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竹内好かく語られ記

思い出すまま


 

思い出すまま

岡山 猛

 竹内好さんにはずいぶん長いおつきあいをいただいた。雑誌『展望』の編集者としてはじめて浦和のお宅に参上してから二十七、八年のおつきあいである。竹内さんのような気むずかしい著者とさしたるイザコザもなく、よくまあつづいたものだなあ、とわれながら感嘆する。

 竹内さんはなかなか口がわるい。「君は本を読まないね」とジロリ、あの大きな眼でにらまれたりする。読まない編集者などオレに用はあるまい、といった表情が言外に読みとれて、そんな時にはすぐにでも退散したい気持になる。

相馬にて

 出版社の仕事ぶりについても肝心なことになるとピシリと急所を押えて容赦ないところがあった。現にいつからか感情がもつれて絶交状態に入った有名出版社も数社に及んだらしい。筑摩書房とて例外ではない。「筑摩は商売が下手だね」のお小言は毎度のことだった。正直そのとおりなので抗弁のしようもなく退きさがった。

 口うるさい半面、約束はかならず守ってくださった。その点は実に几帳面な方だった。約束してくれた締切日にはおおむね遅れず原稿を渡してくださった。竹内さん特有の端麗な筆蹟がキレイにマス目を埋めている。読みはじめると終わりまで読み進まずにはおかせないリズミカルな論理と文学性ゆたかな表現がそこにあって、うませなかった。出来上った文章からはおよそ執筆時の難渋など想像もさせない、流れるような見事な文体であった。当代一流の文章家といっても決して過言ではないと私には思われる。

 竹内さん自身、人づきの悪さは性来のものだと言っておられる。たしかに初対面の者にはとっつきにくい印象をあたえるし、社交上手とはお世辞にも言えない。それだけにおつきあいが進むにつれて、竹内さんがあの外面のコワそうな風貌や言動にもかかわらず、内面、実は繊細で柔和な感覚の持主であり、人情味と誠実感にあふれた人柄であることがわかりだすと、なんともいえず愉しくなるのである。

 竹内さんの人柄をしのぶにはかの有名な竹内スキー教室にふれないわけにはいかない。これについては古い門下生の一人、橋川文三氏がすでにどこかで書いておられたが、いずれは一冊の教本を出版したいと竹内さん自らが広言するほどの打ち込み方だった。私もいつからか入門を許され、年に数回は同行する習いになったが、われら落ちこぼれ組にあきらめず終始手をさしのべて助けてくれた竹内さんに、あらためてその教育者としての天稟を思い知らされたのである。肌を刺す吹雪の中にひとり黒装束に身をかためて、一行から取り残されたわれら弱卒の七転八倒をジッと見守りつづけてくれた今様弁慶いやダルマ然としたその姿が今も目に浮かぶのである。

 宿に帰っての夜の席ともなると、これはもう竹内さんのスキー理論をめぐる学習ということになり、技術はともかく理くつのすきな連中だけに、甲論乙駁果てるなしといった状況がつづく。スキーは竹内さんにとって何だったんだろうと、時に考えることがある。孤独、克己、集団、技術……。時には身心のバランスの回復をはかりたいという無意識の欲求に、竹内さんの場合、スキーがうまく叶っていたのかもしれない。

 竹内さんの著書では最初に『日本イデオロギイ』という評論集の編集を担当した。その前後にふれてはかつて『図書新聞』の連載「名著の履歴書」に書いたことがある (現在、日本エディタースクール出版部刊『名著の履歴書』上 所収)。これが一九五二年八月刊行、つづいて翌五三年五月に『魯迅作品集』を出させていただいた。これに先立って葉紹鈞という作家の作品『小学教師』の訳書も頂いているが、これは同僚石井立君が担当したものである。

『魯迅作品集』が思いのほかよく売れ、しかも若い読者から熱のこもった感想が続々送られてくるのに触発されて、ごく自然に「魯迅友の会」結成の提言が竹内さんからなされた。もっとも竹内さんによれば「友の会」の構想は十年来のものだと『会報』第一号に記されている。まず準備会の名で会報を出し、作品集の読者を中心に呼びかけてはというわけで、第一号が出来たのが一九五四年七月である。そのころ竹内さんは都立大で中国文学を講ずることになり、同じ研究室の助手だった松井博光氏が会報の編集から会員名簿の作製、会報の発送といった事務の一切をうけもたれた。もちろんすべては無償奉仕である。『会報』第一号はA5判、8ポ三段組、八ぺージ。以後年に二、三号のペースでつづけ、会としての正式な発足は五七年四月二十一日、その経緯は『会報』九号に記されている。会員数は二百から三百の問を前後、経費のかなりの部分を竹内さん個人が負担され、こうした事情は竹内さんが亡くなるまでつづいた。

『会報』発行のかたわら、会員相互の懇談の場をつくろうというわけで、年二、三回の会合がつづけられた。最初のころは池袋の区役所うらにある池袋振興会館といううすぐらい建物の一室を借り、そこの職員が退けたあと、土曜の午後に開かれた。会費五十円の文字どおりの簡素な茶話会だった。だいたいが二、三十人、労働者、学生、療養者など、職業、年齢共にさまざまなとりあわせだった。

『会報』第一号の最後のページに筑摩書房が当時刊行していた中国文学関係の本の広告がのっている。『続魯迅作品集』につづけ『両地書』『魯迅評論集』ⅠⅡⅢの続刊が予告されており、周遐寿の『魯迅の故家』(松枝茂夫、今村与志雄訳)も近刊となっている。ほかには茅盾『腐蝕』(小野忍訳)、巴金『寒夜』(岡崎俊夫訳)、老舎『ちゃお・つうゆえ』(奥野信太郎訳)、同『牛天賜物語』(竹中郁訳)、同『張さんの哲学』(同訳)、郭沫若『亡命十年』(岡崎俊夫訳)、それに前記の葉紹鈞『小学教師』(竹内好訳)といったところ。なかなか活発、多彩な刊行である。これはなにも筑摩書房に限った現象ではなく、戦後途絶状態にあった日中の間にこのころようやく翻訳出版についての交渉の窓口が開かれ、その結果がいっせいに花開いたといっていい、ちょうどそんな時期に当っていたのである。

 日中翻訳懇話会というものができ、そこで関係者間のあっせん、調整が行なわれたが、そこでの論議の一つに、翻訳者、出版社間の企画の鉢合わせをどうするかの問題があった。懇話会の主流はしかるべき調停、裁定によって一本にしぼるべきだという意見のようだったが、竹内さんは原則としての自由な競作(訳)出版を主張し、一時期両論の対立がつづいたように記憶している。民主的主義主張を旗じるしにしながら内実は統制支配を指向しかねまじき、そうした団体内の官僚主義の存在が竹内さんには黙許できなかったのだろう。そうした時の竹内さんの姿勢は実に凛乎として立派なものだった。

「魯迅友の会」の『会報』第一号に予告を見たとおり、このころすでに竹内さんの胸中には魯迅の個人訳をぜひつづけて出したいという決意と計画があったのである。けれども『続魯迅作品集』が出て以後はいくつかの事情が重なって大幅な予定変更を余儀なくされた。その最大の事情は岩波書店による『魯迅選集』刊行の企画が急速に進められ、竹内さんも最終的にはそれに参加することになったことである。岩波書店から筑摩書房に対しても正式な挨拶と協力要請があり、いくつかの条件の取決めをもとに万事円満に事は進んだ。そんなことで結局竹内さんの個人訳の完成はおくれにおくれて、こんどの『魯迅文集』刊行まで時を待たねばならなかったのである。

火曜会スキー旅行 野沢にて

『魯迅文集』に対する竹内さんの傾倒には並々ならぬものがあった。小平という交通不便な郊外に仕事場を求め、毎日お宅から弁当を持って片道一時間余を電車とバスで一年余り通いつめたのである。魯迅の文体をどうすれば一番生きた形の日本文に移しかえることができるか、その苦心の様はいずれ身近な人たちによって語り伝えられるだろうし、専門家による比較研究に明かされることと思う。さしあたりは、かつての旧訳とこんどの新訳を並べ読んでみれば、その間の事態はおおよそ読みとれるにちがいない。

『魯迅文集』を完結したらみんなで小野に報告に行こう、とは何回か私ら関係者に約束された。信州小野にある古田晁の墓に詣ろうというのである。筑摩書房の創業者古田晁は五年前(一九七三年十月)急逝したが、古田との長い間の約束である『魯迅文集』の完成だけはなんとしても果たしたい、その切々の願望は最後の病床にまで持ちこされて、照子夫人の特別のご厚意もあって、常識的には考えられぬ、重症下の口述筆記という難業をもあえて為し終えてくださった。まったく申訳ない次第である。

 晩年の古田と竹内さんとはいつからか急速に親愛の度を深めたようで、その間のことは『回想の古田晁』(一九七四年刊)中の竹内さんの文章「土に化した人へ」によく表わされている。士は己れを知る者のために死す、といった古い詞がこのお二人の場合、なんの誇張もなしに思い浮かぶ。

 古田が創業の仕事に選んだ『中野重治随筆抄』、つづいて少し後の『斎藤茂吉ノオト』にふれ、「それが暗い時代を生き残る心の支えになった。筑摩書房を徳としなくてはならない」と書いておられる。そのころの竹内さんの愛読書としては他に葉山嘉樹、岡本かの子、太宰治、斎藤史をあげておられるのもおもしろい。

 竹内さんご自身の精神の系譜づけ、その内面形成の軌跡についていずれはご自身の筆でぜひとも書きとどめていただきたいと思い、何回かお願いもしたものである。今となっては予期せぬ病魔の急襲をうらむばかりである。私が編集者として担当したいくつかの仕事をかえりみて、それらがどれだけ竹内さんの背後からの批判と励ましを支えとし力としたものだったか、いまにして思い知らされるのである。

 病床の竹内さんは夢幻の中、何度か旅のことを口にされた。房総への家族旅行、またある時は東南アジア、アメリカへの外遊について、旅行の用意、手配を言いつかったりした。現に外遊のほうは先方からの誘いもあり、魯迅を仕上げた暁には出かける予定があったことを後で夫人からうかがった。竹内さんは今あの世にわたってどの辺を旅しておられるのだろうか。親しい知己友人と愉しい旅を共にしておられるのだろうか。今はご冥福を祈るばかりである。 (1978・2・16)

『追悼 竹内好』(竹内好追悼号編集委員会編集 魯迅友の会1978年発行)所収 この文章の掲載にあたっては、岡山良子さんのご了解をいただきました。
         
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