本文へスキップ

竹内好かく語られ記

まとまらない思い


 

まとまらない思い

中島岑夫


 竹内先生が吉祥寺の森本病院に入院されたのは昨年十二月一日、そこで亡くなられたのは今年(一九七七年)三月三日だから、冬の季節を病院で過されたまま永眠されたことになる。暑がりな先生の病室ばかりはいつも窓が少し開けてあった。それでも暖房を暑がって、奥さんは時々ウチワで先生のあの大きな頭の方から風を送っておられたのであった。先生は夏、おしぼりが出されるとまず頭のてっぺんを拭き、それから顔を拭かれる人であった。病室の開けてある窓からは雪がふっているのが何度か望まれたと記憶する。雪がふっても窓は開けてあったのである。

 ぼくは道を右へ折れて病院へ入る角で四階の先生の病室を見上げ、窓が少し開いて灯りのともっている気配をたしかめてから病院へ入るのであった。 この前と変りはないということのぼくなりのたしかめようではあったが、昨日と同じというのは、希望のない安堵でしかなかった。病気はもう重大なことになっていて、年を越せるかどうかというのが先のことを考える目安でしかない状態であった。入院以来、伸びてゆく口ひげとうしろ髪はまっ白であった。「もういいよ」といわれる先生をなだめながら奥さんが日本カミソリでひげをそると、ずっと顔は若返るのであったが、やはりまぎれもなく病人の顔であり、生えてくるのは黒をまじえぬ白いひげであった。

 歳末大晦日、ぼくはこれが先生にお礼を申し上げてちゃんと聞いていただける、おそらく最後の、そして自然でもある機会だと思って、ベッドの横に立って四角なことばで、今年もお世話になったことのお礼、ご病気の回復を念願していること、『魯迅文集』の完結を待っていることなどを申しのべたのであった。病室には埴谷雄高さんと橋川文三さんがいて、ぼくのことばは埴谷さんから「君はちゃんとしたあいさつが出来るんだね」とひやかされるような、感心されるようなものであった。治療によって先生には少しずつ精気がもどってくる兆しが見えていた。新しい年を迎えれば新しい希望が見えてくるかもしれぬという気分が室の空気を軽くしていた。しかし、それは希望への期待というべきであったろう。あてにはならない。ぼくにとってはお別れの心を抱いたあいさつであり、まちがうと涙になってしまうところをしゃちほこばったのであった。今年はともかく過ぎた。誰も考えなかったような歳末を迎えることになったが、ともかく新しい年になる。しかし来る年は――。

 そのとき先生は、これではみんなの顔が見えないから、ちょっとベッドを起してくれといわれて奥さんはハンドルでベッドを少し上げられた。すでに入院以来顔を横に向けることもかなわず、私たちはいつもベッドの上に身をかがませ、先生の顔へ自分の顔を寄せて話すのであった。上半身が起され、私たちはしばらく目を合せた。このときのことをいま思い起して、感謝というのに似た感慨をおぼえる。

竹内家での中島さん

 亡くなる前々日、先生に顔を寄せて「中島です」と申し上げたら「しばらくだったね」と笑顔をつくられた。このころは毎日病院へ行っていたがそっと様子を見てそのまま帰ったから気付かれなかったのである。この「しばらくだったね」というのがぼくにかけられた最後のことばになった。

 あの最後の入院中の日々は、いま思い返しても半分は何か夢の中のことでもあるかのように切れ切れの記憶でしかなく、茫漠としている。病室の窓から斜めに雪が降りしきるのを見ていたのはいつのことであったか。雪はたしかに斜めに降っていたのだが。あの日々のことは、ぼくの中では時の経過がたしかな遠近の中におさめられていない。


 一九五三年、大学へ入ったとき、ぼくはたまたま中国研究会という寮の部屋にふりあてられた。志願してのことではなかった。そこに、お前たち、竹内好(ハオ)の『現代中国論』も読んでないくせに中国だの毛沢東だのと生意気なことを言うなとがみがみ言い立てる二年生がいた。偶然と強迫されての機縁から読みはじめて、これまでの年月の間に竹内さんの書いたものと魯迅の作品の大方は読んだことになろうか。

 わが青春にあって魯迅とは何と理解しやすくもあれば誤解しやすくもある文学者だったことか。理解したと思うことは端から誤解を重ねることだったといえなくはない。「しかし、暗黒だからこそ革命は必要ではないのか」と魯迅はいう。われわれは、革命が必要だから世界は暗黒だと思い込んでいたふしがある。新人会以来の日本の革命的青春は、つねに現実を危機意識とオプティミズムの統一の中で、つまり革命前夜にあるものとしてとらえてきたのであった。だから現実は容易に極限状況にある世界像のかたちで了解された。われわれもまたこの新人会の系譜の上にいたとおぼしい。

 そして、青春の意識の透明が現実の複雑と陰影をしりぞけ、それを単純な世界のかたちでみることをいわば生理として要求するのである。われわれにとって世界とは性急に極限状況として抽象された現実、観念の中にあって現実よりも現実的であった。われわれの「意識」は何と高くもあれば軽くもあったろうか。現実を抽象してしまえば、魯迅とはわれわれにとってまことによく世界が見える眼鏡であった。奇妙なすれちがいと奇妙な片思いがそこにあった。雑誌『中国』の申し合せの中に「世界の大勢から説きおこさない」という一項が入っているのは、新人会以来の発想に対する竹内さんのにがい批判がこめられているものとぼくは了解する。また竹内さんはどこかで、日本では絶望もまた甘美な希望になってしまう、そのように玩弄される、と書いているはずである。事態は正確にそのようなものであった。

 「書いてゆきたいにも、中国の現在には、書く場所はやはりないのだ。若いころ向子期の『思旧賦』をよみ、その賦がわずか数行の寥々たるもので、発端からすぐ結末になるのを、なぜだろうと不思議に思った。だが、今にしてそれがわかった」。向子期は竹林七賢の一人。嵆康が司馬昭に殺されてから屈し、司馬氏に仕える。「思旧賦」は嵆康と呂安を悼み、全文百五十六字と『魯迅文集』五巻訳註にみえる。「忘却のための記念」に記されている魯迅のこの文章は、魯迅その人の作品に対する註でもありえていよう。実際、魯迅作品中の人物はあの生命力もっとも旺盛な阿Qをもふくめて、孔乙己、祥林嫂、連殳等々、いずれも暗黒にのみこまれてまことに短命に生を終え、作品も終ってしまう。われわれはこの「暗黒」に性急な抒情の眼をもって対し、魯迅の描く「暗黒」になぞらえて世界を見た、というべきであろう。暗黒とは世界が完結した像を結ぶためのもっとも重要な観念であったらしい。そして観念が抒情の対象とされることにもっとも自戒もし警戒もしたのは思想家としての竹内さんであった。

 竹内さんが魯迅の新しい理解者を「私とまったく感性のちがう、いわゆるマンガ世代」に求めたのは、わかるような気がする。彼らはわれわれの世代よりは「ぼくって何」というところに執着し、魯迅を他者として理解してゆく眼をもっているのかもしれない。

 いまのぼくの眼には『魯迅文集』の魯迅はしたたかに毒をふくみ、苛酷なまでに執拗をきわめ、冷静なままで熱情的、しかも複雑なままに単純でありえている文学者として映る。これはどこか日本人には合わないところをもっているという思いがする。魯迅の論争文はつねに「一刀血を見る」諷刺にいたるが、日本の文学者の論争文は大方のところは歌に終る。

 魯迅を読むことにきっかけが必要であったが、理解の軌道修正には師が必要であった。暗黒とバラ色によっていろどられた青春の時間から、見たところネズミ色のような人生の時間に入ってゆくとき、ぼくは竹内さんの近くにある幸運にめぐまれたことを感謝する。そのことによって魯迅が一過性の青春の書として終らなかったことを感謝する。

 しかしそれにしても、竹内先生とこういう身近かなかたちでお別れすることになろうとは、思ってもみないことであった。

『追悼 竹内好』(竹内好追悼号編集委員会編 魯迅友の会1978年発行)所収 この文章の掲載にあたっては、ご子息の中島次郎さんのご了解をいただきました。

Copyright (C) Jiro Nakajima 1978 All Rights Reserved.


ナビゲーション