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竹内好かく語られ記

竹内好の文体


 

竹内好の文体

鶴見 俊輔

 竹内好の文章は、私にどのようにはたらきかけてきたか、そのことを書いてみたい。

 私は文章を書きうつすのが好きなので、たくさんの文章をうつしてみたりしてきたが、この人の文章は書きうつすことによって近づくことのできるものではないという気がする。

 抽象的な文章でありながら、それを書いた人の重さがかかっていて、肉声を感じることができる。その抽象が何か別の抽象から借りてこられたものではなく、切実な個人的体験のうらづけをもっているように感じられる。

 おおざっぱに言えば、竹内の文体は、そういう性格のものだが、その文体の特長をとらえるためには、たとえば漢文を否定しながらも簡潔さを含んでいることによって漢文をうけついでいるというような、その文章の形式上の特長よりも前にある、文章を書く気がまえというか、そういうところから考えてゆくほうが適切だと思う。

「ある挑戦――魯迅研究の方法について」(『思潮』一九四九年五月号)は、竹内が自分の文章を書いてゆく時の、コミュニケーションの場のつくりかたについて、手がかりをあたえる。(この文章は、『新編魯迅雑記』勁草書房 一九七六年に入っている。)

 竹内好は、自分の魯迅研究の方法をはっきりさせるために、その対極として、加藤周一の西洋文学研究の方法をあげた。
「ヨーロッパ精神を摑もうとすれば、(ヨーロッパの言語で)話すとか、日記を書くとか、徹底的にやるよりない。もしそうでなければヨーロッパ精神は徹底的に分らない。そういう解り方は、明治以後には衰えたけれども、奈良朝、平安朝、江戸時代には行われた。常に行われてきたので、それが、日本の作家の立派な伝統だと思う。」(座談会「戦後文学の方法を索めて」『総合文化』一九四八年二月号)

 加藤周一のこの発言を引いて、竹内は、日本の文化のおかれている植民地的現実に立脚し、そのことを勇気をもって自覚して方法をあみだしたという点で感動的であるという。そして、日本文化のおかれている状況の認識において、竹内は加藤の判断を承認するという。
「私は、加藤の判断の一切を、承認する。ただ、行動綱領だけは、承認しない。加藤の絶対他力にたいして、私は絶対自力を対置する。私は、加藤の論理の正しさを認めつつも、自分がそれに従うことは許さない。私は、加藤とおなじ目標に向って、加藤と反対の方向に歩く。そんな、バカなことが、できるか、というかもしれないが、できるか、できないか、やってみなければわからぬので、ともかく、私は、それを固執するつもりだ。」

 ここには、全力をあげて自分の進路をさだめようとしている人にとってさけがたい誇張はあるが、それは対立者を過少評価していやしめる態度ではなく、むしろその反対である。

「私は加藤の出発点を認める。かつ、日本文学の国民的解放という、自明の目的についても、おそらく、私の判断する加藤は、まちがっていない。ところが、このように、出発点と帰着点が一致しながら、途中の経路は加藤(およびその一派)と私(およびその一派)とでは、まったく、方向が逆である。いわば、加藤は、最短距離を行こうとし、私は、最長距離を行こうとするようなものであって、両者のあいだには、決定的な対立がある。私は、対立者である加藤を憎み、そして、敵として尊敬する。」

 ここには、逆にはたらくものの協力の場として、日本文化がとらえられている。こういう主張の仕方は、竹内についてまわる。竹内好は碁は初段くらいの腕前だったらしいが、こどもの時から父のうつ碁を見ていて、形から入ってゆくことをまなんだという。竹内の碁の先生だった白川正芳は、竹内が勝負よりもかたちを重んじて打つ人であったことを述べたうえで「氏の大きさに学んだ」と書いている。(白川正芳「竹内好氏の思い出」『竹内好回想文集 しかし、人間の心は宇宙より広い』一九七八年)その文体にも、おなじようなところがあった。敵と対立して石をおきながら、ともによい形をつくってゆこうとする仕事ぶりは、論争にさいして、自己を客体化し、相対化する。自分の好みによりかかりそれに導かれながらも、それを絶対化するのでなく、その自分の好みをつきはなして見てもいる。逆に見れば、論争の相手を客体化してつきはなす方法をとらず、相手を自分にひきよせて自分の内部において主体化してとらえる。
「偏見はたのしい、しかし無智はたのしくない」という『転形期 戦後日記抄』(創樹社 一九七四年)の中の、竹内好の学則のような言葉も、論争の規律から自然にうまれたものだろう。

 人がそれによって生きる思想は公平無私という具合にはゆかず、したがって偏見から自由になるということは望めないが、しかし、その偏見によりかかったままで相手のことをよくしらべないで裁断するというのは、いやなことだ。偏見の功罪両面を見わたすこの判断の中に、竹内の姿勢があらわれている。

 一九四九年に「ある挑戦」を書いたころ、竹内好は、二度目の『魯迅』を世界評論社から出したばかりだった。戦争中の最初の『魯迅』を私は読んでいなかったので、第二魯迅は私にはあざやかな印象をのこしている。だが、いったん書きあげると、この本に竹内は不満だったらしい。「挑戦」の中で、こう書いている。
「私は、生きているうちに、もう一度だけ、魯迅論を書きたい。私の未来の、魯迅論は、虹のようにまぶしい。私は書くであろう。この、私の、はずかしさが、私のものならば、私はそれを書くであろう。」

 どのようにしてそれを書くかは、まだわかっていなかった。加藤周一の西洋文化研究の方法が、その反対の方向に行こうという意欲をあたえる意味で、一つの道しるべになっていると感じた。そこには方法上の逆のタイプがあるだけでなく、その方法を用いる人間のタイプとしての逆の型があると、竹内は考えた。「加藤の秀才型にたいして、私は、私を鈍才型とよぶ。秀才と鈍才とは、相いれない人間の両極である。」

 別に、秀才が少数で、鈍才が多数というふうな数の大小を、竹内は考えているわけではない。むしろ、日本の文化が、奈良朝以来、秀才に指導されやすい文化の型であり、秀才型の文化が大衆の文化にまで影響をおよぼしていることを事実としてみとめ、それを突破するための絶望的なくわだてを自分に課していたと言える。

「すでに、西欧主義者の挑戦は、はじまっているのだから、私が、かれらと行を共にすることを好まないかぎり、私は、いやでも、その挑戦に応じて立ちあがるために、みずからをあえて、スラヴ主義者と名のることを辞すべきでない。」

 このように十九世紀のロシア思想史になぞらえて、竹内は自分の位置を呼ぶ。
「名は、かりの名である。結果は、神のみぞ知る。見渡したところ、敵は大軍であって、有象無象、上はマルクスから、下はサルトルの亜流にいたるまで圧倒的優勢を誇っているが、現段階においては、それも、仕方のないことである。私は、私流に、ナロオドニキを組織しなければならない。私は組織するであろう。私は、自分にできることは、やるつもりだし、自分にできることだけを、やるつもりだ。私は、日本文学史から秀才を追放したいし、私の憎悪をこめたアンドレ・ジイド論(たとえば、『コンゴ紀行』から)も書きたい。しかし、その準備のために、私はもう一度、魯迅論を書かねばならぬのであって、その準備の途中で、大望だけを抱いて、結局は何もせずに、私は死ぬかもしれないが、たとえそうなっても、どうも仕方がない。(一九四九年二月三日)」

 この文章は、後年の竹内好の文章から見て気負いのある文体であり、まぎれようもなく、日本敗戦―朝鮮戦争開始の間の、「戦後」というみじかい時代の空気を感じさせる。同時に、この文章は、一九四九年に書かれたとは思われないほどに、一九六九年、七〇年の全共闘のスタイル、それも東大全共闘よりは日大全共闘のスタイルを思わせる。竹内が六〇年代後半の大学闘争をあらゆる面で支持したとは思われないが、竹内がもっていたリズムは、全共闘がもっていたリズムに通じる。小田実の『現代史』出版記念会で、竹内好は、自作のかえ唄をうたってみせた。それは鳴子温泉で仕入れた秋田音頭をくみかえたもので、東大の先生たちがキンタマおとして、それを全共闘の学生たちがスキヤキにして煮てくっていたというようなものだった。

 この「挑戦」という論文には、後年日中国交回復後にあらわれる中国政府の魯迅解釈に密着した、秀才型の魯迅理解への日本流同調をもこばみとおすだけの毒がある。

 第三の『魯迅』は、どういう評論になっただろうか。『魯迅文集』の個人全訳の最後の一巻をあますのみというところで、竹内好がなくなったので、翻訳終了後にきっと書かれただろうと思われる第三の『魯迅』については推測する他ない。

 竹内好の明治維新論は、つくられた明治国家よりも、それをつくる明治維新のほうが大きいとした。その考え方をすすめれば、明治国家ができたあとを、指導するものの側からでなく、指導されるものの側から、その指導からはずれる部分から見てゆくということになろう。敗戦後ただちに、「指導者意識について」を書いて、指導をされる大衆の中の、指導者意識を排除する精神の働きにふれたのは、この着眼にもとづく。未解放部落の運動に心をよせ、竹内好独自の仕方で在日朝鮮人に心をよせていたことも、この第三の魯迅論の中に何かの形であらわれただろう。(市井三郎によると、竹内好は朝鮮語の学習のクラスをつくりたいと言っていたが仲間となる人を得られなかったという。)

 すでに第二の魯迅論に書かれていることだが、自分を批判する他人のその当人は信じられなくとも、彼が自分にあたえた傷は信じられるとして、傷口が思想をつくる力を重く見た、というよりも傷を思想形成の根元の力と見たことは、第三の魯迅論に、もっと放胆に、日本の現実にからめてのべられただろう。

 そこには、自分を、近代主義を批判する一種の近代主義者と見た竹内好の矛盾が、さらに、矛盾の深化としてつきつめられていったと思う。
「お断りしておくが、ここで私が近代主義というのは、価値判断を含んではいない。近代主義を十把ひとからげに悪だと決めつけるやり方には、私は反対なのである。ただ思考のタイプとして、近代主義というものがあることを、事実問題として認めたいのである。

 近代主義はどういう特徴をもっているかというと、近代を考える場合に、西欧を唯一のモデルとして、近代をすべて等質化して考える傾向である。したがって、近代化は、唯一のモデルである西欧を踏襲するものとして考えられる。後進国の近代化の場合もそうである。コースは一つしかない。どんなにおくれて出発しても、この一本のコースを歩むしか方法がない。そういう考え方が前提になっているのである。だから近代化の度合いが、量の問題に還元されて提出される。(略)

 こういう近代把握に私は疑いをもっている。そして戦後、それに反対する一つの仮説を提出しているのである。私の仮説は、近代は多元的に考えねばならぬのではないか、西欧を唯一のモデルとすることは誤りではないか、というのである。したがって、後進国の近代化の場合に、日本のような型もあるが、それとちがった型もあるのではないか、少くともインドや中国は異質ではないか、というのである。

 ここで私は、価値を問題にしているのではない。どちらがよくてどちらが悪いということはない。日本には日本の道があり、中国には中国の道がある。ただ、日本を基準にして中国を量ったり、逆に中国を基準にして、日本を量ったりしてはならないと思うのである。」(「魯迅の思想と文学」『学鐙』一九五六年十二月号『新編 魯迅雑記』所収)

 近代主義という時、西欧の近代を普遍的な文明の範型として日本の前におき、それにむかって進むことを説く思想の流派であり、その際には、日本の民族の体験をとおして考えてゆくことが重んじられない。民族の体験ぬきで、舶来の道具を使って目的地に達し得るという考え方が主流になる。この考え方に反対して、西欧文明を範型とみなすことに集中攻撃をくわえ、民族の体験をミコのような神秘的な力でよびもどしたのが、保田與重郎らの日本浪曼派であったし、その戦中の活動を黙殺して敗戦後の思想をきずこうとしたのが戦後の進歩思想だった。「マルクス主義者を含めての近代主義者たちは、血ぬられた民族主義をよけて通った。自分を被害者と規定し、ナショナリズムのウルトラ化を自己の責任外の出来事とした。『日本ロマン派』を黙殺することが正しいとされた。しかし、『日本ロマン派』を倒したものは、かれらではなくて外の力なのである。外の力によって倒されたものを、自分が倒したように、自分の力を過信したことはなかっただろうか。それによって、悪夢は忘れられたかもしれないが、血は洗い清められなかったのではないか。」(竹内好「近代主義と民族の問題」『文学』一九五一年九月号『新編 日本イデオロギイ』竹内好評論集第二巻 筑摩書房 一九六六年所収)

 血を洗い清めるということは、竹内にとって、中国侵略に反対しながらも兵士として中国に行ったこと、対米英蘭の開戦以後は日本の戦争目的賛成に転じたことにかかわる。竹内は戦中の文章を戦後に復刻することによって明らかにし、その責任をせおった。それらのことがなかったようにして戦後再出発するということはできなかったし、しなかった。「中国人の抗戦意識と日本人の道徳意識」、「近代の超克」など、戦時の日本思想をたどりなおした竹内の評論では、みずからの傷が思想をおしすすめる力となって、言葉が沈黙とおなじほどの重さをもっている。

 人は自分のつまづきをとおして今を生きる他ない。過去のつまづきを心中に保って何回となくそこにたちどまってはふたたびとおることで、今を生きる活力を得る。そういう態度で、昭和の十五年間の戦争に対することが竹内の方法だった。方法というよりも、それは彼の生きかたであり、だからこそ、その文体は、抽象的である時にさえも、言葉がよくえらばれているということをとおして、筆者自身の傷を感じさせ、筆者が黙って読者とむきあっていることを感じさせる。

 竹内好とほとんど交際のなかったひとりの読者が、大学生のころに『現代中国論』を読んだ経験をこんなふうに書いた。「わたしが竹内好の名を知ったのは『現代中国論』(市民文庫版)ででした。今、この古びた、とじ目もゆるんだ文庫本を手にとってみますと、『一九五一年十一月八日』と、扉に購入年月日が記されています。わたしは大学の二年生でした。二年前の一九四九年、中華人民共和国が成立して、わたしたち学生は新中国を知りたくてうずうずしていました。その時出会ったこの一冊の本の重みを、何といったらよいでしょうか。しかし、この本の評価はむずかしくもありました。一つの例として、ごく個人的な思い出話をいたしましょう。この本によってわたしは数ある(?)ボーイフレンドのうち最古の一人を失ったのです。でも結果的にはよい決断だったのですから、竹内さんに感謝こそすれ恨みなど毛頭ございません。彼の読後感はただひとこと『階級性がない』でした。彼は昔も今も、ある政党の忠実な一員です。」

 この人は、新聞で竹内好の死を知り、そのあとで魯迅と許広平の往復書簡をあつめた「両地書」(これは岩波書店の魯迅選集では松枝茂夫・竹内好記訳)をひらいて、魯迅の次の文章に出会う。
「私は『人間界の苦しみ』を呪いながら『死』は嫌悪しない。『苦しみ』は軽減する手段があるが、『死』は必然事であって、『終り』と言ったところで悲しむには当らない、……自分と関係のあるものが生きていると私は安心できない。死んでしまえば安心します。……」

 この引用につけくわえて、彼女は書く。「わたしはすでに両親を失っていますのでこの言葉は自分なりにわかります。ボーボワールは母親の死について、『あらゆる死は不当な暴力によるもの』と抗議しましたが、わたしは魯迅により打たれるのです。

 わたしも『安心』して竹内さんについて考えつづけましょう。」(辻智恵子「竹内好さんについて」『竹内好回想文集 しかし、人間の心は宇宙より広い』)

 竹内好の文章が、その多くが抽象的な散文でありながら、一つの恋愛感情を終わらせたり、自分の両親の死にひきよせて考えさせるほどの、実在感をもっていることが、わかる。竹内好が近代主義を批判した時、その近代主義というなかから自分の思想を除外していなかったことが、その批判の文章に重みをあたえた。批判の対象とする何かを、自己を含む集合とすることが、批判の文章に、すいすいと能率的に進むことをゆるさない。水をとらえたオールのように、オールが重くなる、そういう感じが、竹内の文章の特長である。

 花田清輝は何度か竹内好を批判して、「現代中国論」とか、「国民文学論」とか、その論文の題にいつも「国」がついている、そんなに国がすきなら、国内好と改名してしまえなどと書いた。花田の批判は、日本国民が日本国民として自力で近代化し、未来をひらく。という竹内の主張のせまさにむけられ、一つは、国民大の規模でなくてもよいではないか、もう一つは、近代でなく前代をよりどころとして未来がひらけると考えられるのではないか、と暗示した。この批判に対して、竹内は、前後の公開講演で、こたえている。

「と申しますのは、一昨年死んだ花田清輝、この人は一種の近代否定論者で、つまり前近代をテコにして近代を超えようという、簡単に手っ取り早くいえばそういう主張をもっておって、そういう立場から魯迅を評価する。とくに魯迅のなかの『故事新編』という小説集をひじょうに高く買って、私は何度か彼に食いつかれた経験があります。私はなぜ食いつかれたかといいますと、近代化には複数の型があるのじゃないかということですね。それを仮に日本型と中国型と呼んだわけです。なぜそういったかというと、私は中国のことをやっていますから、とくに魯迅をやっていて、そこからアイデアがうかんだので、そういう名前をつけたわけです。じつはその名前のつけ方がまずかったとあとで反省していますが、中国とか日本とかいいますと、やはり個別のものになるので、そうでなくて別の名前にすればよかった。あるいはそれをもっと発展さして、できるならば少しでも一般法則に近いようなものにまで理論化を進めればよかった――よかったというよりも当然すべきであったが、力及ばずしてそれができなかったということで、ですから、私は、近代化は人類の歴史に不可避な命題であるとその当時は思っていたのです。いまはだいぶん考えが変わりました。それは花田から教えられたからということなのか、あるいはわれわれの近代社会の崩壊、近代文学の崩壊があまりにはっきり目に見えてきたためにそうなったのか、これはまだよく考えていないんだけれども、いまでは花田の私にたいする批判はかなりあたっていると思います。彼が死んだから言うわけじゃありませんけどもね。」(竹内好「魯迅を読む」一九七六年十月十八日、京都会館でおこなわれた岩波の文化講演会での速記記録。『文学』一九七七年五月号。後に『続 魯迅雑記』勁草書房 一九七八年に収めた。)

 この論旨をすすめると、竹内の第三の『魯迅』は、前の二著で言及されることの少なかった『故事新編』の解説により大きな力をさき、知識人だけではなく大衆の門をつたわってその思想形成に力をあらわす伝説とうわさの研究につらなるものとなったと思われる。というのは、今の花田批判の評価のすぐあとに、司馬遼太郎の『翔ぶが如く』についての言及があるからだ。近代人としての司馬が西郷の死後その死の責任を直接に負う大久保の暗殺、川路の警察制度設定までたどって終わりとしたことをあげ、魯迅ならば別のあつかいをしただろうと言う。西郷が死んでから民間伝承として西郷星があらわれる、それをあつかうのはもはや近代文学の方法ではなく、中世文学の方法だが、魯迅ならばきっとそれをやる、という。

 このように魯迅を見るとすれば、それは、中国型の近代化のいしずえとしてだけ魯迅を見るというわくからはなれたことになる。もともと日本の鈍才の例から日本近代化をさぐるという竹内の発想は、魯迅の「阿Q正伝」を読んで得た着想だったが、その鈍才の道を、近代化(日本だけでなく中国のも)批判としてさらにすすめるところに竹内はたっている。

 竹内好の国民文学論は、これがきっかけとなって、それまで黙殺されていた日本浪曼派を正面から見すえる橋川文三の『日本浪曼派批判序説』(未来社 一九六〇年)、日本文化の西洋近代とあいふれた層、封建文化の層、民族伝承とかかわる層の三つの層を表現し得た作品として中里介山の長篇をとらえた桑原武夫の「大菩薩峠」(『パアゴラ』一九五七年五月号 後に橋本峰雄の「『大菩薩峠』論」桑原武夫編『文学理論の研究』岩波書店 一九六七年にうけつがれた)などへの道をひらいた。しかし、そういう副産物をのぞくと、論争としても、創作へのうながしとしても、竹内の期待した方向には動かなかったように思う。「国民」という言葉を、国とも、政府とも区別して、ここにながらくすんできた民衆としてとらえるのが竹内の流儀だが、それでも、国民というと、今の政府をいただき国というカラの中に住むこの一億の人ということを指すように、日本語の使い方ではなってしまい、国民文学論も、そういう一億の人に読まれるような文学という意味に横すべりしてしまった。「国民文学」という名をかぶった文学全集や小説が、竹内の国民文学論の提唱後に売りだされたが、それは、竹内の考える仕方で、日本人の民魂をほりおこすような仕事ではなかった。日本人全体によびかけるというもともとの竹内の設定にそのあやうさがあったように思う。むしろ、この土地に、おなじ日本語を使ってくらす人と人との間にうまれる文化の理想像というのが、竹内の本来の考え方ではなかったか。

 竹内好の「国民」という言葉の使い方は、杉浦明平の回想(『魯迅文集』第四巻月報)によくあらわれている。ハンガリア動乱のころ杉浦は竹内好の家をおとずれ、ソ連の一方的な政治に対してハンガリア人がいやがるのはよくわかるが、それがいとぐちとなって、ハンガリアが反ソ親米の体制にくみこまれるのが困ると話すと、竹内は、「ハンガリア人がそうきめるのだったら、それでいいではないか」と答えた。その時には杉浦は承服しなかったが、今では、竹内の判断に同意できると書いていた。

 自分がまちがっていると思うことでも、民族がそのまちがいをあえてするというのだったら、そのまちがいをなし得る条件をあたえられなくてはいけない、と竹内は考えた。同時に、その民族のおこすまちがいにたいして、そのまちがいを民族の一員として批判する仕事をもひきうけるようでありたいと考えた。その竹内の考え方は、中国を論じ魯迅を論じた論文にはっきりあらわれているけれども、国民文学論にはそれほどはっきりしていない。竹内の国民文学論は、中央のマス・メディアからはなれて地方の伝承習俗へ、その中にはぐくまれた個人の思想の自由へとさらに眼をむけて行く方向をとり得たが、途中でこの問題に関心を失ってしまったようだ。

 日本人の習俗の中に生きて、自主的な判断を失わない生き方をする人に対して、竹内は敬意をもっていた。その人が、文筆家とか研究職についている場合にも別に例外をみとめなかった。そういう考え方は、竹内の文章の中にあらわれている。

 竹内の文章は、前にも何度も書いたように沈黙とおなじ重さをもっている。ことさらに自分の考えをのべる必要もなく、書く必要もなく、そういう必要があれば言ったり書いたりするが、それは、黙ったまま生きてゆくということとおなじだという文章観である。
「疑疑亦信也」という荀子の言葉が、『転形期』の中に竹内の好きな言葉としてひかれている。『竹内好回想文集 しかし、人間の心は宇宙より広い』のはじめに、函館市の加藤昌市氏提供として一九六八年九月二十六日の日付でおなじ言葉のペン書きが復刻されている。

 竹内好は、漢文読みをきらって、中国語の方式どおりにまっすぐに読みくだしたらしいので、この荀子の言葉をどう読んだのか、私にはわからない。私にできる仕方で漢文式に読みくだせば、「うたがいをうたがうもまた信なり」ということになるが、それで意味がとれているかどうか。ともかく、この思想観は、私をひきつける。それは、思想観だけでなく、文章観をも導くものと思う。

 人のつたえたある信念をうたがい、そのうたがいをまたうたがうという流儀には、もはや信念などないように見えるかもしれないが、そのうたがいの保留の仕方そのものの中に、一つの生き方がある。それは演説とか論文とかにはなりにくいが、無言のくらしかたの中には、たしかにそういうものがある。

 指導者意識にひきまわされないひとりの生き方である。市井の人の生き方と言ってもよいが、知識人にもそういう生き方はひらけているはずだ。

「そして名文にはいくらかの空しい感じが伴うのを免がれることができない」と竹内は『転形期』に書いた。机の上で仕事をするもの、壇の上で演説をするものには、名調子におちいりやすいという職業病がまっている。そういう病気から自由な文章として、竹内好の著作は私をひきつける。それは、一時の激情ではなく何年もかかってその原則をになってくらしてゆく姿勢を感じさせる文章だった。その説くところは、しばしば常識的であり、その一部分が実際的な提案であったことも、同時代の評論家にめずらしい特長だったが、その論文のほとんどが実際的提案、あるいは常識のおだやかな再提出である時にも、それにつきない何かがのこり、未来を指さしているという印象があった。

『思想の科学』1978年5月臨時増刊号所収 思想の科学社発行

この文章の掲載にあたっては、鶴見俊輔さんのご了解をいただきました。
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