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竹内好かく語られ記

あるのかないのか、故郷


 

あるのかないのか、故郷

松井博光

 新学期がはじまって一、二ヵ月たったちょうど今頃、それまで何となくよそよそしかった新顔の学生もどうやらうちとけて、喫茶店にでも行こうかと声をかけると、きまって何人かは同行するようになり、飲みに行こうかと水を向けると、誰かが安くてうまい店があると率先して案内してくれるようになる。これはもう毎年のことで、春から初夏にかけての年中行事のようになっている。それは専任の大学でも、非常勤で週一回しか足を運ばぬ大学でも同じだ。多少同行する学生の数と時期の早い遅いの違いはあるけれど。

 それが二、三回続くと、一層うちとけた学生がかならず問いかけてくる質問が二つある。
「先生の出身はどちらですか」
「なぜ中国文学をやるようになったのですか」

 この二つの質問をめぐるやりとりも、まさに年中行事のひとつと言ってよい。
「どう説明したらいいか、ひとことでは答えられない」

 わたしはいつもまずこう切り出しておいて、今回はどんな手順で話そうかと、頭の中で考えてみる。大げさなようだが、少しは例年と違った答え方をしたいという気持ちが働くからだ。それに学生の中にはたいていひとりふたり古顔もまじっている。だが口にするのは、いつも結局例年どおりの、たいして変わりばえのしない話である。

「第一の質問だが、わたしの親は瀬戸内海西端にある大島とその対岸の出身で、わたしは山口県が本籍だった。もうかなり前に東京に移したけれども。大島のことは歴史学者の奈良本辰也氏や民俗学の宮本常一氏が書いている。だが、生まれたのは仙台。ただし物心ついてからは、ごく短期間を除いて東京暮らしだから、育ちは東京ということになるかな」

 こんな答えに満足するのかどうか、学生の関心はここでたいてい第二の質問にうつる。だが時にはこれだけではまだ矛を収めぬ学生もいて、「では先生にとって、故郷はどこになりますか」と追求してくることがある。「さあ」とそこでまたわたしは考えこむ。

 これも毎年のことだが、ちょうど今頃から、新聞社や出版社の年鑑類に掲載する名簿の異同を確認する往復はがきが届きはじめる。学生とのやりとりの間に、返事を出さなければ等と思ったりする。そうした年鑑類の掲載事項はおおむね大同小異だが、出身地に関する項目には微妙な違いがある。というのは、おおよそ出生地とするもの、本籍とするもの、それにただ出身地とするものの三種あるのだ。わたしの場合をあてはめると、出生地なら宮城県または仙台、本籍は今は東京だが以前は山口県、そして出身地はやむをえずたいてい東京ということにしておく。ただし厄介なことに、出生地という項目名で質問しておいて、年鑑が出てみると出身という項目にしてある場合がある。めったにいないだろうが、各種の年鑑類を比較対照してみる好事家がいたら、この人間は一体なんだということになるだろう。そう思うと、なんだかおかしくなる。

「人間にとって、故郷はひとつでなければならない、なんてことはないだろう。とりわけ転勤の多い企業の人間や公務員の場合、その子供達の故郷はそう単純ではないだろうし、外国からの帰国者の子弟や、いわゆる『残留孤児』にとって、故郷ということばの内実は一層複雑、深刻だろうね。雑居田舎ともいわれる東京に地方から移り住んだ普通の人間の二代目、しかも親が何度か職をかえ、任地をかえたにすぎぬわたしの場合、たいして深刻でも、複雑でもない」

「瀬戸内海の透き通った穏やかな海と金色に輝く砂浜、緑と黄金色のみかん山、やかましいがどこかあっけらかんとしているクマゼミの鳴声、香ばしい熱々の茶がゆ・・・ 一転して、赤くさびた鉄のブイが漂着し、爆撃で沈没した船の残骸が散乱する戦争直後の浜辺、そこだけ焼けただれたような枯松の風景・・・ わたしにとってこれが少年時代に何度か訪れた田舎の残像だが、それが果たして故郷と言えるのかどうか。その上に、広瀬川の間のびしたかじかの鳴声やら、もうこわくてこわくて命がけで逃げた東京での暴れ馬の記憶やらがまじりあい、だぶっている。時には、焼夷弾の炎の海がそんな情景を焼きはらって、ハッとすることもある。昭和二十年八月、富山での体験だ」

 話がとぎれると、学生はお互いの故郷について、てんでに語り合う。信州がいる。福岡がいる。秋田が、土佐が出てくる。戸塚も埼玉もある。東京や大阪はやや肩身がせまい。でも下町はえばっている。

 ところで第二の質問についても、今まで明確に答えられたためしがない。人間の進路なんて、何がきっかけできまるかわかりはしないのだ等と、ごまかしている。だがひとつだけは書いておいていいような気がする。
「慶應では中国文学はやらなかった。ただし竹内好さんに会った」

『三田評論』 1987(昭和62)年8月1日 (8,9月合併) 号、慶應義塾発行

この文章の掲載にあたっては、松井千鶴子さんのご了解をいただきました。

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