竹内好さんのこと たった一通の葉書
重永 博道
(一)
その日の手帳をみてみると、午後八時半に帰宅し、かねてから懸案の一つだった高校時代の同窓会開催の通知のガリ切りしている。特に何を見ようという意志もなく、テレビのスイッチを入れ、ガリ切りの手を休めながら、時々画面に目を向けていた。
すると、字幕で特別ニュースがあらわれ、午後、右翼が経団連を襲撃し、人質をとったまま籠城している事件は、その後何の進展もなく、人質の安否が気づかわれる、といった字が画面の下を流れていった。うかつにも、そのときまで経団連襲撃事件のことなど、露知らずにいた。あわてて新聞の番組欄をみて、九時からNHKでニュースセンターというのがあるのを確かめると、チャンネルを切り換え、九時になるのを待った。
この番組は人気番組の一つだと噂されていたのは知っていたが、実際に見たのはこのときが初めてで、それは今も変わらない。九時になって、現場中継をやったり、その背景を解説する人がいたり、犯人との電話でのやりとりのテープを流したりしたが、正直いって経団連占拠の思想も行動も、あまり良くわからなかった。事態の進展に伴ない、刻々現場からの中継を行ないます、という言葉を信じて、テレビをつけっ放しにしたままガリ切りを続け、印刷にかかった。その間、犯人が投降し、事件は一応解決したとの報道があった。
印刷も終わり、十一時過ぎのニュースをゆっくりみていると、経団連事件の一部始終を伝えたあとで、「中国文学者の竹内好さんが亡くなられました」というニュースが伝えられ、思わず耳と目をテレビに集中した。容態があまり良くないという噂は聞いていたけれども、この突然の訃報は、まさしく思いがけないことだった。経団連襲撃事件のあとに、この竹内さんの死、青天の霹靂とはこういうことを言うのだろう。
その悲報を聞きながら、ぼくは咄嵯にあることを思い出していた。
二月の十日過ぎだったと記憶しているが、仕事のことで野添憲治さんに電話を入れた。ぼくの要件があらかた終わると、野添さんは申訳けなさそうな声で、「実はあるところから、竹内さんの『魯迅文集』の書評を頼まれている。能代や秋田の書店に問い合わしたのだがどこにもないので、東京で買って送ってもらえないだろうか」と話した。ぼくは、原稿の〆切日がいつであるかを確認し、受話器を置くと、すぐ紀伊国屋書店でそれを買い求め、送ったのだった。
その〆切日が丁度、いま頃であり、もし野添さんがまだ原稿を送っていないのなら、竹内さんが亡くなったいま、単なる書評ではなくて、少し書き方を考えた方がよいのではないか、と思ったのである。
そこで早速、野添さんにこの悲報を伝えたのだが、すでに原稿は送ったとのことであった。内容について聞いてみると、最後に「竹内さんは現在病気療養中だと聞いている。一刻でも早くよくなって、魯迅文集全七巻が完結することを祈りたい」というように書いたと話された。しかし、本が出るのは、すでに死亡された後だし、原稿には書いた日付けを入れないから、それでは少しまずいのではないだろうか。出版社と打合わせをし、何らかの善後策を練った方がいいのじゃないか、とお互い沈痛な声で話しながら、電話を切った。
そのあと今度は塚本輝子さんに電話を入れた。というのは、東京やまなみの会(有志)で、花岡事件三〇周年講演会を開いたとき、少なからず竹内さんにもお世話になっている。だから会としても、何らかの礼節を尽すのが当り前じゃないかと考えてのことである。
電話に出てきたのは今野聡さんで、「彼女は熱(風邪)があって寝ているから、明日、こちらから電話を入れさせるよ。それにしても、今日はひな祭りというのに、大変な日だなあ」と言った。
次に荒谷誠さんにも相談した。「木村聖哉さんが中国の会で一緒だったはずだから、彼とも相談したら」ということだったが、もう午前○時を過ぎていたし、木村さんとは連絡がつかなかった。
翌日、出社する前に取材を一件すまし、そこから木村さんに電話を入れた。「ぼくと貴方と二人でいいから、葬式に出ようか」ということになって、出社した。まもなく塚本さんから連絡があり、「さしあたって弔電だけでも打っておいて下さい」と頼まれた。
ところが、竹内さんとは花岡事件講演会のときにお会いしたのが最初で最後だし、また不勉強でそれほど著作に触れているわけでもないので、どういう弔電にしたらよいのか迷ってしまった。色々考えたけれども、講演会のときの印象で打電するしか仕方がなく、次のような弔電を打った。
敬愛する先生の御逝去に接し、再びあの張りの高いお声を聞くことがかなわないことを思うと無念です。ここに謹しんで哀悼の意を表します。
東京やまなみの会
(二)
竹内好さんとの唯一の出合いの場所であった「花岡事件三〇周年講演会」(一九七五年七月五日)から、丁度二年になる。もともとこの講演会は、野添憲治さんの『花岡事件の人たち』の出版を契機として開かれたものだった。その準備の過程で、ぼくは竹内さんの、誠実で人問的な一側面を、まざまざと見せられてしまった。かねて、進歩的文化人とか知識人と言われている人々の、その冠称にふさわしくない、高慢で横柄な態度を幾度か味わせられて、苦虫をつぶしたことがあるだけに、竹内さんの印象は、より強烈である。
竹内さんが講演会に出席して下さったのは次のような経過からであった。まず野添さんに、講演会で話をして下さる方の人選をお願いしたときの返事に、こう書いてあった。「講演会の件ですが、札幌の李振平さんにはまたすぐに速達を出しましたので、近日に電話をいれて、東京にきていただけるかどうかをはっきりさせたいと思います。もう一人は須田禎一さんがいいのですが、もう亡くなっていますので、わたしとしては竹内好氏がいいと思うのですが、わたしにはツテがありません。失礼ですが、安田武さんに相談していただければと思います」
このとき、ぼくはまだ安田さんとはそれほど面識がなかったので、吉田幸一さんから安田さんにお願いしてもらい、更に安田さんから竹内さんへという回路を経て、挨拶なら引受けるという返事をいただいたのである。
そして、ここでぼくは一つの失敗を犯したのだが、「挨拶」というのがわかっていながら、不用意にも「講演を引受けていただき、ありがとうございました」と礼状を書き、日時、場所などを改めて詳しく書いた便りを、竹内さんに出したのである。
すると、折返しすぐ、竹内さんから速達の葉書を受けとった。
御状拝見。安田さんとの間に食いちがいがあるようなので一言します。私は講演は一切やらないことにしています。ただ花岡のことは、前に雑誌「中国」でとりあげたこともあり、またそれを材料にしたドキュメンタリー風の小説の日本訳(「潮」)のお世話をした関係で、出席はするし、短いあいさつぐらいなら述べてもよいと申しあげたわけです。いま調べる時間がないので、改まった講演はとても無理です。どうかそのおつもりに願います。(七五、五、二六)
そのあとすぐに、「不用意に講演という言葉を使いましたが、挨拶ということをお聞きしています。お手数をかけて申訳けございませんでした」という返事を出した。
野添さんが書かれた文章を読んでも感じることだが、速達ですぐ対応するという竹内さんの姿勢に、すごく心打たれる。この残された、たった一枚の葉書に、ぼくは竹内さんの律義な、そして全てにいき届いた配慮を読むのである。
それは後日、『花岡事件の人たち』の本が出来上がったとき、「挨拶をかねて本を持参したい」と電話を入れたら、「いや、それには及びません。貴方も雑誌のお仕事をされているようだし、お忙しいでしょうから書籍小包みで送って下されば結構です。また改まった挨拶も不用でしょう」といわれた言葉にも見事に貫かれている。
また、講演会のあと開かれた『花岡事件の人たち』の出版記念会の席上、「私たちの仲間で作っている山脈出版の会から出した最新刊です。一部献呈しますから、どうぞお読み下さい」といって荒谷誠さんが差し出した林恭吾氏の『遠い道』(上巻)を手にとって、「こういう仕事には敬意を表します。タダで戴くなんてとんでもないことですから、代金を支払います」と財布を出された。
「それでは返って失礼になりますから」と、何回も代金を戴くことを辞退したにも拘わらず、「いや、私の気がすまない」といって、金を支払われたのだった。このこと一つを取り上げてみても、竹内さんの人間性が偲ばれるのである。
(三)
竹内好さんが亡くなられて一週間後の三月十日、ぼくは木村聖哉さんと二人で、千日谷公会堂で行なわれた告別式に参列した。霊を弔うのだから、きちんとした身なりをしていくべきだと考えていたのだが、何を着ていこうかと木村さんと相談したときに、「竹内さんがネクタイをしめた姿を一度も見たことがない」という木村さんの一言で、ぼくもノーネクタイで行こうと決心した。そしてズボンと色違いのブレザーを着て出かけたのだが、少し貧相であった。やはり、もう少しシャンとしたものを着ていくべきだったと、悔いが残った。木村さんは丸首シャツを下に着で、やはリノーネクタイではあったが、上下揃いの背広姿だった。
二人が座った斜め前に、安田夫人の顔が見えたが、安田武さんの顔は見えなかった。後日、話を聞いてみると、式の進行役である司会を頼まれていたのだけれども、ショックが大きすぎて身体が思うようにならず、尾崎秀樹氏にその役を変わってもらったということだった。
祭壇に飾られた笑顔の竹内さんの遺影の下に、三冊の本が置かれていた。それは『魯迅文集』の一・二・三巻であり、しかもその三巻目は、この日、見本刷りが出来上がったばかりという本であった。あとで病気の経過報告をした埴谷雄高氏によれば、一応第七巻まで初稿原稿は出来ているということだが、まだ相当、手を加える予定であったらしい。その仕事半ばで他界した竹内さんは、それこそ「死んでも死にきれぬ」思いを残したことだろう。
尾崎秀樹氏の沈痛な声で始まった告別式で、最初に弔辞を読んでいた増田渉氏が、その途上で絶句し、その場に倒れられた。救急車を呼び、近くの慶応大学附属病院にかつぎこまれたが、まもなく竹内さんのあとを追うようにして、息をひきとられたという。これも本当に衝撃的な出来事だった。式は一層、悲しみをさそった。
式が終えて、外に出てからも、足どりも心も重かった。葬儀のあとは、お酒を飲んで、ソバを食べるのが死者の手向けになるという習慣があるらしい。そのことを思いついた木村さんの提案で、近くのソバ屋に入った。
酒を一口飲んでは、花岡事件講演会前後のことから、葬儀のことまでが、頭の中を走馬灯のように、くるくると駆けめぐっていった。その日から、一ケ月有余たったある日、また一通の葉書を受けとった。今度は竹内さんの奥さまと娘さんからの礼状であった。
桜の季節もすぎ若葉のすがすがしい候となりました。夫 竹内好 永眠に際しましては 御心のこもりました御弔慰と御香志を賜り 有難く厚く御礼申し上げます
本日 五十日祭に当り多磨墓地にて内々のみの埋葬式を営み納骨を済ませ忌明けいたしましたお寄せ下さいました御厚情の教々 まことに有難うございました勝手ながら皆様方の御芳志の一部を島田療育園へ寄附いたしまして 御返礼に代えさせて頂きたく 御諒承下さいますようお願い申し上げます
拝趨の上 御礼申し上げるべきでございますが略儀ながら書中を以って御礼かたがた御挨拶申し上げます
一九七七年四月二十二日
竹内照子 裕子 紹子
いま、竹内好さんは、自分より半年先きに他界した武田泰淳氏と、後から他界した増田渉氏の三人で、盛んに中国文学を論じ合っているのだろうか。そしてふと、自分が思いを残してきた『魯迅文集』の未完成に、頭を痛めているのかもしれない。
『山脈』48号(1977年8月15日発行)所収
『竹内好回想文集 しかし、人間の心は宇宙より広い』(1978年3月3日発行)に再録
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