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竹内好かく語られ記

好(ハオ)さんとのつきあい


 

好(ハオ)さんとのつきあい

丸山 真男  

のっけから議論に
 ぼくは「魯迅友の会」も魯迅についても不勉強で……。初期の頃の会合に、好さんに一度ひっぱり出されたきりなんですよ。好さんが亡くなられてからぼくもいろいろと追悼文を頼まれたんですが、ぼくがモタモタしているのと、あまり通り一遍の追悼は書きたくないと思ったこととで、お断わりしてきたんですがね……。こういう話をするのは「魯迅友の会」がはじめてです。といっても、べつにとっておきの話があるわけではないので、その点、御諒承下さい。

 ぼくがはじめて好さんと知り合いになったのは、たしか東大の東洋文化研究所で、飯塚浩二さんの紹介なんです。飯塚さんは戦争直後に「東洋文化講座」をはじめられたわけです。今でいう市民講座ですね。飯塚さんはその頃から好さんを非常に高く評価して、好さんに講座で話をしてほしいと頼んだんです。ぼくはその講座で「日本ファシズムの思想と運動」(『現代政治の思想と行動』所載)を話して、もう一つ「孫文の政治教育」というテーマで話す予定でした。孫文のものは戦争中に外務省から翻訳の全集が出ているのを持っていたのですが、その時ちょうど飯塚さんの部屋に好さんがいてね、自分が原書を持っているから貸してあげよう、と貸してくれたのが初対面でした。ぼくは現代中国語の会話はできませんが、高校時代から、読むことだけは一応勉強したんです。それで貸してもらった原書を読んで、講座で話しましたが、この方は結局活字にはならなかった。

 あの時、のっけから好さんと議論になっちゃってね。というのは、戦後急に、「支那」と呼んではいけない、「中国」と呼ぼう、とみんなが言いだしたんでね。ところがぼくの性分でね、一夜にして態度が変わるのが嫌いなんです。「支那」という漢字を使うのは別として、シナと呼ぶこと自体は蔑視ではない、英語でいまでもチャイナ、仏語でシーヌと言うように、日本語でシナと言ってなぜ悪い、と言ったら、好さんは、いや、そうじゃない、言葉には歴史的に附着した意味があるので、やっぱりシナはいけないと言うんですね。ぼくには好さんに対する予備知識は何もなかった。それで「中国文学研究会」のことも知らなかったんです。好さんたちが戦前から「中国文学研究会」と、わざわざ「中国」という表現を使っていたことを知っていたら、おそらくそんな議論にはならなかったろうけど……。「中国」と呼ぶことも好さんの意見に服したことの一つです。

 好さんの『魯迅』は、ぼくの召集中に出版されたので、戦後になって読みました。え? そう、好さんの『魯迅』も武田泰淳の『司馬遷』も、ぼくの『日本政治思想史研究』もたしかに戦中の作品です。テーマは離れていてもどこか似ているという人もいます。書いた当時の切迫感というか、自分個人の生死の問題と民族の運命とが深くかかわっているあの時代に対し、思いつめて書いているという点で、何か共通点があるかもしれませんね。生きて帰れるかどうかわからない、せめて形をととのえておこうと……。ぼくも最後の論文は召集の日の朝までかかって書きました。好さんの場合には、日中戦争だし、気持ちはもっと深刻で複雑だったんではないでしょうか。

 ぼくと好さんの個人的なつきあいは、やっぱり近くに住むことになったのが一番のきっかけです。そうじゃなかったら私生活までつき合うことはなかったろうと思います。ぼくが吉祥寺に来て、一年ほどあとに好さんも越して来て、それからにわかに行き来するようになったわけです。今日もその話が出るかと思ってちょっと日記を見ておいたんです。ぼくは日記をつけないことにしているんです。戦前に特高に押収されたもんで、そのときから日記をつけることをやめた。ところが結核で療養生活をするようになって、その間だけ日記をつけたわけです。一九五一年から数年間ですね。それで見たら好さんが吉祥寺に越してからは実によく行ったり来たりしていますね。つきあいは天下国家をダベることからダンスに至るまで。竹内邸でやったりぼくの家で、あるいは埴谷雄高邸で開いたダンス教室のことは、泰淳も埴谷さんも書いているから、くりかえしません。好さんは一杯やりながら眺めているだけで、自分ではやらなかった。

天性の教育者
 好さんは天性の教育者ですね。その点はぼくと大ちがいで、ぼくは勝手にやれというほうだけれど、好さんは自分の教育活動だけでなく、制度としての教育、つまり学校制度をどうするかというようなことについても、深い関心を持っていました。それも大学だけでなく、初等、中等教育に対して非常に熱心ですね。いろいろ書いたものも多い。教育者の面をぼくはほんとうに尊敬します。自分にはそういうところがないから……。しかも好さんのは説教して教育しようというんじゃないですね。ふつうの時はむしろ非常に聞き上手です。ぼくたち友人仲間ではあつまるとよく論争になって、酒が入っているからほとんど、ケンカのようになる。それを好さんはパイプをくわえながら、時々口をはさむだけでただニヤニヤ聞いている。非常に聞き上手です。

 そういえば武田泰淳、彼の人生指導というのはみんな好さんがやったようです。泰淳というと、すてばちの裸でぶつかっていくような小説を書いているけどね、もともと純真でウブな世間知らずだったらしい。バーどころか、女性の給仕する店に一人じゃ入れないような……。それで酒のこと女のこと、何から何まで俺が指導したと、好さん自身言っていた。だから、そういう意味でも泰淳は好さんに頭が上らず、ものすごく好さんをこわがっていたんです。毎年、少なくとも盆と暮には必ず好さんの家におまいりに行く。好さんの方からは決して行かない。昔のようなひんぱんな往来がなくなった頃、いつか珍しく泰淳がぼくのところへ寄った時、「たまには好さんのところだけじゃなく、ぼくんところへも寄れよ」と言ったら、「竹内のところは、あいさつしておかないと、おっかねえからなあ」って、笑いながら言っていた。あんなに無二の親友はないんですが、好さんは泰淳の作品を徹底して認めない。それはまったくひどいもんですよ。『風媒花』なんてのは風俗小説で、思想性も何もないって言うんですからね。親しいからこそ辛辣なんでしょうが、何しろ魯迅が基準になっているんだから、かなわないんだなあ。

 竹内詣では、しかし泰淳だけじゃなかった。関西から上京するごとに竹内詣でをする著名な学者や作家を、ぼくは何人も知っています。詣でついでに、近所のぼくのところに寄ったり、あるい、は、今、誰それが来ているからちょっと来ないか、とうちに呼出しがかかるので分るんです。そうして程度の差こそあれ、泰淳のようにこわがっていましたね。ちょっとこわもてのようなところがあった。ぼくがいつか好さんに、「あんたのやり方はね、にやっとしてそばに寄って来るのでいい気分になってると、一瞬の間に脇腹にドスが喰い入っている……あのやくざに近いね」と言ったら、まんざらでもない、という表情でハッハッハと笑っていました。

好さんの東大嫌いは有名だけれど、あれも教育熱心だからこそでしょうね。それにしてもほとんど生理的嫌悪に近かったから、いくら個人関係はべつだといっても、よくも飯塚さんの文化講座とあんな関係をもったり、東大の、それも悪名高き法学部にいたぼくとつき合ったものだと思うくらいです。

六十年安保
 一緒に活動した思い出ですか。まあ会としては「思想の科学」が早い方でしょうね。さっきの日記を見て思い出したのですが、一九五〇年代のはじめに、「思想の科学」の内部危機があった。例の「天皇制事件」のもう一つ前の問題です。あまり上等な対立でなく、ある人をめぐるスキャンダル、事実無根と思うのですが、そういううわさとからんで、思想上の対立にもなった。ぼくは事件の発生当初は療養所にいたので、初めの事情はよく知らないのですが、日記を見るとぼくが退所してからも好さんはその問題で実にしばしば相談に来ています。思想運動ということに好さんは使命観をもっていたから、「思想の科学」にも非常に熱心でしたね。言葉は適当でないかもしれないが、「思想の科学」が初期の少数知識人のサロンから「大衆路線」に転換したのは、好さんの影響が大きかったのではないでしょうか。

 そう、六十年安保の時は、好さんもぼくもめちゃくちゃにいそがしかったなあ。あの当時、都内の会合だけでなく、地元の井ノ頭公園でも「武蔵野市民の安保反対の会」を開いて、ぼくも好さんに引張り出されて、演壇に立ったりデモをしたこともありました。好さんが都立大学を抗議辞職した時、ぼくはさほどのショックはありませんでしたね。「大学はかなわん」とかねがね言っていましたし、一度なんか学部長にされそうになってひどく弱っていた。そういえば、あのとき、都立大学の内部で話し合う前に、いきなりマス・コミに辞職を発表したのはおかしい、という批判が都立大のなかにありましたね。ですけれどあれは抗議の意志表示ですから、戦術としては抜き打ち的に発表する以外なかったでしょうね。その前に大学に意志表示をしたら、慰留されて動きがとれなくなってしまいます。大学というところは、授業だけでなく若い研究者を育てて行く責任とか、色々同僚に対する義務や責任のあるところで、ハタで見るほど独自に去就を決せられるものではないんです。同じ専門の大学院生を路頭に迷わせてしまうことになりかねない。好さんは決してただ自分だけカッコよく辞めて、あとは知らないというようなタイプの人ではありません。今言ったようなことを全部考えたうえで、なおかつああいう決断をとったんだと思います。それなりに好さんとしても後始末に苦しんだでしょうね。

丸山の奴けしからん
 ぼくと一緒の研究会としては、ほかに「憲法問題研究会」がありますね。発足は六十年安保より前です。あの時は、好さんは一歩さがって平会員として参加していた。むしろ「憲法問題研究会」の方で好さんを是非会員にっていうんで、片想い的に専門ちがいの好さんをひっぱりこんだわけです。けれども義理がたいから出席率は非常によかったと記憶しています。会員が順番に報告するんだが、好さんがいつかベトナム戦争のゲリラのことを報告したことがあります。日本帝国主義の時代の中国のゲリラ戦のやり方をあげて、生産力や生活水準、武器装備などの落差がかえってゲリラ側に有利になるという逆説を、具体的実例で非常にみごとに説明しました。まあ、「憲法問題研究会」では一会員として、会員の義務はつくすが、組織者ではありませんでした。好さんが組織者として非常に熱心だったのが「近代日本思想史講座」。これは筑摩書房から出版されました。

 好さんとぼくとのつながりの一つはこの講座です。あの企画の枠組を作ったのがぼくで、好さんには編集責任者になってもらって、たびたび相談に行きました。好さんは巻頭に講座の趣旨を書いていますね。あれにはぼくの意見も入っていますが、全体としてちゃんと好さんの文章でまとまっている。ああいう講座をやっても、その義務感たるや、大変なものでした。あの企画は、社会科学者と文学者とを、思想史ということで一つのテーブルにつけさせて、各巻ごとに何べんも研究会を開いたわけです。ふつう社会科学畑と文学畑とはあまりつきあいがないので、あの講座を通じて知己になった人が少なくないんです。あの企画で『正統と異端』の巻だけ未刊でしょう。あれはぼくの責任なんです。

 だから、「丸山の奴けしからん」と好さんは非常に怒っていたんですよ。好さんは出版社に対しても義理がたい人です。臼井吉見さんも「丸山さんは筑摩を国営出版社とまちがえているんじゃないか」って言ったそうですが、ぼくはその点本当にメチャクチャなんです。好さんはぼくの前では「筑摩が悪い、筑摩の読者に対する責任だ」と言うんですけどね、ほんとうはぼくに対して怒っていた。その問題については百パーセント僕が悪いんです。

ウィークリー発刊への執念
 そういう熱意からもうかがわれると思うんですが、好さんの根本の考え方には思想運動がある。思想は運動じゃなきゃいけないし、運動は思想を持たなきゃいけないということ。必ずしもそれが成功したとは思いませんけど、好さんの考え方の根本ですね。それから運動というとすぐ政治運動が連想されるけれど、好さんのいう運動というのは直接政治運動ではない。ただ思想運動のプロセスでどうしても政治にかかわることがあるというだけです。もっとも奥さんに聞いた話ですが、好さんが浦和にいた当時は、極端に言って生命の危険があるほど浦和市政の問題に足をつっこんだ。占領下だし、右翼とか公安警察が目をつけるという状態でね。だいたいはインテリというのは自分の住んでいる地域とか地方自治体の市民活動に不熱心なんですが、その点、好さんはちかごろ強調される住民運動の非常に早い頃の先駆者ですよ。吉祥寺に移ってからも熱心でしたね。その点もぼくは落第でね。武蔵野市は、イヤな、言葉だけど「文化人」という人種が多いんでね、保守系の市長のころでも選挙の思わくだけでなく、一種の知的虚栄心があってね、そういう人々の意見を聞いたりしたんです。好さんは武蔵野市政の会によく出席した。ふつうの保守、革新のワクにははまらない人ということもあって、好さんには保守系の市長でも一目おいていたんじゃないかな。悪い表現を使えば武蔵野市の知的ボスというか、「顔」でした。

日本では運動というと政治運動だけで、思想というと逆に書斎のなかの思索という固定観念がありますね。好さんはそれを打破しようとした。「魯迅友の会」だけでなく、「中国の会」も「思想の科学」も「近代日本思想史講座」に対する熱意にも、それが一貫して流れている。とくにジャーナリズムに対する関心がそうです。

 好さんはウィークリーを出したいといつも言っていた。週刊誌ですが、日本の週刊誌を連想するのはまずいんで、『タイムズ・ウィークリー』とか『オブザーヴァー』のような「クォリティー・ぺーパー」です。日本にも明治時代には「硬派」といわれた新聞――社会面の事件記事や家庭欄のない文化新聞があったんですが、みんな大衆化しちゃった。好さんは権威のあるウィークリーを出したいという夢をずっと持ちつづけていた。好さんの言うことはきわめて具体的なんです。まず毎号十万部売れることをメドにする、そうしたら収支も合って持続する、というのです。そうして政治・経済・学問・芸術にわたって論説と、正確な日誌と、それから書評を中心とする。とくに書評には思いきって長いページを与える。日本は書評の権威が低いので、何としてでもこれを高めたい、だから各分野の第一級の人に書きたいだけ長い書評を書かせる――とまあこんな具合です。好さんは、戦前に例の『中国文学』を発行して来た経験があるから、ウィークリーの計画もこういう風にこまかく考えていた。むろん出来ればすばらしいけれど、やはり現代の日本の状況ではユートピアに近いんじゃないかな。けれど好さんは執念を燃やしつづけていた。

 運動としての思想といい、週刊紙への情熱といい、好さんは普通の意味の文学者のワクにはまらない、本当の啓蒙精神の持主だったので、だからこそジャーナリズムにあれほど関心と批判を持ちつづけたんでしょうね。啓蒙というコトバはすっかり手垢がついてしまったけれど、ここでいうのはむろん「原点」の啓蒙です。その意味で、クラシックといってもいい。だから好さんはよく「予測」ということを語った。これこれについて自分の予測が外れた、というようなことを非常に深刻に受けとめる。評論は廃業するなどとある時期以後いい出したのも、それと関係すると思うんです。現代のように複雑な世界、またテンポの早い時代に、誰だってそんなに将来の予測がポカポカ適中する筈はないので、ぼくなんか、どうして好さんがあんなにまで予測、予測といって気にするのかと思っていましたが、よく考えれば、「予測せんがために観察する」(オーギュスト・コント)というのが啓蒙の原精神で、そう見ればべつに不思議はない。じっくりと深くまた長い物さしで思索することと、ジャーナリスティックな関心とは大抵の場合、相容れないんだけれど、好さんはその二つが両立していた稀なケースじゃないですか。

ゆたかな他者感覚
 好さんという人について、ぼくの好きな点の一つは、自分の生き方を人に押しつけないところなんです。よく好さんのことを「厳しい」という人がいるでしょう。でもね、いわゆる「厳しい評論家」というのは、たいがい他人に厳しい割合には自分には甘いんです。で、自分の生き方を基準として他人を裁く驕傲なところがあります。が、好さんにはね、自分とちがった生き方を認める寛容さがあるんです。もちろん人の身の処し方については非常に厳しい意見をもっていますよ。でも、その人が単に世間体とか時流とかに従うのではなく、その人なりの立場から一つの決断をした場合には、自分ならばそう行動しないと思っても、その人の行き方を尊重するという、原理としての「寛容」をもっていました。それは残念ながら日本の知識人には非常に珍しいんです。他者をあくまで他者として、しかも他者の内側から理解する目です。これは日本のような、「みんな日本人」の社会では育ちにくい感覚です。日本人はね、人の顔がみなちがうように、考え方もちがうのが当り前だ、とは思わない。言ってみれば、満場一致の「異議なし社会」なんです。ですからその反面は異議に対する「ナンセンス」という全面拒否になる。

 もっとも日本にも「まあまあ寛容」はあります。集団の和を維持するために「まあまあ大勢に影響はないから言わせておけ」という寛容です。そういう「寛容」と「片隅異端」とは奇妙に平和共存する。だけれども、それは、世の中の人はみんなちがった存在なんだという、それぞれの個性のちがいを出発点とする寛容ではないんです。好さんの場合、おそらく持って生まれた資質と、それから中国という日本とまるでちがった媒体にきたえられたこととがあるんでしょうが、彼のゆたかな他者感覚は島国的日本人と対照的ですね。これは個人のつき合いだけでなく、実は彼の思想論にも現われています。が、それを論じ出すと大問題になるのでここではやめます。

どこにでも同じ人間が
 ぼくはもともと人見知りする性質ですし、はじめハーバードへ行くことになった時にも、英語の会話が全然駄目なので出かけるのがオックウになる、と言ったら、好さんは言下に「どこにでも同じ人間が住んでいると思えばいいんだよ」と言いました。「どこにでも同じ人間が住んでいる」という感覚ね。これが本当のコスモポリタニズムなんだ。「人類ってのは隣りの熊さん八っつぁんのことをいうのだ」と言ったのは内村鑑三ですけど、これもみごとなコスモポリタニズムです。熊さん八っつぁんは同村の人だけれども、それを同時に、またナチュラルに人類の一員として見る目です。「人類」なんていうと何か遠い「抽象的」観念と考える方がよほどおかしいんです。ふつう好さんのことをナショナリストと言うでしょう、ぼくはそれだけをいうと、ちょっと抵抗を感じるな。二十年以上のつきあいを通して、好さんにはコスモポリタニズムが感覚としてある、と肌で感じます。どこにも同じ人間がいる、というのは前に言った個性のかけがえのなさ、ということとちっとも矛盾しないんです。むしろ、集団の満場一致主義の考え方が、島国的な「うち」対「よそ」の区別に基いている。自分がいま立っているここがとりもなおさず世界なんだ、世界というのは日本の「そと」にあるものじゃないんだ、というのが本当の世界主義です。

 ところが世界とか、国際的とかいうイメージがいつも、どこか日本の「そと」にある。これがエセ普遍主義で、それに対して「うち」の集団という所属ナショナリズムがある。この悪循環を打破しなけりゃどうにもならない。だから、一身独立して一国独立す、というかぎりでは、好さんもぼくも全く同じ考えだと確信しています。ぼくとは仕事の領域がちがうし、考え方もちがうから、そこは一口にいえませんけれど、一番くいちがうように見えるナショナリズムの問題でさえ、二人は実は同じメダルを両側から攻めていたのだと思うんです。むしろ、あれだけ反ヨーロッパというか、アジア主義を高唱する好さんが、ヨーロッパの個人主義とリベラリズムの最良の要素をどうしてあのように、ただ頭で分っているというだけでなく、躰に着けていたのかぼくにはそれがなぞといえばなぞです。ラジカルな思想家に左右を問わず一番欠落している、あのリベラルな――「民主的」という意味でない――他者感覚を、です。

努力・努力・努力
 ふりかえってみて、晩年の好さんとはすれちがいになって交際のチャンスが少なかったのは残念です。ぼくは大学紛争のとき肝臓悪くして何度も入院しちゃった。その療養生活のあとは、外国へ行って、日本は留守がちだったでしょう。だから好さんがバーの階段で転落して大ケガしたのもあとで知ったんです。お互に齢をとって無精になり、専門がちがうとやっぱり会うチャンスは少なくなるんでね。
ぼくが日本へ帰って来たのは一昨年の九月、そしたらまもなく泰淳さんが亡くなった。好さんは泰淳の葬儀委員長を絶対にひきうけないと言いましたね。すでに病気していたから……。それを埴谷さんが「君じゃなくちゃしょうがない」と強引に引きうけさせたわけだ。ところが好さん、意外にハリのある声で音吐朗朗と最後に挨拶しましたね。結果から見ると、あの時にはもう取りかえしのつかない病気が進行していたわけだ。

 最後に森本病院に入院してから、本当は行っちゃいけないんですけれど何度か面会しました。埴谷さんの意見もあって、できるだけぼくの方が勝手にしゃべりまくって、好さんにはなるべく話させないようにしていたんだが、ひどい重態なのにときどき口をはさむんです。「座談会という形式をはじめたのは菊池寛だ」とか「文学評論を月評という形で連載しはじめたのは、どこどこの社だ」とか、病気に関係なく、まったく平生のときの話題を持ち出す。もう衰弱していて発音もよく分らないのに……。痛ましい気持ちをおさえて、つとめて快活に応じたけれど辛かったな。ぼくでさえそうだから、毎日通った埴谷さんはどんなだったろう。

 好さんは最後まで強気だったので、つきっきりで看護した照子夫人は、それだけに本当に大変だったでしょうね。奥さんに様子をきいただけで帰ることもありましたが、亡くなる二週間くらい前でしたか、奥さんがぼくを呼びとめて、こんなものを書きましたよ、とぼくに紙きれをわたした。丸山君へ、という書き出しですが仰向けに寝ながら鉛筆で書いたのと、既に意識もモウロウとしているのとで、口惜しいけれどよく読めない。分るのは「努力」という字、それが努力……努力……努力……と数行のなかに何回も出て来る。やっぱり好さんだなあ。生きるため渾身の力をふりしぼっている、最後の瞬間まで……。日付けが書いてあるんだけど、英語で八月何日とか、それはだいぶ実際の日とは、くいちがっていました。あれが絶筆なんですね。好さんがぼくにのこした最後の言葉が「努力」だとすると、何としてでもぼくも頑張らなくちゃ……。(本稿は丸山真男氏の談話を編集部でまとめたものです)

『追悼 竹内好』竹内好追悼号編集委員会編集 一九七八年十月十九日 魯迅友の会発行 所収

ワープロへの変換責任者(変換=斉藤善行、対校=石坂正男)からの注記 表題のうち(ハオ)は、原文ではハオがルビになっています。

この文章の掲載にあたっては、丸山ゆか里さんのご了解をいただきました。

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