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竹内好かく語られ記

私信親展


 

私信親展

野村玉江(掲載時は中島玉江)

 ‘77年3月3日の夜、突然旧「中国の会」の池上さんから電話をいただき、驚くべき事態を告げられました。それはまるで別の地球からの黒い通信のように、あるいは波長のちがう点字翻訳のように聞えてきました。にわかには信じがたく、腹立たしく、わけもない無力感が寒い風となってあたりを吹き抜け、私の安易に慣れた日常の意識が痛い破片となって飛び散る思いでした。けれども、市ケ谷の葬儀場で純白の菊の花に埋まって、黒枠の額の中から、先生がほほえみかけて下さっているお写真を見て、もはや納得しないわけにはまいりません。先生は、私達から遠く離れた未知の場所に、去り行かれたのであることを……。暖かくて底知れぬ知恵に溢れた巨人であられた先生を、私達は永久に喪ってしまったのであることを……。


 あの日から半年以上の月日が、たちまちのうちに過ぎ去りましたが、日増しに先生のことが、想われてなりません。先生と私が初めてお会いしましたのは、あれは、お茶の水の「山の上ホテル」のレストランでした。‘66年初冬のことです。私は蟹グラタンをご馳走になり、先生は野菜サラダを食されたと思う。パイプを燻らし乍ら話をなさる姿や、じっと人の目をのぞき込まれるようなその視線まで、先生の動作のひとつひとつが、私にはめずらしく思われてなりませんでした。

 その時から、「中国の会」が解散するまで、あくまでプライベイトななかで、ご面倒おかけしました。先生は何故にあのようにまで優しいかただったのでございますか?

 その頃の私は、自分自身が筑豊で味わった、いわゆる「不可触踐民的狂気」の結果、多くの人々に迷惑をかけていて、どのように釈明したものかわからないまま、悩みに悩み抜いていた時代でした。それを先生は、「時間」をつかの間、魔法のメスで切り裂くような、優美な方法で、私のために、その釈明の機会を作ってくださったばかりではなく、「死ぬほどの恥ずかしさ」とはどんなものか、じっくり教えても下さいました。

 先生と歩く冬の寒い夜の新宿の街。黒い外套と衿巻きをされ、大僧正のような感じのする大きい頭の鉢を、まっすぐに天にむけて立てて歩かれ、そのくせ発せられる音声はまるく甘ったるく、三光町交差点の附近では、「わあーっ」と叫び出されたりするのでした。或る夜更け、たしか「風紋」だったと思うのですが、先生に連れられて酒場に入って行くと、橋川文三氏と作家のI氏が、先に待っていられたことがありました。そんな時の先生は、いかにも嬉しそうでした。でも、決してご自分はおしゃべりはなさいません。まわりの人にとくとくとして話をさせ、歌わせたりして、ご自身はダンディに沈黙を守ったまま、ゆったりと過ごされるのでした。

 私の知っている先生の酒は、決して孤独の中で飲まれることは無いのでした。いつも誰かそばに人がついていて、「危険」とか「さびしげ」という姿は、私はお見受けする機会が無かったように思います。

 先生、今更乍ら、私はごく私的、暗示的に、たいへん先生のご恩を受けましたけれど、一方、私のほうからはついに先生を安心させてあげることは出来ませんでした。「釈明」不能のまま、もう永久にお逢い出来なくなってしまいました。「言葉」が生きものであること、「言葉の重さ」は、時には人の死をもってしても贖いきれないほどのものであることを、教えて下さったのも先生でした。
 
 好先生、本当にありがとうございました。
いろいろ、つまらないことで、ご厄介をかけて申し訳ございませんでした。『私信親展』の手紙も、もう差し上げることは不可能です。涙が溢れてきて、あのようにやさしかった先生を、とこしえに喪ってしまった私は、いまだに先生が、彼岸の花咲く世界で、私達のことを心配して下さっているような気がして、相済まない気持ちでいっぱいです。

さ よ う な ら。

『竹内好回想文集 しかし、人間の心は宇宙より広い』一九七八年刊 所収

この文章の掲載にあたっては、野村忠男さんのご了解をいただきました。

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