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竹内好かく語られ記

臼田にて 竹内好「ふるさと」考


 

臼田にて 竹内好「ふるさと」考

夏目 久夫
 
〔1〕 千曲川と浅間山
 小海線は単線であった。やがてやってくる小淵沢行きの電車に乗る人は数人であった。雲行きがあやしかった。なんとなく重い空気が僕にはあった。これといって観光名所のない、竹内好の生まれ故郷の臼田に行くことがそうさせていたのかも知れぬ。7月7日、木曜日、佐久平を11時55分発の列車に乗り、窓際の座席に座り、僕は雑然と流れさる風景を見つめていた。小海線に乗るのは高校時代の林間学校以来であって、しかもその時は清里であったので僕が臼田を訪れるのは初めてであった。

 12時24分、列車は臼田駅に着いた。進行方向に向かって右側に改札口があり、僕は駅に降り立った。臼田駅はどこの田舎にもあるような素朴と郷愁に満ちていた。駅の待合所に臼田駅の簡単な紹介があった。いわく……臼田駅の開業は大正4年〔1915〕12月28日。昭和38年に臼田駅となり、それまでは「三反田」駅。…とあつた。

 僕はまず臼田橋をめざした。駅前からの商店街はどことなく活気がなく、ここが駅前なのかとさえ思った。道が緩やかに左に曲がりやがて臼田橋に差し掛かった。心配していた雨が静かに降り出してきた。

 僕は橋の中央に立ち、眼下を流れる千曲川を見つめ、その左岸にそびえる佐久総合病院を確認した。おりからの天候のためか千曲川の流れは勢いを増し、遠く浅間山は霧に隠れていた。というより、僕はここで浅間山がどの方向にそびえているのかを知っていなかった。臼田橋の上で浅間山の方角を検討している僕がいた。

 竹内好は『佐久を思う』のなかでこう書いている。「この橋の上にたちどまって、脚下の激流を眺め、ふり仰いで川下はるか遠く浅間山の全容を、もし晴れていれば眺めることができた。この景観は私にとって、帰郷のたのしみの一つだった。」

 竹内好は臼田橋のことを昔は「木の釣橋」と書いているが、僕は臼田に行くことの楽しみのひとつにここの光景を目の当たりにしてみたいということがあった。橋の構造は変わり、立派な病院が出来ても、この自然そのものに何の変化があろうか。千曲川の流れも周辺の山々の姿も竹内好が生まれた時と同じではないのか。竹内好がかつて眺めたであろう同じ景観を僕は眺めてみたかった。そのおなじ空気を感じてみたかった。雨は少し強くなってきた。浅間山の方角も定まらず僕は臼田橋を渡り右折した。

『佐久を思う』の中で竹内好はこう述べている。「臼田橋を渡り切ったところで道が右に折れる。そこに大きな繭倉庫があり、つづいて家並になる。もうこの辺まで来ると、プンと繭を煮る独特の匂いがただよって、いかにも郷土に立ちもどった実感がしたものだ。」「家並にさしかかると同時に、町の中心部にある火見櫓が望まれる。そして櫓のすぐ手前に、この界隈で一軒だけの三階家が眼にはいる。東京からほとんど一日がかりの旅の終点、母の実家がそこなのだ。」

 竹内好が『佐久を思う』を「佐久教育」という雑誌に掲載したのは1975年3月のことである。臼田の町も変貌をとげ、火見櫓は見当たらず三階以上の家もあり「母の実家」は現在では誰かの住まいとなっているのであろう。僕はそのことを了解すればよかった。そして「繭を煮る匂い」という疑問が残った。

 雨音はやまなかった。僕はきた道を駅まで戻り予約していた宿へ着いたことを知らせた。宿が駅から離れているために、予約した時に電話してくださいと言われていたからである。しばらくして宿の主人と挨拶を交わし、車のなかで僕は臼田に来た目的を話した。「竹内好のことは私は知りませんが、母なら知っていると思います」という返事があり、何か期待のようなものがふくらんだ。臼田の町は駅前は静かであったが、町の中心部は国道141号線沿いに集まり、僕は道の両側に展開する町並みに少し驚いた。「あの家が藤村の娘が嫁いだ家です」という言葉にあわててその和風の佇まいを眼で追いつつ、やがて宿に着いた。

 僕は臼田の宿はインターネットで探した結果「清集館」に予約しておいた。その紹介では「ゆかいで情けいっぱいのおっかさんがてんてこまい」「明治以前からの旅館業」とあった。

 僕はひとまず部屋で休息をとり、さてこれからどうするか、と考えた。

〔2〕五稜郭と三重塔
 雨はやみそうであった。もし降ったとしても傘を用意しておけばいいであろう。そう思い僕はせっかく来た臼田の町を歩いてみたかった。そんな雰囲気を察したのか、宿の主人が僕に「臼田町教育委員会」の作成によるパンフレット「臼田町文化財シリーズNo.1・2」をわたしてくれた。見ると「龍岡城五稜郭」「新海三社神社三重塔」とある。僕はとっさに臼田駅前の観光案内板を思い出した。宿の前で大まかな道筋を確認して「自転車を使って下さい」という主人の厚意は嬉しくもあったが、僕はとにかく歩いて行きたかった。

 臼田の町は「天体観測施設・うすだスタードーム」が開設して以来「星の町」になり、町の通りは「双子座通り」「射手座通り」というようにそれぞれの名称が道に刻まれていた。

 小海線の踏み切りを越えて僕はさらに歩いた。道ですれ違う人は少なくこの先に本当に目指すべき旧跡・名所があるのだろうか、とさえ思えてきた。しかし、やはり来て良かったという感慨に浸れるのはもうわずかであった。

 やがて蕃松院という寺があった。曹洞宗の寺だという。その厳かな姿は人を寄せ付けない風格があった。僕はとにかく五稜郭への案内がどこかにあるのではないか、と探していた。

 それは突然現れたといっていいだろう。日本に函館の五稜郭の外に五稜郭があったとは知らなかった。正面に堀を渡る橋があり、その向こうに見えたのは地元の田口小学校であつた。一面の校庭の奥に校舎が並び、生徒達が家路に向かうところであった。

 なぜこの地に五稜郭が造られたのか、その経緯について手元にあるパンフレットの説明にこうある。「……この城を築いた大給松平氏最後の藩主松平乗謨(のりかた)は幼児より英明の素質をもち、……鎖国により海外諸国より著しい軍備の立ち遅れに、国家存亡の危機を憂い……洋式築城にあこがれ、お台場、松前戸切地陣地、函館五稜郭の刺激を受け……文久3年(1863)に領地であった信州に五稜郭建設の許可を得て着工。石は千曲川東一帯に産出する佐久石を広範囲にわたり切り出し使用……大給松平氏は代々《陣屋格》といい、城を持つ資格がないため五稜郭内部には天守閣その他さまざまな防衛施設などつくれない……御殿、番屋、太鼓楼、火薬庫などが出来上がっていった。……」「未完成のまま中止せざるを得なかったのは、崩壊間際の幕閣にあって、老中格・陸軍総裁などの要職にあった乗謨には、もはや係わっているひまもなく、完成のためにつぎ込む費用など全く許されなかったからである。」「明治4年、廃藩とともに兵部省は全国の城郭取り壊しを布告した。五稜郭は地所・石垣はそのままとし建物は入札払い下げとなり、残りは取り壊されてしまったが、御殿の一部御台所だけはさいわい翌5年学制発布により学校としての使用申請が認められたため、唯一の貴重な遺構として残された。」

 上から見ないと判らないが堀に沿って歩いて見ると確かに「五稜郭」であった。今思えばどうしてこの地に必要であったのかと考えてしまうが、それだけ当時の時代が緊張をはらみ一刻の猶予も許さぬ状況下にあったということであろう。

 雨の心配はつきまとい、ここで時間を費やすことも出来ず、僕はそれでも校舎から校庭へ広がる空間を眺め、五稜郭建設に携わった多くの人達、とりわけ地元の献金や労働奉仕の様子などを想像した。五稜郭の規模は函館の五分の一であるという。道路に面して資料館があったが閉まっていた。

 五稜郭を後にして僕は三重塔がある新海三社神社に向かった。途中、村の人にこの近くですか、と尋ねたところ、この先に鳥居があります、という返事があり元気がでた。

 ようやくたどり着いた参道のこの先に何が待っているのだろうか、と思わせるほどの神秘的な雰囲気に満ちていた。深さを感じさせる木立の中を進むと前方に神社が現れてきた。三重塔は本殿の奥の高いところに建っていた。思わず息を呑む感動があった。はるばるやって来た甲斐があった。おそらくここまで来る観光客はそんなに多くはあるまい。そして信州の観光ルートにここが加えられているのか、ということもある。

 パンフレットの冒頭の説明文を引用する。
「塔は塔婆の略で、本来仏教的建造物である。したがって神社の塔は不思議に思われるが、わが国には神仏習合という長い歴史があって新海神社にも神宮寺があり、神宮寺の塔として建立されたのがこの三重塔である。明治維新の際、神仏分離の発布により、神宮寺は川原宿に移され、この塔だけは、神社の宝物庫という名目で、現位置にそのまま残されたのである。」「この塔の様式手法から室町中期のものと推定され……」とある。

 ここには数人の見学者が来ていて、再び振り出した小雨の中で、塔のもつ魔力につかれたかのように眺めていた。僕も何度となく仰ぎ見ては角度を変えて眺め、この奥深い信州の里山にひっそりと建つ塔にこころ洗われる思いがした。

 僕は宿に戻る途中に、「上宮寺梵鐘」を見た。南北朝時代の作品で長野県の重要美術品であるという。また、梵鐘にまつわる由来来歴から、地元の武将であった田口氏一族の栄枯衰退も窺い知れる。生まれて2年ほどで臼田を離れた竹内好にとって、僕が今回歩き回った旧跡を知ることはなかったであろう。また、帰郷の折に訪れた形跡もないように僕には思える。「郷里とはいっても縁はうすい」ということは、山河に呼びかける、心のふるさと、として臼田の町が竹内好にはあったのであろう……とそのようにおもいつつ僕は宿への道で再び臼田橋を渡った。小雨はやみ、千曲川は激しく流れ、山々は霧に包まれていた。ここが竹内好のふるさと……なのかと納得させられた思いがした。

 
〔3〕繭を煮る匂い
 僕は宿に戻る道すがら臼田の中心部を歩き、井出という表札が多いことに気がついた。井出一太郎・丸岡秀子・井出孫六を輩出した土地でもある。僕が泊まる部屋には井出一太郎の額があり、宿の廊下の壁には丸岡秀子の色紙があった。井出孫六の「『竹内好と臼田町』覚え書」は僕が臼田にくる際に影響を与えた一文で、郷土の大先輩への敬意が行間に満ちている。今宵、宿で何か聞きだせるのではなかろうか、そんな気持ちになり時刻を確認すると午後5時近くになっていた。
 一軒のお店が眼に入ってきた。「玉屋」とある。ここがそうなのか、と僕はインターネットで検索した「臼田名菓情報」の紹介を思い出し、土産として何か購入するために店に入った。この店は街道沿いにあって、明治以前の創業だという。お菓子の名は「五稜郭」「星のふる里」などがならんでいた。

 さて、宿での夕食の時、僕は宿の主人のお母さんとが食堂におられたので、竹内好をご存知ですか、と尋ねたところ「よしみさん」という返事があり、最近中国関連でどうのこうの……と話された。さらに、竹内好が臼田について書いた文章には「繭を煮る匂い」という言葉があるが、これはどういうことでしょうか、とお聞きすると、一冊の本を持ってこられた。見ると『九念荘ずいひつ―臼田街道昔語りなど―』とあり、その本の中に臼田町の民家の名が記入された地図が折り込まれていて、「このあたりに竹内さんの親戚の家があります」と指をさして教えてくれた。そこは宿から駅に向かって行くと道が大きく二つに分かれるところ、臼田町の中央にあたる付近であった。「繭を煮る、というのは…」と話は続いた。「良い繭は出荷して、悪い繭やできの良くない繭は自分の家で煮て真綿にするのです。…繭で景気が良かった頃には町に芸者が20人はいました。……」と話された人は、佐々木郁さん。インターネットの「清集館」の紹介欄に「ゆかいで情けいっぱいのおっかさんらがてんてこまい」とあったその「おっかさん」で、僕が食堂に入った時には、短歌の同人誌「ちくま」を会員向けの封筒に入れているところであった。自らは『てのひらのうえで』というまさに題名どおりの小さな詩文集とでも言うべき本を長野市の「銀河書房」より発行している。

 僕は参考にと手渡しされた本を夕食の後に部屋で拾い読みした。その中の「農桑多忙昔語り」の章より引用する。「繭による現金収入が農家の暮らしに何より大切だった。明治の頃は、蚕種の良否が作柄に大きく影響するとされた。」「米と繭が農家の主柱、現金収入は養蚕に頼るより外に仕方がないのが、明治の頃の仕組みだったと言える。」

 竹内好は「佐久を思う」という文章のほかに「信州と旧友と私」という関連する文章も書いている。これは『潮音』1961年1月号に発表したものである。内容は発表の前年の秋に2度続けて信州へ旅行した時のことを書いたものである。竹内好はその時の臼田をこう述べている。
「藤村はいうまでもないが、木下尚江からさえ、私は繭を煮るにおいをかぎ出すことかある。あの繭のにおいは、郷土喪失感にからんで私にはなつかしい。」「そういえば今度の旅行のとき、いま考えてみて、一度も繭のにおいをかがなかった。」「私のいとこが臼田で長く教員生活をしている。彼とも久しぶりの対面だった。臼田は相変わらず変哲もない町である。臼田ぐらいの町では、もう繭を煮る風習は絶え、それが絶えてから久しく、町にたてこめていたにおいさえ雨風に吹きはらわれてしまっているのだろう。」

 その繭を煮る匂いというのが実際にどういう匂いであったのか、僕は知らない。竹内好にとっては故郷の独特の匂いであったが、それも時代の趨勢とともに消えていってしまった。その臼田町の変遷については、井出孫六の「『竹内好と臼田町』覚え書」に詳しい。
『九念荘ずいひつ』は山下九市著・平成2年11月発行・家蔵本。このような本は地元にこない限り拝読することはない。この宿の壁際にはたくさんの書物が並べられていた。

 島崎藤村や木下尚江からさえ「繭を煮るにおいをかぎだすことができる」とはどういうことであろうか。竹内好は「信州と旧友と私」のなかでこう述べている。「私の世代のものはまだ、父の世代に残っていた地縁的な共同体意識を、反逆を通じてであれ、ともかく理解することができる。だから自然主義派の小説などをよむと、胸がしめつけられる感じがすることがある。くらい明治のおわりから大正のはじめへかけての空気が、実感によみ返ってくる。自然主義派ばかりではない。ロマン派にしろ、白樺派にしろ、彼らのふりかざす都会趣味が、じつは土臭さとヘソの緒が切れてないことからくるあせりの気味をふくんでいるのを、私たちの世代のものなら見抜くことができる。」

 1910年(明治43)10月に生まれた竹内好にとって、故郷の臼田への旅は日本の近代文学の「土臭さ」を再認識するものでもあった。それは急速な近代化がもたらす軋轢であったのであろう。竹内好にとって故郷とは両親とのつながりを明確にさせるものでもあった。先の引用文の前でこう書いている。「若いころは、故郷などクソクラエと思っていた。父や母が故郷に執着する気持ちを解しかねた。母は私が中学二年のときになくなった。そのことが、私を信州から遠ざける動因の一つになっているだろうと思う。母がもっと生きていたら、おなじ反逆するにしても、私と信州の縁は変わったものになったかもしれない。父は、年をとるにつれて、懐郷の念がましていったようである。この父も、戦争がまだはげしくならないうちに、五十歳台でなくなったが、晩年はしきりに、信州へ家を建てることを空想していた。そして息子である私を、なんとかして自分のうまれ故郷へつなぎとめておきたい風であった。その最後の努力目標が、私の嫁を信州から迎えることであった。父の伯父に当たる胡桃沢勘内というアララギ派の歌人で郷土史家でもある人が、父のためにこの計画を推進した。父の死によって私は動揺し、いくらか妥協したい気持ちもあったが、それがうまくいかなかった。」

 竹内好にも故郷との葛藤があった。井出孫六は「『竹内好と臼田町』覚え書」の中で竹内好の従弟にあたる竹内隣治朗氏に依頼した「竹内好のルーツについてのメモ」を引用している。僕もここでいくつか引用したい。

□ 父武一は岩村田税務署員として佐久に住んでいたが、竹内家(祖父の二女起よ)の養子となって祖父の家を継いだ。

□ 母は大正十三年に死亡したが、母のことを思うときは、いつも何か深い思いが心にあったのか、顔色にあらわれ、母を偲ぶ心がありありとわかった。私には、しずかに深く考え慎量な性格は、母に似ているように思われた。

□ 小さい時から父母につれられ、時々故郷に帰ってきた。先祖の墓があるので、帰郷すれば必ず墓参りはした。

□ ある時期(安保の後都立大教授をやめたあと)には佐久か小県辺に引っこんで文筆生活に打ち込みたい時期があったように思われる。

□ 終戦後帰郷すれば、必ず稲荷山に登り、千曲川の堤防を歩くことをたのしんでいたように思われる。

 両親に連れられ故郷に帰った竹内好には繭を煮る匂いが強烈であったのであろう。千曲川・浅間山そして繭を煮る匂い、この郷愁セットに加えるものがあるとしたら、島崎藤村……でもそれは千曲川とダブルか。そんなことを部屋で考えつつ僕は歩き疲れた一日を終えた。

〔4〕信州人・竹内好
 翌朝、僕は早く起きて散歩に出かけた。目的地は稲荷山公園であった。そこに島崎藤村の文学碑があることを宿の主人から知らされていた。竹内好は、帰郷の時に臼田橋の上で、千曲川の流れを眺め、浅間山を仰ぎ見て「ここに立って千曲川旅情の歌の全部を暗誦することも当時の私にはできた。」と「佐久を思う」で書いている。

 「当時」とはいつ頃であろうか。おそらく文学に目覚めた中学生のころであろう。『竹内好全集17巻』の「年譜」によると1925年(大正14)8月に、竹内好はカメラをならい、そのカメラを持って弟と臼田へ旅行している。13日~15日にかけてのお盆の帰郷であった。それはちょうど母が亡くなって1年後の夏であった。『竹内好全集』の「月報5巻」の井出孫六「信州人竹内好」のページに「母の葬儀のとき」の写真が掲載されている。僕はその時の竹内好を想像する。「母がもし長く生きていたら信州との縁も変わったかもしれぬ」という思いは、かなりあったと僕は思う。この時の帰郷は、そういう思いとの決別の気持ちがどこかにあったのではなかろうか。そのためのカメラであり、写真として遺せるものは収めてといこうという多感な若者の繊細な一面を僕は感じるし、弟を同行させたことの背景にはある種の決意があったと推測される。それは、故郷は故郷としてある、ここに住む事はない、ということではなかったか。

 稲荷山公園の坂道を登っていくと「藤村の文学碑」はあった。「千曲川旅情の歌」の「小諸なる古城のほとり」の2小節のところが石に刻まれている。その最後のところ……暮れ行けば浅間も見えず、歌哀し佐久の草笛、千曲川いざよう波の、岸近き宿にのぼりつ、濁り酒溺れる飲みて、草枕しばし慰む……。

 この稲荷山のことを井出孫六は次のように述べている。「ちっぽけな丘が、千曲川の激流の侵蝕に耐えてのこった古生層の岩山で、戦国時代甲斐の武田と越後の上杉が覇を争って佐久盆地に死闘をくり返していたとき、この丘は佐久平を制圧するためになくてはならない戦略的拠点だったといわれている。」その丘に現在では「コスモタワー」が建っている。高さ34.9メートルで、螺旋状の階段を登っていくと展望台に着いた。

 途中、子犬を連れた人がいたのみで、早朝の公園は実に静かであった。展望台からの景観は素晴らしく、臼田の町の様子が手にとるようにわかった。

 僕はしばらく四方を眺め、特に眼下の千曲川と臼田橋の方角を見つめていた。藤村の詩を暗誦できたぐらいだから、竹内好はかなり藤村を読んでいたに違いない。やはり郷里にゆかり深い作家は気になったことであろうし、しかも先輩であるならばなおさらである。しかし、そのことを竹内好はあまり書いてはいない。やはりふるさとへの配慮であろうか。そんなことを考えながら僕は来た道を宿へと戻り始めた。公園の緩やかな坂道をくだっていると、中年のご夫婦とすれ違い「おはようごさいます」と挨拶をかわした。そういえば、昨日は五稜郭にある小学校の生徒達が皆「こんにちは」と挨拶をした。

 公園の入り口に臼田橋の移り変わりを知らせるプレートが三枚あった。写真入りで現在にいたるまでを説明している。このような立派なものまでできて町の振興に力をいれている姿を垣間見た思いがした。やはり今でもこの橋は要衝の地にある。千曲川と浅間山、この構図は不変なのである。

 井出孫六は書いている。「竹内さんは、その郷里について書くことも語ることもほとんどなかったけれども、その内側には郷土意識を強く秘めていたのではないかと思われるフシがある。」「公の席で全く強度を語らなかった竹内さんが、家庭では濃厚に〝信州人〟でありつづけていたらしいからである。夫人の回想によれば、〝男は信州人にかぎる〟というのが、竹内さんの口癖だったとうかがって、一面意外の感にうたれるとともに、また一面さもありなんと肯けるような気もするのである。」「信州人がもつ風土性は、後天的なものとは言いがたく、それは父祖から引きつがれてくるものと言うべく、竹内さんの場合にも、安曇に生まれた父親と佐久に生まれた母親から、純粋な信州人気質をうけついだというべきだ。」

 この見解はまさに的を射ているとしかいいようがない。僕は宿で朝食をとり、帰りの小海線の時間を確認して、いろいろと収穫があった臼田での時間と宿へお礼を述べ駅へと歩いて行った。僕は前日の夜に臼田橋から見る浅間山の方角を教えていただいていた。臼田にも見るべきところが多いではないか。日本で海から一番遠い場所もある。

 竹内好は「佐久を思う」の中でこう書いている。「定住を別にして、立ちよる回数の一番多いのは、なんといっても佐久である。1回の滞在が数日からせいぜい十数日であるにせよ、過去六十年間二十回か三十回は臼田との間を往復しているはずである。」

 母が亡くなった後、高校時代の夏休み、そして60年安保の年の秋など、人生の節目に帰郷していることは、ふるさとに何か吸引力があるからであろう。竹内好は臼田駅に降り立ち、臼田橋から千曲川の流れを見つめ、浅間山を仰ぎみて、その時の心境をふるさとの山河に向かって語りかけていたのであろう。その時、ふるさとの山河は、竹内好に励ましを与え、勇気を与えてきたことであろう。僕は臼田橋の中央に立ち、つくづくそう感じた。ふるさとの山河ほどありがたいものはない。

 浅間山は千曲川の流れに沿って右手はるか前方にある。だが、ついに僕にはその全容をみせてはくれなかった。「生活を経験しないために郷土感がうすい。しかし、もし生活していれば偏屈な私のことだから反逆したかもしれない。やはり故里は遠きにありて思うほうがよい。」という竹内好に臼田の町は狭く、ここで一生を終えるということは、両親が長生きしたとしてもなかったのであろう。

 列車の時刻が迫ってきたので僕は臼田橋を後にした。

 1910年(明治43)10月2日に、竹内好は長野県南佐久郡臼田町にて生まれた。ここが竹内好の生まれ故郷である。この旅の記録の最後に竹内好の「佐久を思う」の最後の文章を引用して終わりたい。いわく「千曲の流れと浅間の景観は自分の精神の一部に血肉化されていることは否めないように思う。」

《引用文献》
□「佐久を思う」『竹内好全集 第13巻』〔筑摩書房〕
□「信州と旧友と私」『竹内好全集 第17巻』〔筑摩書房〕
□「『竹内好と臼田町』覚書」『思想の科学 1978年5月号』〔思想の科学社〕

〔2005年7月24日 夏目久夫〕


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