本文へスキップ

竹内好かく語られ記

「好さんとのつきあい」掲載のいきさつ


 

「好さんとのつきあい」掲載のいきさつ

松本 みどり

 (文中のとおり、筆者は「魯迅友の会」の世話人、『追悼 竹内好』の編集委員の一人として、丸山真男氏にインタビューを行い、その原稿を作成した方です。本人の了解をいただき、ここに掲載いたします。表題は「竹内好を記録する会」事務局で付加しました。2010年8月7日)

 私が「魯迅友の会」の世話人になったのは、今からおよそ40年前のことである。40年というと大変な昔であるのに、今思い返してもついこの間のような気がするのはなぜだろう。魯迅や中国現代文学が、自分の果てしない課題として、心の片隅にあるせいかもしれない。ささやかだが、所沢近辺の10名前後の中国語愛好者と共に、「中文翻訳会」なる現代文学の翻訳会を続けて、今年で25年になる。竹内先生からいただいた物は、中国に対する興味を「持続」させる精神だったのだろう。

 さてその40年前のことである。当時、「魯迅友の会」は代々木の「中国の会」の事務所に間借りをしていた。世話人には大学生が2、3人で当たっていた。仕事は月1回の読書会、年2、3回の会報「魯迅」の編集と会員への発送だった。学生が溢れてにぎやかだった「中国の会」にくらべ、「魯迅友の会」には社会人が多く、読書会などはかなり地味で穏やかな雰囲気だった。会の運営には、会員から送られてくる会費やカンパが当てられたが、足りないところは竹内先生のポケットマネーが頼りだった。

 もともと竹内先生お抱えの会であるのに、私達世話人はかなり勝手なことをやっていた。会報の編集も、読書会に来ていただく講師への依頼も、竹内先生には事後承諾のような形で連絡するだけで、学生気分そのままに思いついたことばかりをやっていた。その一番勝手なことは、事務所の転居だったと思う。代々木の事務所が閉鎖になったとき、「魯迅友の会」も閉会した方がよいのではという意見もあった。しかし竹内先生は「魯迅友の会」の今後について何もおっしゃらなかった。世話人の私達は、会としての活動を継続させたい、独立した空間がほしい、そんな気持ちで巣鴨の四畳半の古いアパートを借りてしまった。事務所開きは1975年4月、先生は賛成も反対もされず、黙ってカンパをくださった。

 巣鴨に移っても、今まで通りの活動を維持しようと、世話人や仲間が週2、3回集まり、読書会や会報の編集作業等に当たった。会報も四回くらいは発行したように思う。手元にある金子光晴氏へのインタビュー記事を載せた号には、巣鴨の住所が書かれている。この間、月に一度は竹内先生のお宅に伺い、会報を渡したり現状報告を行ない、帰りがけ先生からカンパをいただいたりした。しかし巣鴨では竹内先生のつながりがほとんどなかったため、同人誌か学生の集いのように身内の会になっていき、手詰まり状態を迎えていた。2年後、竹内先生の逝去とアパートの取り壊しで、「魯迅友の会」は終焉を迎えた。

 何か仕事をすれば放心状態から立ち上がれるかもしれない。「魯迅友の会」会報の最終号を「竹内好追悼号」にすることが決まったのは、先生の逝去2ヶ月後のことである。7月には投稿の呼びかけを全会員に発送した。私はこの追悼号に竹内先生と親交深い丸山真男先生に、追悼文を載せていただきたいと思っていた。インタビューという形になったのは、丸山先生が、どんな人物が追悼号の編集に当たるのか知りたいという希望があったからだ。夏に自宅を訪問の際、「いろいろな人がいろいろな形で原稿依頼や講演を頼みに来るので、実際会った方がいいから」とおっしゃっていた。

 案外簡単にアポが取れてうれしかった私は、学生気分そのままに、ほとんど何の用意もなく先生の自宅に伺った。だが先生は怖かった。3人の世話人の中でもっとも不勉強の私が「竹内先生と丸山先生のお考えは似ていると思います。」などと不用意なことを口にしたとたん、先生に「どこが似ているのか、どうしてそう思ったのか、説明してご覧なさい。」と切り替えされ、私はしどろもどろに何も言えなくなってしまった。相手にインタビューをするときにはきちんと著作を読み、質問の準備をしてから来るべきである、勉強が足りない。当然の言葉であるが、先生の鋭い声がガラス窓にびりびりと反射するようで、いたたまれないほど恥ずかしく、私は冷や汗が止まらなかった。

 今、追悼号の「好さんとのつきあい」を読み返すと、丸山先生が一言一言、懇切丁寧に言葉を説明したり、出来事の由来を詳しく説明されている。聞き手があまりに幼稚で、何を言っても通じないかも知れないと危惧された先生が、ゆっくり言葉を選んで話してくださったからであろう。インタビューを終えて先生の自宅を辞したときには、夏の夜が暮れていたので、おそらく5、6時間はお忙しい時間を割いてくださったと思う。

 インタビューを原稿に起こすのは私の仕事だった。ところが録音テープには先生のびりびりしたお叱りの声もしっかり録音されている。当日の冷や汗や恥ずかしさがフィードバックし、なかなか作業が進まない。遅々として進まずの1ヶ月が過ぎていったある日、竹内先生の奥様からお電話を受け取った。インタビュー以来1ヶ月、何の音沙汰もない、いったいどうなっているのか。丸山先生が竹内先生の奥様に問い合わせてこられたそうだ。これは竹内先生にまで泥を塗ってしまったことになる。何日か徹夜状態で原稿を書き、詫び状と共に丸山先生のところに原稿を送った。数日して先生から原稿が送り返されてきた。赤ペンびっしりか、「削除」の斜線だらけかとハラハラしながら封筒を開けると、ほとんど訂正がない。ということは全文ボツか。同封の先生の手紙を拝見すると「これでいいです。よくまとまっています。」と書かれていた。しかし私には先生の言葉が信じられず、どうにもならない文だから、訂正するのもやめたと言う意味ではないかと思えたものだった。

 その後33年、教員として働く私は、教材で「藤野先生」や「阿Q正伝」を取り上げる以外、竹内先生や魯迅とのつながりはまったくなくなってしまった。ただ先日、新卒の美術の教師と版画の話をしているうちに、魯迅のことが話題に上り、魯迅の木版画運動がいかに中国美術史に重要かを話してくれた。中国とは畑違いの若い人から魯迅の話を聞くのには意外の感があった。今も「魯迅友の会」があったら、さっそく彼を入会させていたことだろう。「魯迅友の会」を竹内先生が作られたのは、一般の読者が魯迅を語り、魯迅を通じて日本と中国を知っていく、そんな思いからではなかったか。21世紀を迎えた今、私達にはそのような場がない。一見グローバル化が進んだように見えて、日本人はますます内にこもっているのではないか、若者を見て感じることである。

 今回「竹内好を記録する会」HPに拙文が掲載されているのを見て、私はドンと大きな雷に打たれたように当時のことを思い出し、こんな雑な文章にしたためた。不勉強を戒めてくださった丸山先生に、顔向けできるほどの勉強をしていない。竹内先生にもこんな仕事をしましたと言えるようなことは、全くしていない。申し訳ない限りである。



ナビゲーション