耳る朝、官、帷幕に集まる幕僚(秀才)が大「嫌い」だった。

 秀才たちが何を言うか、私だって、この年まで生きていれば大方の見当はつく。たぶんそれは全部正しいにちがいないのだ。けれども正しいことが歴史を動かしたという経験は身にしみて私には一度もないのをいかんせんやだ。三時間にわたる座談会の間じゅう、自己嫌悪につきまとわれて、どうしようもなかった。」(「転形期」一九六三年一月十八日の項)

 さて――ここまで辿ってきて、あの「人には寛容、学問・思想には不寛容」という竹内の「信条」に立還ってみると、かなりおもしろいことになってくる。主題として与えられた「竹内の好き嫌い」が、かなりはっきりと見えてくる、少なくとも、私には見えてくるような気がするのであるが如何か。

「独立守備隊」の「隊長格」という「自己評価」の意味も明らかになってくる。つまり、「部下」一人一人の顔が、「隊長」として見えている範囲で、そういう部下や、また他部隊のおなじ「隊長格」といった「人間」たちに、「寛容」であらねばならぬ、親しくありたいと竹内はしたのである。もとより「帷幕に参じて」しまえば、部下の顔など見えよう筈もない。刻々に齎らされる「情報」に神経を尖らせ、地図を睨みながら、文字どおりの図上作戦に没頭することになる。

当然、「情勢」に関する判断の頭脳の明晰、理論的解釈の優越のみを誇りとする――逆にいい返せば、「人間」が見えなくなる――そういう参謀(秀才)、それは、オレはいやだ、と竹内は、実にきっぱりといっているのではないか。安保「体制」について、百万言の言葉を費して論じ、その論理の鋭利な整合性を誇ってみても、体制下に生きている庶民の顔が見えなくてどうする、いったい何のための論理、何のための思想か。(「戦闘の合間には魚釣し」というのは、ひっくり返せば、本部で図上作戦をやる参謀ではなく、部下と共に第一線に立つ守備隊の「隊長格」ということをいっている筈である。)

「なによりも私には体系への指向性が欠けている点で、学者としては不向きだと自分では思っている。」という竹内の自己認識は、謙虚なものだし、事実、竹内は謙虚ないつわりない心で、そう自己認識していたに相違ないが、しかし、この謙虚な告白に続いて、既に引用した「独立守備隊」云々の言葉が書き継がれているのである。「好き嫌い」という主題に従っていえば、「体系への指向性が欠けている」のではなく、抑々、「体系への指向」自体に、竹内は興味がないのだ、好きじゃない、のだ。

 ――人には寛容、という竹内の言葉に、どれだけの含みが匿されているか、いや、むしろ匿されていたか、先にも書いたとおり、竹内とのかなり長く近い「酒の上」を含めたつきあいを通じて、私なりに見てきた以上が、その報告であり私見である。竹内の言葉は額面どおりに受け取っていいし、確かに「寛容」であったが、その寛容には、どんな不寛容の裏打ちがあったか、このことが理解できねば竹内好という人間を理解したことにはならぬだろう、と私は思っている。

 ところで、私に与えられた課題は、確かに「竹内好の好き嫌い」に相違ないが、鶴見俊輔からの電話依頼を、更に忠実に確認した編集部からの依頼状には、カッコがついていて、とくに「生活的に」とある。ということは、平たく解釈すれば、たとえば食べものの話とか、酒の上での話とか、女の話とか、といったことに触れよ、という注文であったのかも知れない。しかし、そういう話柄には、ついに触れずに終わってしまった。殊更、避けたわけではなく、以前から、「自画像」のなかの「独立守備隊長」という竹内の発言について書いておきたいと思っていたためと、それ以上に、竹内好の「好き嫌い」は、本当をいえぱ、人間にたいしてこそ、一番きびしく、容赦なかったのだ、と私は確信しているからである。

 だが、最後に、まだ与えられた紙数がわずかに残っている。「火曜会」については、既に簡単だが書いているので、一つだけ挿話を書き添えておこう。

 昭和四十八年に『中央公論』(十月号)が、「近代日本百年 青春を創った書」という特集を企画した。五人の選考委員によって、中江兆民の『三酔人経綸問答」からはじまって、広津和郎『自由と責任とについての考察』まで十六篇が選ばれ、そのなかに竹内好の『魯迅』が含まれている。多田道太郎が『現代中国論』を推薦し、『魯迅』は私だった。
 
 多田 ぼくは、竹内さん全体についていえば、国とか党とかいう巨大なフィクションに対して独力でこんなにやれるものかということで、ものすごく激励を受けたね。おまえも、人物小さいけど、やれよ、というふうな。そういうメッセージを直接受けたような、青春時代の感動というのはやはり、ありますね。

 安田 いま多田さんのいわれたことをそのまま受けて、なぜ竹内さんが独力でやれたかという問題を見るために『魯迅』をあげたので、『現代中国論』などでは、現代状況についての発言が多いわけでしょう。日本共産党について、中国に対しても、六〇年安保のときもそうだけれども、そういう状況に対する発言の底に竹内好の一種の実存主義的なニヒリズムみたいなものがあって、そういうニヒリズムみたいなものが、単なる状況に対して発言している人たちと違う底力を作っていた、そしてそれが一番よく出たのが『魯迅』だと思うわけね。
 といったやりとりがあって、結局、『魯迅』が選ばれることになったのだ。解説は篠田一士が書いた。

 それから二、三ヵ月経ったある日、竹内好から電話がかかってきて、多田道太郎、篠田一士と私と混えて、一緒に食事をしたいので、日時場所等万事調整して呉れないかという。『中央公論』の「お礼」だというのである。委細承知して、私が連絡役を引き受け、歳が明けた四十九年一月二十四日、両国の「鳥安」であい鴨を食いながらの会合になった。小中陽太郎が加わっていた。忘れてしまったが、小中にも何か「恩義」があるのだ、というふうな冗談を竹内はいっていた。

 食事終り、小中が赤坂におもしろいゲーバーがあるといったが、皆乗気でなく、竹内さんは「風紋」へ行こうと張切っている。新「風紋」で呑んでいると、千夏ちゃんとかこちゃんも向こうの店に客がないといって遊びに来る。店の感じとしては旧店の方がいいんだと全員がいい出し、旧店の方へ席を移す。竹内さん、かこちゃんのカスタネットを借りて踊ったりすっかりごきげん。ついに深更二時を過ぎる。かこちゃんを高田馬場、千夏ちゃんを池袋まで送って帰宅午前三時を過ぎる。竹内さん、あと一ヵ月であの怪我以来ちょうど一年になる。後遺症から完全に解放されていないようだし、精神的にもひどくニヒルになっているところがあると見受ける。

 この感じは、私だけではなく、多田道太郎も心窃かに、そう感ずるところあったらしい。こんどは、多田の方から、あの時、御馳走になり放しだし、何だか竹内さん、ちょっとニヒルになってたみたいな感じだし、お礼をかねて激励する会やりませんか、という相談があった。

 竹内にその旨告げると、やりましょう、やりましょう、大いに賛成だね、ただし割勘だよ、といわれた。――この会は、昭和五十年一月十八日。場所はおなじ両国で、「ぼうずしゃも」ということにした。ちょうど三津五郎が「ふぐ」で中毒死した日で、ここへ来る道々、タクシーのラジオ・ニユースで知った私は、店へ着くなり、女将とその話をした。

 女将の妹が坂東流の名取で、以前はこの店に稽古場があったし、女将(といっても家つき娘だが)の亡くなった親仁さんが、上野の有名なふぐ割烹「三とも」の親仁とは若い頃の仲間だったので、踊りの話やらふぐの話やら忙しくしているところへ、やがて、藤田省三が現われ、竹内好が現われ、多田道太郎が最後に現われた。この時もまた「風紋」に寄って飲んでいると、朝日新聞の玉利勲、初山有恒が、当時のジャーナル編集長塩口喜乙と共に現われ、四人の顔ぶれをつくづくと眺めながら、アレ、アレッ、竹内さん、多田さん、藤田さん、安田さん、これは、いったい何の陰謀ですか、え、何です? とさすが腕ききのジャーナリストも面喰ったという面持ちであったが、帰路には、新聞社の車を使わして呉れて、大助かりしたものだった。

 ――要するに、過ぎ去ることだ。一切のものが、光陰とともに、すでに過ぎ去り、まさに過ぎ去り、やがて過ぎ去る――それだけである。『魯迅』
             
(『思想の科学』91号「竹内好研究」1978年5月臨時増刊号所収)

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