本文へスキップ

竹内好かく語られ記

追悼 竹内好 遠くにあって おもう


 

追悼 竹内好 遠くにあって おもう

鶴見 和子

 三月三日朝(日本では四日)、俊輔から電話がかかった。三年前トロントにいた時、夜中すぎて俊輔から、父の臨終をしらされて以来、わたしは外国にいて、きょうだいから電話がかかるのを好まない。今度も悪い予感がした。三日の午後七時四十分、竹内さんが亡くなられた、しらせであった。その後も、何人かの友人のてがみに、竹内さんのことが書き送られてくる。新聞の切抜も、『展望』の追悼号も、いち早くとどいた。竹内さんの死をいたむことによって、にわかに、なつかしい人々との交流が密になった想いがする。ただ、竹内さんの最後の日々に、わたしが日本にい合わせなかったことの悔いは残る。埋め合わせようがない。

 去年八月末、プリンストンへ出発する前、わたしとゆき違いにプリンストンから帰られて、関西の病院へ直行された市井三郎さんが、大分元気を回復されて、明日竹内さんのところへご夫妻で挨拶にいかれるのだが、そのかえりに、わたしの家へもお寄り下さる、とお電話下さった。それで、わたしはとっさに、竹内さんご夫妻を車にのせてお連れして下さい、家で酒盛りしましょうよ、と市井さんにお願いした。照子夫人にお電話すると、「この頃お父さんは、仕事場から帰ってくると、疲れたといって休むのでね。どうでしょうかねぇ。わたしだけでもおうかがいしましょうか。」といわれた。わたしは、うかつ[#「うかつ」に傍点]にも、その時まで、竹内さんのお具合がよくないことを知らなかったのである。

 夕方もう一度お電話したとき、わたしがまた外へ出てゆくことに、けはずかしさを感じているのを励ますように、竹内さんは、「わたしも、どこでもいいから、国外に脱出しようと思っている」といわれた。その時、電話口でお声をうかがったのが、お別れであった。

 竹内さんから、戦後歩いてきたそれぞれの時期に、わたしはほんとうにたくさんの恵みをうけた。はじまりは、『魯迅』である。この本をはじめて読んだ時にうけたショックが、『パール・バック』を書き、生活記録運動に入ってゆく原動力となった。『パール・バック』について、アメリカ(西欧)と、中国と、日本との「三本立て」で近代化を比較する方法、と竹内さんが評して下さった時に、そういうものか、と自分で自分ががむしゃらにしていることの意味を自覚することができた。それ以来、比較を、二項分類にせず、三項分類にすることの意味を、自分なりに問いつづけている。

「国民が自分で自分のわるい根性をなおすこと」が「革命」だという「竹内魯迅」の中のことばを、わたしなりのかたちで、実際にやってみようなどとおこがましいことを考えたのは、生活記録運動の中でであった。わたしの下宿していた四畳半のへやで、紡績で働いていた人たちといっしょに、趙樹理の『結婚登記』や『小二黒の結婚』の読書会をしたことがあったが、そんな時に、竹内さんは快くつきあって下さった。その後わたし自身のいい加減さのために、生活記録運動に徹することができず、学問に退却した。これはわたしの敗北である。
 
 しかしその後も、竹内さんのお仕事を道しるべとして歩いてきたのだと、自分では思いこんでいる。上智大学の国際関係研究所に入ってから、市井三郎、山田慶児、三輪公忠、宗像巌、宇野重昭、菊地昌典、色川大吉、桜井徳太郎、円山秀夫さん方とごいっしょに、研究会を始めた。西欧とアメリカを手本とした近代化論に対して、中国、日本、ロシア等の経験から内発的に、それぞれの近代化の型と過程とを、理論化したいというねらいであった。竹内さんが、戦後いち早く、「中国の近代と日本の近代」(『日本とアジア』所収)の中で、そして後に、「中国近代革命の進展と日中関係」(『予見と錯誤』所収)の中で、啓示して下さった問題を、わたしたちそれぞれのやり方で、解いてみたいという気概があった。それで、竹内さんに無理にお願いして、わたしたちの研究会に一度きていただいた。「根拠地理論」をめぐって、お話をしていただき、ずい分勝手な質問やら議論やらをしたように思う。

 市井さんが、竹内さんに中国語を習うのだと、とてもうれしそうにいわれた。わたしもいっしょに弟子入りさせてよ、といって、割りこんだ。はじめは、市井、橋川文三、山下恒夫、中村さん、とわたしの五人であった。「中国の会」の事務所で、毎週金曜日の午前中二時間。夏は朝から晩まで特訓の日を設けるという勤勉ぶりであった。優等生は橋川さん。わたしは劣等生ではあったが、年をとってからする語学のべんきょうを、これほど愉しいと感じたことはない。丁寧に、教えていただいたことの一ツ一ツは忘れてしまっても、発音と発声の原理をくりかえし、しっかり教えていただいたこと、中国語の構造の特徴を、日本語や英語と比較して説き明かして下さったこと、衣食住から家族の関係など日常生活のことがらから、社会、思想史的背景まで、ことばをその具体的な脈絡のなかでとらえて教えていただいたことは、身になった。ノートは今ここにないが、これから何度もよみ返してみたい。

 竹内さんは、ご自分が苦労して自分のものにされた中国のことばを、その独創的なしかたで、わたしたちに、惜しみなく与えて下さった。ただ、この学生の凡愚のゆえに、折角のご馳走をいただいて、充分に味わいきれなかったことを、憾《うら》むのみである。

 ある時、わたしは生意気にも、竹内中国語教室のことを、ある新聞に頼まれて書いた。そうしたら、早速竹内老師からお手紙をいただいた。開けてみると、わたしの書いた記事の中のまちがいに、一々丹念に朱筆を入れてお送り下さったのである。本当に恐縮した。それは竹内さんの厳しくやさしいお心遣いであった。この時ふと思い出したのは、ずっと昔、佐佐木信綱先生が、わたしが先生宛にさしあげた手紙に、丹念に朱筆をいれてお送り返し下さった、若い日のことであった。

『定本 柳田国男集』の最終巻が何年ぶりかでやっと出た時に、わたしは短い書評を、今はもうなくなってしまった、あまり人目につかないある週刊紙に書いた。ある日竹内教室で、竹内さんが、「あの書評は、索引論としてもいい」といって下さった。あんなものまで、見ていて下さったのかと、ありがたく、うれしかった。竹内さんがほめて下さった記念に、そっとその短文を入れておいた本も、出る前に竹内さんは亡くなられてしまった。
 
 これからも、わたしは、竹内さんの遺されたお仕事をしるべとして歩くだろう。朱筆を入れて送り返して下さる老師はもうおられない以上、自分で自分に朱筆を入れねばならない。竹内さんのおられない日本へ帰ってゆくことの厳しさをおもう。

(一九七七年四月十八日、プリンストンの客舎にて記す) 初出:『思想の科学』第七七号 一九七七年六月号

この文章の掲載にあたっては、鶴見太郎さんのご了解をいただきました。

Copyright (C) Taro Tsurumi 1978 All Rights Reserved


ナビゲーション