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竹内好かく語られ記

竹内さんの励まし


 

竹内さんの励まし

中村 輝子
 
 竹内さんの一周忌にあたる三月三日の夜、竹内さんとかすかなつながりを持つ、一人の新聞記者の会があったことは、むろん偶然ではあった。

 その日、共同通信のプノンペン支局にいた石山幸基記者が、カンボジアの解放戦線側に取材のためにもぐり込んだまま、行方不明となり、すでに四年数ヵ月が過ぎているのだが、たまたま、彼の家族を励ます会が同僚たちによって開かれたのだった。竹内さんの確かな不在と石山記者の不確かな存在への感情は、私の記憶の中での二人の交差点をあざやかに思いおこさせた。

 一九七三年二月、インドシナ半島の戦争が混迷状態のまま続いていたころ、私は、カンボジアにはじまる東南アジア四ヵ国の取材旅行に出かけた。その前年まで、共同通信の企画「アジア学の展開のために」を続け、中国を見るための、複数の視点を設定しようと試みたものの、不充分に終わった反省を心のすみに抱えての、東南アジア体験だった。一ヵ月の短い旅のあと、竹内さんと酒を間に話す機会があった。

『もう精神も衰えて、隠棲しているからね。出かける元気はないが』と、私には、竹内さんの話の定冠詞のように思われる前置きも消えぬうちに、いろいろと質問をくり出して来られるのだった。まず、食べものから始まる。短い旅ゆえにいかに体力調整に心をくだく必要があったか、などの弁解は意に介していただけない。土地の食べものの辛さ、酸っぱさ、草の香り。魚の姿、かたち。もちろん料理方法にも及ぶが、推測の域を出ない。次ぎは酒。探求心のおもむくままには手をのばせなかったことなどつぶやくと、まずそうにパイプに火をつけられるので、せめてビールの銘柄など報告する。人びとのものの食べ方、交通の手段。話はこまごまと色あざやかに。竹内さんのあいづちに励まされて、しきりに記憶をたどるうちに、いつか竹内さんにみちびかれながら、もう一度、アジアの土地を流れ歩くふうになる。その、具体的なものへの親しみ、興味は竹内さんの状況判断の支柱になるのだろう。

 やがて新聞報道に話はつづく。『向こうに行ってる特派員は何をしているのだろうね』。せいぜいそのような切り出しなのだが、インドシナ半島で、またその周辺諸国で、日本の新聞記者たちが、日常どのような形で情報を集め、状況判断をしているのか。"市井の隠者"の関心のもちようとしてはかなり具体的であり、少なくも大状況を問う発想はないのだ。

 一九六〇年、安保闘争のさいの新聞各社による『七社共同宣言』を直接の動機として始まった竹内さんの新聞批判はよく知られている。言論機関の名を捨て、企業意識の陥穽にはまった大新聞への絶望を明らかにしていた。新しい新聞を作って既成のメディアと対決する可能性を求めて、『小新聞の会』を組織し、まず"敵を知る"ための研究を、編集者、研究者と共に重ねたとものちに知った。不偏不党主義と独占型の日本の新聞に対抗する手段は、しかし、どのような理由によって立ち消えになったのか。雑誌『中国』の発刊の中に、その可能性は吸収されたのか。六十二、三年の日記抄である『転形期』には、新聞の会にいくたびか足を運んだことは書いてあるのだが、その志の行方については書かれていないので分からない。くわしく伺う機会を逸したままになってしまった。しかし、新聞報道に対する感想のもち方と記事批判を通して状況に見通しをつけて行く姿勢には、竹内さんの、ジャーナリズムに強く見開かれた目が感じられて、私たちに覚悟をせまるものがあったことは事実だ。

 私は恐らく、雑誌『中国』の自主刊行のころから竹内さんと顔を合わせるようになったと思うが、『政治に口を出さず』『世界の大勢から説きおこさない』中国の会の取り決めの中に現われている、日本の現実へのある断念は、そのまま、ジャーナリズムへの問いかけなのだと思ったことも忘れられない。

『評論の筆は断った』と宣言されたのも同じころである。しかし、安保闘争の時代から、共同通信には、小なるが故の期待をもたれたのだろうか。その後も協力していただいたが、私たちとて、決して竹内さんの批判をまぬがれていない以上、その存在感はいっそう大きかったように思う。

 日常のことどもの延長で、話が新聞報道に及ぶのは私との会話の常であったといっていい。その時、交戦中の国という予想を裏切るほど戦意を失っていたプノンペンの数日を竹内さんに語ったのは偶然ではなかったように思う。竹内さんが『向こうの特派員は……』といった時、特派員という身分に安定できないでいた石山記者のことがまず思い出されたのである。

 竹内さんは石山記者に会ったことがない。石山記者もジョージ・オーウェルには情熱を傾けていたが、魯迅と格闘したという形跡はなく、文化部記者時代も、あえて竹内さんを訪ねるふうもなかった。オーウェルの短いエッセー『右であれ左であれ、わが祖国』を訳した彼が、竹内さんとナショナリズムについて議論すれば、また面白い展開があったかも知れない。

 プノンペン支局に赴任して四ヵ月ほど経っていた石山記者は、ちょうど霧に包まれたカンボジアが輪郭をとって見えて来はじめた時であり、それだけに、報道のあり方にも焦りが深まっていた。毎夕の政府軍情報部の発表を待ち、見えぬ解放戦線を想像する日々。ロン・ノル政権下の腐敗したプノンペンから出ることのない閉ざされた毎日。主としてストリンガーが多かったが外国の記者たちは、本国の"コントロール"を気にせぬ発想と行動をするので、彼らとつき合う方が面白いともいう。アジアの中に身を置いて、変わってくる自分を見れば見るほど、日本の、そして組織の条件の中で報道する不自由さが、本意でないものとしてふくれ上がっていたのだ。町はずれのフロン・バサックの屋台で、激した口調で語るのは、おのれを含めた日本の新聞の"事なかれ主義"、組織原理への同化だった。私には、例えばストリンガーの限定つきの自由さが良質の報道を保証するようにも思えなかったが、石山記者のいら立ちを聞くのはつらかった。その時、彼はその半年後に歩いて行く道を予感していたのだろうか。

『若い人はいい、"大記者"になっていないからね。しかし、気にかかるね』と竹内さんはいう。はじめて日本の外に身をおいて感じたあらゆる憤慨を大記者風に処理する術もなく、あらわに見せている記者は、『そのうちいいものを見つけて来ますよ』ともいう。日本のベトナム報道が、"アジアの心"に戸惑うようすもなく、いかにもわけ知り顔に書かれることを最も不満に思っていた竹内さんらしい励ましだった。

 その年の十月、石山記者は、プノンペンの北にある古都ウドンから解放区取材に出発したまま、消息を断った。彼の日頃の熱意を知っていたカンボジア人の助手が、解放区側がわりと自由に出入りしているウドンの市場で、向こう側の人物と接触、交渉した末、開けた道だった。解放区側からの指示通り、一般の住民と同じ黒いシャツにサンダル、クローマーとよばれる赤と白のチェックのカンボジア風タオルを首に、自転車に乗って、一一四号道路を村人と一緒に走って行ったという。

 彼は帰国を目前にしていた。三週間足らずの解放区取材は彼にとって自分の報道にけじめをつけなければならない、最後の試みだったのだろう。いかに安全を期して手はずをととのえたとはいえ、大きな賭けであったことに変わりはない。さまざまな情報が数ヵ月の内はあったが、戦火の激化と共にとだえてきた。

 七四年春、『アジア学』を本にするための話し合いをしている時、竹内さんに"あの、プノンペンの記者"の行方不明を伝えた。ちょっと目をむくように動かしただけで、あまり表情も変えない竹内さんは、『それはつらいね』とぽつりといわれた。竹内さんにもある予感はあったのだろうか。石山記者はおそらく、一年間の体験の終わりには、矛盾のない場所で働くことの幻想を捨てていたに違いない。それだからこそ、その力が期待できたのだが、竹内さんは、記者の個人的な野心としてその間題は矮小化できない、というような意味のことをはっきりといわれた。彼の賭けは、野心の賭けではなかった。彼の体験と思想を力量いっぱいに使って、状況を開こうとした道半ばのことだったと思う。

 私が、竹内さんに、会ったこともない一人の新聞記者の話をせずにいられなかったのは、なぜだったろうかと思う。自分の中にうっくつするものは口に出せぬまま、竹内さんの励ましを期待していたのだろうか。思い返せば長い間、竹内さんから受けてきたものは、数少ない言葉にふくまれる励ましの響きだったような気がする。その響きに共鳴することで私は力を得られた。機会あるごとに竹内さんの思いを追うことによって、私はそれを取りもどす。竹内さんを過去のものとして語るには一年はまだあまりにも短い。

『思想の科学』1978年5月臨時増刊号所収 思想の科学社発行

この文章の掲載にあたっては、中村輝子さんのご了解をいただきました。

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