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竹内好かく語られ記

実生活のうえで


 

実生活のうえで

松下 裕

 いまやわたしは、自分がはじめて竹内好さんに会ったころの竹内さんの年齢になっている。かんがえてみると、そのころの竹内さんは、いまの自分よりもはるかにタイジンの風格があった。かけだしの編集者だったわたしを前にして、だまっていつまでもパイプをくゆらしているこわい存在だった。『不服従の遺産』の原稿を印刷所にいれたあとで、判型のちいさい印刷原稿のひとつが束からぬけおちて、どこかでなくなった。だれの責任といいようもない。再録の文章だったから、竹内さんはあとでもう一度それをつくってくれた。しかし、紛失したことの恐縮よりも、竹内さんが押しだまっていられることのほうがわたしにはつらかった。編集部長と製作の責任者と印刷所の人との四人であやまりにうかがって、身をかたくしながらわたしは油汗をしきりにぬぐわねばならなかった。

 竹内さんは、女の編集者が苦手だった。ある女性編集者がしきりに語りかけるのに、とうとうひと言も返事しないので、彼女はあきらめてかえっていった、と竹内夫人にきいたことがある。竹内さんは、初対面の人にたぶんはにかみやだったのだろう。

 そのころわたしは、室生犀星のところに、「おまえは女でないからだめだ」と先輩編集者に同道紹介をことわられたことがあった。女性編集者の好きな犀星には、とてもわたしはよろこばれないだろうというのだった。そう言った先輩もじつは男だったが。竹内さんのばあい、わたしは男ですくわれたのだった。

 それでもわたしは、だんだん竹内さんと親しんでいった。評論集三巻の編集その他のいろいろな仕事をした。『魯迅文集』のためには、週一回かならず竹内家をたずねることにもなった。わたしがモスクワに最初に住んでいたころ、武田泰淳夫妻とたずねてこられたこともある。

 わたし一個のことだけでなく、六〇年安保のときには、筑摩の組合の集まりに来てくれた。竹内さんの話は、「わたしは、日本民族はだめだとおもうんですね……」といったふうの、独白体の陰々滅々としたものだったが、たしかに筑摩労組のその後の安保反対運動のエネルギーは竹内さんが掘りおこしたといっていい。すくなくとも、その後の活発な活動のそれはきっかけとなった。

 わたしは、竹内好というこの剛毅の人、しかしよく気のつく、人生の練達の人と知りあったことを自分の幸福とおもっている。
「人生の練達の人」と書いたが、それはこういうことである。

 日本朝鮮研究所というのができたとき、その事務局にわたしの友人がいて、こういう話をきいた。各界の人があつまって、その前途について意見をのべた。発足の祝いの会といったものだったかもしれない。精神的な激励の言葉の多いなかで、竹内さんだけが、この研究所は銀行から金がかりられるか、と問うたそうである。そういう点は、中国文学研究会その他のさまざまな組織の運営にあたってきた竹内さんの地味な経験から来ているようにおもう。例の都立大学辞職のさいのあいさつには、「私は文筆によってかつかつ生計を支えるくらいの才覚はあります」という文章がある。そのころはまだ高度成長の前段階で、文筆で人びとが生計を維持してゆくことのなかなか困難な時代だった。当時のわたしは、この一節に俗な感じをうけて、その意味が十分わからなかった。人の疑問とするところ、当人の言いにくいところを避けてとおらずに、言いきっている点が、いまのわたしには竹内さんらしい堂々とした態度として理解される。

 仕事のうえで、竹内さんとはさまざまなことがあったが、一度だけわたしが竹内さんをよろこばせたことがあった。評論集の各巻の月報に、中野重治、武田泰淳と一篇ずつ書いてもらって、最終回に丸山真男さんの文章がなかなかもらえなかった。どうしてもそれが欲しかったわたしは、談話筆記で切りぬけることにした。テープレコーダーや速記者によらず、いわば探訪記者の要領でやることにした。丸山さんにあれこれ話してもらって、わたしは文章をまとめていった。それを丸山さんが、あの東大法学部の研究室でその場で手をいれてくれた。である調を、「やさしい文章がいいんだ」といって、丸山さんは平明な、です調にあらためていった。天井までつまった書棚の片すみに、オックスフォード版丸山論文集などがあるのをわたしはながめていた。手をいれおえて、丸山さんが、「談話」としておいてください、という。わたしはそれを「好《ハオ》さんについての談話」としてもらった。「どちらでも同じだ」と丸山さんがいった。

 丸山さんがなかなか書かないのを知っていた竹内さんは、見本刷をとどけると、月報をみて、「お、書いたか!」といわれた。いきさつを話すと、一読してから、「三つのうちで一番いいんじゃないかね、コンストラクションがあって」といわれた。そして、「この文章を内容見本の推薦文につかったら、部数が×千部はちがったね」。そうだったなあ、しまったなあ、とわたしはおもった。これもわたしにとって、竹内さんから受けた編集という実生活上の教訓だった。(八一・六・二三)(まつしたゆたか・ロシア文学)

初出:『竹内好全集』第9巻「月報」11 筑摩書房 1981年7月

この文章の掲載にあたっては、松下裕さんのご了解をいただきました。

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