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竹内好かく語られ記

古田さん、竹内さん


 

古田さん、竹内さん

中島岑夫  

 ひとくちに二十五年といっても、やはり相当なもので、「風紋」開店以来の年月をわが身にふりあててみれば、二十七歳から五十二歳までの四半世紀が入ってしまって、この先に何かいいことがあったところで、わが人生の最良の部分はもうあっちへ渡ってしまっているようで、ふりかえると、なつかしいような、いささかさびしいような思いがする。

 いまはたしかな記憶が残っていないが、「風紋」への最初は、あるじの林聖子さんが筑摩書房に勤めていたことがあるという縁で、古田(晁)さんが、開店祝いに筑摩から一隊ほどの人数をひきつれて行ったなかに、ぼくもまぎれこんでいたということではなかったか。古田さんを考えると、そういうなりゆきが自然に思える。

 あれが開店しばらくのころだったかという小事件の記憶はある。いまの地下の店の前の店、いまと同じ並びの地上の店―そこに古田さん、臼井吉見さんがいて、岡山猛さん、安引宏さん、ぼくがいて、入社まもない持田鋼一郎君がかしこまっているという光景。小学校のような四角な椅子がカウンターにそってかぎ型に並んでいて(本当にこう並んでいたかしら、ぼくのなかでは何度ふりかえっても、こういう、ちょっと分教場に似たかたちで再現されるのだが)、その壁際の端のところで臼井さんにぼくが話しかけられている。かぎが左へ折れた向うに古田さんがいて、その先に持田君がかけている。

 新入社員としてかしこまっていた持田君がどういう加減か、急に立ち上って「臼井さんも中島さんもホモ・サピエンスです」とわけのわからぬことを言いはじめた。何か理くつばった話でもしていたのが気に入らなかったのだったか。それをしつこくくりかえすものだから、臼井さんが「ホモ・サピエンスとは何だ、このチンピラめ、こっちへ来い、ぶんなぐってやる」と本気で怒り出したのだった。臼井さんはなだめられてタクシーへ乗り込みながらまだ「何だあのチンピラめ」とくやしがっていた。

 それを見届けてぼくが席へもどると、こちらでは持田君が臼井さんの意外な剣幕にしょげかえり、聖子さんにつくってもらった特製の味噌汁を涙といっしょにすすっていた、と記憶する。酒の上の珍妙な問答にやっきになるほど臼井さんは元気で、持田君は若かった。奇妙な取り合せのやりとりに、照れくさい困惑の表情を浮べていた古田さんが亡くなってもう十年以上がすぎ、臼井さんはお齢をめされた。やせこけて口をとがらせていた持田君は、いつも汗だくだくで肥満が気になる中年となり、そして、開店当初から現在も筑摩の社員のまま、細々ながらも「風紋」と縁がつづいているのはぼくだけになってしまった。

火曜会スキー旅行

 ここはまた竹内好さんの思い出とも分ちがたい。月の第二火曜だったかに竹内さんを囲んで酒を飲んで歓談する「火曜会」はここを会場にしてもらって、かなりの期間つづいたのだった。夏など暮色の迫るころ、はじめに着いて、まだ誰もいないひんやりした新しい空気の店で、あとから来る人を待ちながらビールを飲むときのあのいそいそとした気分は忘れがたい。

 メンバーは竹内さんのほか、安田武、橋川文三、石田雄、岡山猛、田村義也、新井直之、高瀬善夫、玉井五一、金子勝昭、野田祐次の諸氏、ぼく。竹内さんは到着すると、まずおしぼりであの大きい入道頭から顔へと、拭きおろす人だった。この会では聖子さんも加わって何回かスキーにも行った。

 あれは昭和四十八年、岩手県網張温泉へ行って大雪に遭い、帰りに寄った盛岡のわんこそばやで、竹内さんが紅いたすきがけの女店員からかけ声といっしょに、肩ごしにあとからあとからどんぶりにそばを投げこまれて、ほとほと閉口のていだったのをみんなが笑いをかみころして、ながめていたのであった。

 竹内さんもいまは亡く、竹内さんの教え方が下手だから自分のスキーはちっとも上達しないんだと勝手なことを言っていた橋川さんも亡くなってしまった。

 古田さん、竹内さん、この人たちは、ぼくには「風紋」の椅子にかけている姿で想い浮べるとき、ごく自然でなごやかな表情をしているように思えるのだ。なつかしい人々を追想しつつ、ここで知りあった人々のご健康、いつまでも現役であられんことをお祈りする。(筑摩書房役員) 

『風紋25年』 一九八六年十二月五日 「風紋二十五年」の本をつくる会編集発行

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