「竹内好と臼田町」覚え書
井出 孫六
一
中学二年のとき敗戦を迎えたぼくは、やがていくばくもなく、当時おおいに蔓延していた結核菌にとりつかれ、人並みに「肺浸潤」という診断をくだされて、郷里の町の東を流れる千曲川の川べりに建っていた組合病院の、兵舎のような木造の結核病棟で、療養生活を送る身となったことがある。
そのころ、この病院には、なぜか東京から共産党のえらい人びとがやってきて、静養かたがた入院していることがあり、ぼくが入ったときには、病棟のはずれの一室には、「日本共産党中央統制委員長」が入院していた。中央統制委員長はそのいかめしい肩書からは想像もできないような痩せて小柄なヒゲのおじさんで、誰彼かまわず気さくに声をかけてくる人だった。「統制委員長」といいながら、院内患者規則をさっぱり遵守しようとせず、しょっ中、タイヤ草履をひきずって、病棟から管理棟までひょこひょこ歩き回り、看護婦や技手をつかまえては議論したり、パジャマ姿のまま千曲川の川べりにすたこら散歩に出かけていったりというわけで、院長回診のときベッドがもぬけの殻ということも珍しくないのだった。
後年、ぼくは国会図書館の憲政資料室で、このおじさんとばったり再会するのだが、朝鮮史研究にユニークな足跡をとどめ、竹内好さんに遅れること一カ月後にこの世を去った歴史家の山辺健太郎さんだった。
この天真らんまんの中央統制委員長の啓蒙もあずかって、中学生のぼくは、ベッドの上で当時雨後の筍のように簇出した雑誌を耽読する味を知った。『りべらる』や『猟奇』などという刺戟的な雑誌は、患者規則にてい触したが、『世界』『中央公論』『改造』からはじまって、『世界評論』『人間』『思索』『朝日評論』『展望』『潮流』など、懐かしい名が思い浮かんでくる。
気鋭の評論家「竹内好」という名を知ったのも、たしかこれらの雑誌の目次からだったように思う。魯迅に関する論稿は、とてもとても中学生の稚い読解力のはるか彼方にあったが、難解さはむしろ、思想かぶれの文学少年には大きな魅惑でさえあった。
中央統制委員長のおじさんは、小学校も満足に出ていないのだというのに、じつに博覧強記であった。ある日おじさんから、気鋭の評論家竹内好という人が、この町の出身だということを教えられた。
ややオーバーな言い方をすれば、それは、「晴天の霹靂」とでもいうようなおどろきをぼくに与えた。こんな退嬰的な、なんのとりえもない田舎町から、あんな颯爽とした批評家が生まれるはずはない、とぼくは咄嗟に思ったのである。やや確信に近いニュアンスで、ぼくは中央統制委員長の発言に異を立てたわけであった。第一、周囲の大人たちの誰ひとり、「竹内好」などという人物を知っているものはいないではないか。
「ごらん」と、中央統制委員長は、ややかん高い声で、病棟の窓から見える町の屋並みを指さした。町のいちばん上手に「稲荷山」という小高い丘がある。ちっぽけな丘だが、千曲川の激流の浸蝕に耐えてのこった古生層の岩山で、戦国時代甲斐の武田と越後の上杉が覇を争って佐久盆地に死闘をくり返していたとき、この丘は佐久平を制圧するためになくてならない戦略的拠点だったといわれている。古い山城のあとをとどめたこの丘は、鼻たれ小僧のぼくらにもなくてかなわぬ陣取り遊びの場であったのだが、その丘のふもとに、一本のエントツが立っている。この町に二つある銭湯の、そのひとつなのだが、エントツには黒く「竹乃湯」と記されているのを、中央統制委員長は指さしているのだ。
たしかに、「竹乃湯」は竹内姓で、そこのひとり息子のアキオ君は、小学校でぼくと机を並べていた。その「竹乃湯」と二、三軒へだてて三階建の商家風の古い家がある。近辺に三階建は稀だったから、やけに目立った。中央統制委員長の研究によれば、気鋭の評論家竹内好は、どうやらその三階家で生まれたらしいというのだ。
三階家から数軒下ったところにある豪家は町長さんの家で、これまた竹内繁という老町長だった。ぼくらの小学校の卒業式に老町長は国民服もいかめしく訓示をされたが、やや政治性に欠けた、しかし一徹な老人であった。町長邸の近辺に竹内姓はおおいに繁栄している。町随一の化粧品店、洋品店等々があって、「竹屋」「笹屋」などの屋号を持っていることなど、実証的に示唆されてみると、中央統制委員長の「竹内好臼田町生誕説」は、にわかにリアリティをおびて、ぼくを有頂天にさせた。およそ文化の香りとは縁遠く、明治二十六年に町制が布かれて以来、発展もなくさりとて衰退もせず、安穏に存在しつづけているこの町にとって、それはひとつのエポックを画する事柄ではあるまいかと、ぼくはひそかに満足した。
とはいえ、あの魯迅論に示された難解さ、暗鬱さ、厳格さ、そしてその高い格調をもった文体は、どうみてもこの町の安穏な風土とは、ひと味もふた味もちがうのではあるまいかというぼくの疑念が消えたわけでなく、その後、折につけて疑念は頭をもたげた。
二
竹内好さんは、自らの来し方を好んで語るような人ではなかった。とりわけ自らの生い立ちや自らの家族血縁のことに触れたものは、ほとんどのこしてはいない。
『竹内好著作ノート』(図書新聞社刊)の「竹内好氏の略歴」をみれば、わずかに、――明治四三年(一九一〇)一〇月二日、長野県南佐久郡臼田町に生まれ、東京で育った。麹町区立富士見小学校、東京府立第一中学校、大阪高等学校をへて、昭和六年四月、東大文学部支那文学科に入学―― と記されているばかりだ。この冒頭に登場する「長野県南佐久郡臼田町」というのは、まぎれもなくぼくの生まれた町であり、やはり山辺健太郎説がまちがっていなかったことは、これで明らかなのだ。右の年譜に即していえば、竹内さんが東大支那文学科に入学した昭和六年(一九三一)、ぼくは、その町で生まれた。すなわち、竹内好さんは、まぎれもなく、ぼくらの町が生んだ大先輩ということになるのである。
とはいえ、中学生のぼくが抱いた疑念が、まんざら見当はずれであったわけでもない。竹内さんの年譜には、ただ一行「臼田町に生まれた」とだけあって、それ以上の説明はひとこともない。そして、竹内さんの著作のいずこにも、郷里臼田町を語ったところがない。その空白と沈黙は、いったい何を意味するのか。竹内好論の死角というべきではないか。
郷里臼田町に健在の従弟竹内隣治郎氏は竹内好さんのルーツについて、つぎのような記録を送って下さった。右の空白を塡めるためにここに引用させていただく。
○竹内好は明治四三年一〇月二日臼田に生まれる。
○元町長竹内繁家の分家で、好の祖父が分家として臼田町いなり町に住んだ。
○父武一は岩村田税務署員として佐久に住んでいたが、竹内家(祖父の二女起よ)の養子となって祖父の家を継いだ。明治四五年頃岩村田に移り住み、のち新潟県長岡税務署に転任、退職して東京に住むようになった。
○移籍したのは大正一五年三月一九日で、それまでは本籍は臼田にあった。
○小学校、中学校は東京で卒業。小さい時から父母につれられ、時々故郷に帰ってきた。先祖の墓があるので、帰郷すれば必ず墓参りはした。
○母は大正一三年死亡したが、母のことを思うときは、いつも何か深い思いが心にあったのか、顔色にあらわれ、母を偲ぶ心がありありとわかった。私には、しずかに深く考え慎重な性格は、母に似ているように思われた。
○終戦後は二年か三年に一度は臼田に来た。ある時期(安保の後都立大教授をやめたあと)には、佐久か小県辺に引っこんで文筆生活に打ち込みたい時期があったように思われる。
○終戦後帰郷すれば、必ず稲荷山に登り、干曲川の堤防を歩くことをたのしんでいたように思われる。酒がつよくて、私の家や竹内次郎氏(本家)の家で昼間から夜おそくまで飲んでいた。
従弟竹内隣治郎氏メモによれば、竹内好さんは生後二年ほど臼田町にいただけで、父武一氏の転勤で岩村田から新潟県長岡に行き、父武一氏の退職で上京したものと迹づけることができる。されば町では、「ああ、あの鼻たれ小僧のヨシミが……」というわけにはまいらず、町には近親を除いては竹内さんを知る年配者は少なく、竹内さんの創りあげた世界が、わが町の風土とはひと味もふた味もちがったものであることは、しごく当然のことといってよいかもしれない。
だが、竹内隣治郎氏メモに描かれた好像にもうかがえるように、それだけでは片づけられぬなにものかが、ぼくらの町と竹内好さんのあいだにはあったのではないかと、ぼくは見る。
三
『臼田町勢要覧一九七四』によれば、臼田村に「町制」が布かれたのは明治二十六年とある。日清戦争の直前、それは、この国の養蚕、製糸が飛躍的発展をとげた時期に重なる。南佐久地方もその例外ではなく、町制の布かれた臼田は繭の集散地として活況を呈していたにちがいない。郡役所が置かれ、警察署が設けられたが、税務署はなく、隣の北佐久郡岩村田税務署が南佐久郡をも管轄した。竹内さんの父武一氏は、岩村田税務署からこの繭の集散地に出向してきたものにちがいない。じっさい、繭の出荷の時期には、町に札びらが流れこみ、活況を呈した。
竹内好さんの生まれた三階建の家は、その頃「富屋」の屋号で料亭と下宿を兼ねた。ある時期には酒類の販売も手がけたという。口伝によれば、税務署から出向した武一氏は、富屋に寄宿する間に見こまれて富屋に養子に迎えられたというが、富屋のひとり娘と熱烈な恋に結ばれたという説もある。ともあれ、ここに、ひとりの利発な男児が生まれ、「好《よしみ》」と命名されたのであった。
今審らかにする余裕はないが、明治二十六年の段階で、長野県に町制の布かれた土地は、そう数多かったとは思われない。せいぜい十指にのぼる程度だったはずの「町」は、その後次々に「市」に昇格していった。平野村などという寒村が一夜にして岡谷市になってしまった例もある。製糸業の勃興のゆえだ。
それにひきかえ、ぼくらの町、臼田は明治二十六年に「町」になってから八十五年の今日もなお依然として「町」でありつづけている。変転きわまりない市町村制史のなかで、八十五年の長寿を保ちつづけている「町」は、そう多いとは思われない。裏返していえば、八十五年、進歩発展のない町ともいえる。いや、しかし、駈け足の近代化、急成長、高度成長の息詰まるこの国の近代史のなかで、それはやはり注目すべき貴重な存在と申さねばなるまい。
ひとつの語り草がある。明治の末、ちょうど竹内さんが三階建の富屋で生まれたころにちがいないが、南佐久にも鉄道が引かれることになった。このとき、町はあげて、鉄道のような騒々しいものが通ることに反対し、小海線は結局、千曲川の東岸田口村を走ることになった。進取の気性に富む産業家の町ならば、あげて鉄道の誘致を運動したにちがいないのだが、おっとりした商家の旦那方は、町の膨脹発展の契機をむざむざ逃したことになる。
だが、町の構造を考えれば、それもまた理由のないことではなかった。千曲川西岸の狭い土地に甲州往還が南北に走る。この旧街道に沿ってこじんまりと形づくられた町に、鉄道が入り駅舎ができたら、町並みはずたずたにきりきざまれてしまうだろう。「旧」を保っ道を町は選ぶことによって、発展から置き去られる運命を選択した。
竹内さんの父君武一氏は、早くに官職を去って実業にたずさわった方だという。上京して池袋の三業地開発にとりくんだり、川崎に高いビルを建てたり、鉱山などにも手をそめたと語り伝えられているほどだ。進取の気性に富んだ人物が、どうして、鉄道布設にあげて反対するような退嬰的な町に、養子の身で安住していることができようか。転勤を機に、竹内武一氏が町から永遠に去っていった心情もまた理解できなくはない。
町は、甲州往還に沿って南北に長く、稲荷町、上町、中町、荒町(旧街道時代は、上宿、中宿、下宿と呼ばれていたのかもしれない)の四つの主要区域がメイン・ストリートを占拠し、街道からはずれた部分に、住吉、諏訪、勝間、小田切などの集落があって、後背にかなり肥沃な水田、桑田を控えていた。半商・半農、人口は七千から八千という規模が永くつづき、それ以上にはみ出す部分は、町に住むことは難しかった。土地のキャパシティは八千以上を許さなかったわけだ。されば、ぼくがそこに育った昭和初年には、すでに次男、三男……は、生まれおちたその瞬間から、この町に住むべき人間でないことを自覚して育たねばならなかった。
じっさい、町は数百年の歴史のなかで、そのキャパシティの限界まで膨脹してしまった感がある。ちょっとした門構えの家を中心にして同族が次々に分家をつくった。それゆえに、町はまた、幾つかの血縁の集合体から形成されたのだともいえる。小学校時代の友人たちの顔を思い浮かべながら、そのリストにある姓をそれぞれの集落にプロットしていけば、そこに町の生理を示す一枚の地図ができ上がってくる。たとえば、稲荷町には川村姓が、上町には竹内姓が、中町には井出姓が、荒町には山下姓とか桜井姓がそれぞれ大いに繁殖しているという具合で、町は徳川時代の小村の形成をそのまま原基として、今に至っていることがわかる。町に稀なる姓は、すなわち、のちに他から町へ入ってきた外来者である場合が多いというのが、ぼくが育ったころの、町の生理であった。
右にあげた竹内とか井出とか山下とかといういわゆる血縁集合体のなかには、「くるわ」という独特のことばが生きており、冠婚葬祭などには、この「くるわ」の機能が遺憾なく発揮されることになるのであった。
むろん、狭い町のことだから、婚姻では「くるわ」の垣はこえられる。こんど調べてみて初めて知ったのだが、ぼくの祖父の妹が、竹内さんのご本家に嫁いでいることがわかった。竹内好さんとぼくは、二代遡って姻戚関係にあったのである。いや、そればかりではない。両家にのこる系図で、互いの「くるわ」のルーツをたどっていくと、いずれも、京都の橘の某なる〝貴族〟に淵源するという、はなはだ有難迷惑な結論に到達することをも知らされたのだが、むろん、竹内さんはそんなことをご存知なしに、いまや幽冥境を異にしてしまわれたのである。
四
ぼくの郷里には、八月一日に一家挙げて先祖の墓に詣でる風習がある。旧盆を二週後に控えて、なぜ八月一日に墓参が行なわれるのか、誰もその因縁を説明してくれる人はいないが、ぼくの推測では、江戸中期、寛保の大洪水で千曲川が荒れ、多くの死者を出した八月一日が、その後二百年の間記念されているのではないかとにらんでいる。
永年の習慣で、ぼくはこの日の墓参にあわせて年に一度帰省することにしているのだが、あるとき、小諸駅におりてバスに乗ると、そこに竹内夫人がおられた。ご主人の代行で墓参に来られたのである。
竹内さんは、その郷里について書くことも語ることもほとんどなかったけれども、その内側には郷土意識を強く秘めていたのではないかと思われるフシがある。
公の席で全く郷土を語らなかった竹内さんが、家庭では濃厚に〝信州人〟でありつづけたらしいからである。夫人の回想によれば、〝男は信州人にかぎる〟というのが、竹内さんの口癖だったとうかがって、一面意外の感にうたれるとともに、また一面さもありなんと肯けるような気もするのである。信州人は、ぼくの知るかぎり、東京に出てきていても、死ぬまで信州の風土をひきずって生きるタイプが多い。公の場所ではその風土性を抑制するから、よけい家庭でそれが発散するわけでもあろう。生後二年にして故郷を去った竹内さんの場合も、その例外ではなかった。してみれば、信州人のもつ風土性は、後天的なものとは言いがたく、それは父祖から引きつがれてくるものと言うべく、竹内さんの場合にも、安曇に生まれた父親と佐久に生まれた母親から、純粋な信州人気質をうけついだというべきだ。外地生まれの竹内夫人からみれば、それはたぶん、へきえき[#「へきえき」に傍点]させられる体《てい》の体臭であったろうと、想像がつく。
竹内さんの晩年の名著『転形期―戦後日記抄』を送っていただいて、ぼくは一夜にして通読したが、そこにたしか、郷里・臼田に帰省する場面があったはずだ。郷里に向かうその日の朝「散髪する」とあった。竹内さんのあの光り輝く頭でも、郷里に向かうときには散髪をしたのかと、ぼくは感心させられたことがある。
ページを読みすすみながら、突然ぼくはおどろいた。そこにぼくの父の死が記されていたからである。竹内さんが、ぼくの家に立ち寄られたのは、たしか佐久教育会に招かれて「国民文学論」を講演されたときと聞いているから、それは昭和二十年代のおわりのころではなかったろうか。ぼくはすでに上京してしまっていたから、詳しいことは知らないが、この遠来の客を、父はおおいに歓待したものであったらしい。
ぼくの父が竹内さんにお目にかかったのはこのとき一度だけのことだと思うのだが、父の葬儀に寄せられた竹内さんの弔電は、かなり長文のものだった。読みあげられたその弔電のなかに、「キョウドノ ダイセンパイ」ということばがもりこまれていたのを、ぼくはいまでも強く記憶している。それは、なぜか竹内さんの内に秘められた郷里意識の吐露とも感ぜられたからである。
一九七七年三月十日、東京信濃町の千日谷会堂で営まれた竹内さんの葬送の列に加わったぼくは、霊前に一本の菊花にそえて、「キョウドノ ダイセンパイ」ということばを、そっとお返ししたのであった。
『思想の科学』1978年5月臨時増刊号 思想の科学社
この文章の掲載にあたっては、井出孫六さんのご了解をいただきました。
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