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竹内好かく語られ記

火曜会の記録―安田武の日記から


 

火曜会の記録―安田武の日記から

安田つたゑ

これは「火曜会」など、竹内好先生とお酒にまつわる思い出の夜々を、安田武の日記から書き抜いたものです。きわめて私的なメモであるため、さまざまな不備、不確かな部分もあろうかと思われます。また、おおむね敬称を略させていただきました。ご不快と思われる点も多々あるかと思いますが、亡くなられた方々に免じてお許しくださいますよう、お詫びかたがたお願いもうしあげます。
2009年11月15日


〔編集者注記 
 「竹内好を記録する会インタビュー 火曜会」から一年数ヶ月過ぎてしまいましたが、安田つたゑさんにインタビューでお約束いただいた『日記抄』を、ここに公開いたします。日付をご覧のとおり、入稿から一年経っております。その間は、「竹内好への手紙・生誕百年の集い」に注力しており、遅滞しておりましたことを安田つたゑさんにおわびいたします。

 この記録を読んで、まず驚くことは「火曜会」が、1969年2月から1976年1月までの6年間で、通算五十回を越えていることです。そのうち竹内さんが欠席したと確認できるのは、七、十、二十一、二十五回目の四回のみです。他にも数回の番外編があり、そちらへもほとんど出席しています。「火曜会」が事実上竹内好の会であり、その切り回しを、竹内さんと同様の出席率である安田武、筑摩書房の岡山猛と中島岑夫の三氏がされていたことがよくわかります。

 竹内好を記録する会として、竹内さんの生涯を浮き彫りにできる資料を精力的に収集しているところですが、この『日記抄』が、晩年の時期での貴重な資料のひとつとなるものと考えます。

1.この日記は、故安田武夫人のつたゑさんが、安田の日記から抜粋した初稿です。「(略)」とあるところは、原文からではなく、抜粋した初稿から削除された部分を表示したもの、「( )」は安田夫人の補足、「【 】」は安田夫人による説明、「〔 〕」は編集者の注記です。

2.編集者の独断で、適宜本文に句読点を追加しました。なお、見出しに記載した火曜会の回数は、便宜上名付けたものです。通算回数を確認できる資料はありません。

3.この日記抄の「【 】」記載でも、安田つたゑさんが触れているとおり、金子勝昭さんから「資料・火曜会を中心に」の提供を受けています。金子さんの「資料・火曜会を中心に」との照合で、第40回以降の開催日確認の傍証となりました。

4.この「日記抄」には記載がなく、金子さんの「資料・火曜会を中心に」に記載のあるものを、つたゑさんが「【 】」〕により補足していますが、以下の2件が抜けています。
(1) 1974年3月20日(水) 女性を招待 鳥安 武田百合子、中村智子、中村輝子、山田?
(2) 1974年12月22日~23日 スキー 万座温泉 日進館
 このうち(2)は編集者が追記し、火曜会としてカウントの対象としました。

5.前項の(1)については、2010年12月5日開催予定の「竹内好を記録する会インタビュー 中村輝子さん」において詳細を知ることができると考えております。

2010年11月14日 斉藤善行記〕


昭和43年(1968年) 12月6日
わだつみ会「不戦の誓い」千代田公会堂であり、会場で田村義也、根本正久と会い、神保町で十時半ごろまで飲み、風紋へ、そこで高畠通敏、中島〔岑夫〕に会う。中島氏にサロンを作ろうというと彼大賛成。

昭和44年(1969年) 1月4日
夕方竹内家訪問、御年始。冗談をいいながらウイスキーをがぶがぶ呑む。サロンの件、竹内さん賛成だという。二月にスキーへ行く約束もする。

1月8日
『展望』の中島君来訪。四月号で「教育とは何か」という特集をやるので、教研(集会〉へ行くなら是非何か書いてくれという。(略)サロンについても相談。とりあえず第一回を十七日と決める。最初に誘うメンバーは竹内さんほか岡山猛、田村義也、高畠通敏、新井直之、小田実。これで集まって今後のこと相談しようということになる。

1月16日
(略)風紋へ行く。竹内さん風邪の由。出席は岡山、中島、新井、田村、安田の五人。毎月第一火曜と第三火曜に行うという日取りだけ決め、人選は竹内さんが来てからゆっくりやろうということになる。

1月18日
東大へ機動隊入る。

1月21日
【政府、東大入試停止決定。】

2月5日 第一回火曜会 風紋〔編集者注 5日は水曜日。第一火曜日だとすれば4日〕
風紋第一回火曜会。竹内、岡山、中島、安田。

2月18日 第二回火曜会 風紋
【安田体調悪く、この日の火曜会欠席。】

3月5日 第三回火曜会 風紋〔編集者注 5日は水曜日。第一火曜日だとすれば4日〕
竹内、田村義也(岩波書店)、岡山、中島、高瀬善夫(毎日新聞)、安田。
『世界』の大内論文のこと、東大紛争のこと、反大学の竹内構想などユカイな談論。竹内さんがもう一軒行こうというので……二時まで飲む。翌日、岡山さんから呼び出しをうけ、筑摩で竹内さんを中心に、小田実、色川大吉、高畠通敏、野坂昭如、安田武などで研究会をもつ相談まとまる。

3月18日 第四回火曜会 風紋
共同の原、新井、岡山、竹内、安田。
九時ごろ散会。次回から会場を英にすることをきめる。竹内さん岡山氏と三人で茉莉花(マツリカ)へ。野間(宏)さんが未来にいて合流。十二時過ぎまで呑み、竹内さんとハイヤーを呼んで帰る。サロンだけでなく旨いものを食う会をやろうと。野間さん曰く「くうかい――ああ、弘法大師の会ですか」

4月1日 第五回火曜会 英
竹内、安岡章太郎、田村、岡山、中島、高瀬、安田。
(略)竹内さんと中島君去って風紋へ移る。ここで〔省略部からの類推で、安岡に〕山下肇、小田切秀雄がまたこっぴどくやられ、わだつみ会など解散してしまえと。岡山氏とマツリカへ行く。井上光晴と筑摩の加藤君が来て、井上は私の文章がキレイごとすぎてムダな遊びがなさすぎるという。今日はよくよく攻撃される日だ。

4月15日 第六回火曜会 英
竹内、新井、岡山、田村、中島、安田。
月二回はシンドイという中島提案は否決されて、逆に毎火曜日は安田は英にきておれという。そんなムチャな。二次会は風紋。竹内さんと午前一時過ぎ帰る。

5月6日 第七回火曜会 英
英へは岡山氏と新井君しか来ない。竹内さんは宿酔で寝ている由。流会に等しい。風紋へ行き、じゅんへ行き、十二時近く岡山氏と二人、茉莉花へ行く。岡山氏泥酔して午前三時大和を呼んで帰る。

5月20日 第八回火曜会 英
筑摩の仕事で駿台荘にかんづめ。
中島さんから出席者が少なそうなのでちょっと出て来ませんかと。
竹内、高瀬、中島、安田。
来月から第一火曜日は従来どおり、第三火曜はマツリカでオープンサロンということにきまる。

5月21日
【立命館大学の共闘派学生が「わだつみ像」破壊。】

6月3日 第九回火曜会 英
竹内、岡山、中島、安田。大学紛争は勿論、部落問題も在日朝鮮人問題も含めて、所詮現在のイザコザは代々木系と反代々木系の対立だ。(略)

7月3日 第十回火曜会 英〔編集者注 3日は木曜日〕
中島、新井、安田。

7月15日 第十一回火曜会(第一回オープンサロン)茉莉花
竹内、安岡、高瀬、岡山、中島、柏原成光、井上光晴、田村、安田。
竹内さんが「外遊」で買ってきたコペンハーゲンの裸体誌で幕開け、九時までにサントリー三本をあけ、井上だけ帰ってあと全員で英へ行く。竹内さん外遊記念で英さんカッカ。大笑い。安岡と田村帰り、残りで風紋へ行く。竹内さん意気軒高。

8月5日 第十二回火曜会 英
竹内、岡山、新井、安田。
岡山氏は前夜田村と明け方まで呑んだといってヘタばっており、先に帰る。竹内、新井と新風紋で十二時近くまでだべり、竹内さんと一緒の車で帰宅。

8月19日 第十三回火曜会(第二回オープンサロン)茉莉花
竹内、岡山、井上、柏原、田村、高瀬、原田、佐藤忠男、安田。
九時過ぎ解散して更に風紋へ行く。旧風紋へ顔を出して、久しぶりにせっちゃんに会う。二時近く竹内、岡山、三人で車で帰る。

9月2日 第十四回火曜会 英
竹内、中島、新井、野田、安田。
猛烈な夕立のため、ちょっと遅れて七時近く英へ行く。旧風紋へ寄り竹内さんと車で帰る。

9月16日 第十五回火曜会(第三回オープンサロン)茉莉花
竹内、岡山、中島等から予め不参の連絡があったので、流会になるかと思っていたが、新しく勧誘した図書(新聞)の唐木、大輪、二人が来、めずらしく橋川も現れ、それに吉村昭と五人。モノ凄い豪雨で新宿駅に落雷があって停電になったというが、地下でわれわれは何も知らず。十時近く解散したころにはやんでいた。新旧風紋へ顔を出して帰る。

10月7日 第十六回火曜会 英
【安田体調不良のため欠席。】
(略)筑摩書房へ行く。評論集の出来栄え大変よろしい大満足だ。【評論集『人間の再建戦中派・その罪責と矜持』のこと】(略)
岡山、中島氏にあい今夜の英の会欠席する旨断る。

10月22日 第十七回火曜会(第四回オープンサロン)茉莉花〔編集者注 22日は水曜日〕
欠席。
12チャンネルへ行く。途中銀座で降りて有楽町界隈を見てあるく。朝日新聞社その他のモノモノしい警戒ぶり。まったく新聞報道のとおり「さながら戒厳令」だ。警察国家ということを思い、頻りに暗い気持になる。12チャンネルでは中曽根に野坂が食いつきかなりの激論になる。私は大学管理法成立と少数意見の尊重と吉田国葬で食い下がる。野坂がラディカルにいってくれたので、私の発言に中曽根は全面対立できず……。

11月5日 第十八回火曜会 英〔編集者注 5日は水曜日〕
岡山氏だけしか来ない。九時になったので解散しようとしているところへ田村から電話。まちがって茉莉花へ来てしまったといい、九時半ごろ竹内さんが来る筈という。やがて竹内さん、田村現れ、老いと死の話など。岡山氏酔ってスミへ行こうといい、竹内さんも田村もいくというので……結局二時半になってしまい、竹内さんと車で帰る。人の集まりわるくサロンはやはり成立しない。解散にしようかという竹内さんの意見。私もそう思う。但し今月の第三は、茉莉花で『人間の再建』出版のお祝いをしようという岡山氏の提案。これは実現したい。また岡山氏は十二月初旬京都でも多田道太郎等を中心にお祝いをやろうと言う。友情に感謝。

11月17日
【安田、杉並組合病院へ入院。】

11月18日 番外、安田武『人間の再建』出版記念会 茉莉花
佐藤忠男、新井直之、唐木邦雄、日高六郎、鈴木均、高瀬、松下圭一、巌浩、大輪盛昇、色川大吉、吉村昭、田村。筑摩からは岡山、中島、柏原。遅くなって出版会の清水氏も現れ、われわれを入れて実に二〇名の大盛会となる。竹内好氏と藤田省三氏からは、予め都合あって出席できぬ旨連絡あった。十一時、一度解散してから田村、鈴木、中島、岡山、柏原、大輪らと旧風紋へ行き一時ごろまで呑む。

11月25日
【安田、杉並組合病院退院。】

12月2日 第十九回火曜会 英
竹内、橋川、中島、安田。二次会は旧風紋例によって竹内さんと車で帰る。話がはずんで格別楽しい会だった。

12月16日 第二十回火曜会(第五回オープンサロン)茉莉花
忘年会。竹内、岡山、原田、橋川、丸山邦男、新井、平井啓之、田村、高瀬、安田。ようやくこの会も定着しかけてきたようだ。九時過ぎ散会。岡山、原田、丸山らと旧風紋へ行く。

昭和45年(1970年)1月6日 第二十一回火曜会 英
本年第一回の会。新年宴会だ。
安岡、岡山、田村、中島、高瀬、安田。
毎度ながら安岡の博学にはおどろく。八時半散会して茉莉花へ行く。ママの出版記念会の発起人をやらねばならぬようだ。

1月27日 第二十二回火曜会(第六回オープンサロン)茉莉花
竹内、岡山、新井、松下圭一、安田。偶然、上野英信あらわれる。十時過ぎ岡山、松下とスミに移る。車で帰宅一時過ぎ。
茉利さんの記念会は三月三日と決定。発起人は結局人数が増えて、竹内好、埴谷雄高、椎名麟三、野間宏、安岡章太郎、橋川文三、水上勉、宮本研、近藤芳美、山本友一、川口篤、新庄嘉章、井上光晴、伊藤伊吉(伊藤信吉?)、北杜夫、朝倉摂、安田武の十七名。案内状は私が書く。

2月3日 第二十三回火曜会 英
竹内、岡山、中島、安田の四人だけ。
組合の賃上げと現稿料の話など。十時近く散会して竹内さんだけ帰り、茉莉花へ行く。案内状を見せ、ママと岡山氏と三人で手筈の相談。中公の和田君が来て一緒に呑み、中公のハイヤーで送って貰う。中公新書何か書いてくれというが……。

3月3日 番外、茉莉花のママの出版記念会 新宿太平会館
宮本研と打合わせ。結局司会役をつとめる。瀬沼茂樹の乾杯についで竹内好、吉田潔、佐多稲子、山室静らの祝辞があって儀式終り。あとは花束贈呈式だけ。百名近く盛会であった。九時半に解散。二十名程度が茉莉花へ移る。竹内さんは豆腐やのラッパを持ち込んで大変なサービスぶり。午前一時まで呑んで、一人で車をひろって帰る。新宿から家(保谷)までタクシー運賃は八〇〇円が九六〇円になった。しかし千円やるから結局おなじ。

3月27日 番外 「人間として」の発刊祝賀パーティ
四時半、筑摩書房へ行き少年図書館の打合わせ。(略)竹内、松田、岡山氏等と同乗で茉莉花へ行く。『人間として』の発刊祝賀パーティ。竹内好、日高六郎、久野収等も混えて、約三十名程の集まり。(略)二次会は黄金虫。

4月7日 第二十四回火曜会 英
竹内、岡山(中座)、中島、高瀬、野田裕次、安田。
二次会は旧風紋。一時近く車で帰る。

5月19日 第二十五回火曜会(第七回オープンサロン)茉莉花
松下圭一、唐木、大輪、中島、安田の五人。
スミに移り、別れてぼく一人新風紋へ廻る。

6月2日 第二十六回火曜会 英
竹内、中島、野田、新井、安田。
『読書人』に書いた「農本主義」をめぐって議論。例によりエロ話と旨いものの話。まったくこの会は愉しい。旧風紋に寄り中島、竹内三人車で帰る。

6月16日 第二十七回火曜会(第八回オープンサロン)茉莉花
竹内、橋川、岡山、中島、唐木、清水、安田。
(略)風紋へ行き、竹内さんと車で帰る。

7月7日 第二十八回火曜会 英
竹内、岡山、中島、安田の四人。
英を出ようとするところへ田村が来る。大久保駅前のくろがねという呑み屋へ皆で行く。茉莉花の会場を変更しようというので下見分にきたのだが、なかなかいい店。合格。井伏鱒二、庄野潤三、三宅艶子。講談社の川島君等いて合流。十一時過ぎまで呑む。それからまた揃って茉莉花へ行って、午前二時ごろ竹内さんと車で帰る。『展望』の中島君の編集長今月号かぎりで原田君と交代。

7月21日
今日の茉莉花は中止になったので助かる。その時岡山氏と電話で八.月一杯は休みにして九月からまた始めようと意見一致。

9月1日 第二十九回火曜会 英
竹内、岡山、中島、高瀬、野田、橋川、安田。
二次会は新風紋。そこに高畠が女子学生を連れて来ていて合流。十二時半竹内さんと一緒に車で帰る。

9月18日 番外 茉莉花(火曜会かどうか?)〔編集者注 18日は金曜日〕
秦恒平、宗左近、橋川、安田。
十一時茉莉花を出たが、橋川がもう一軒行こうといってアラジンというバーへ行く。感じのいい店だった。終電車に間にあわせて帰宅。

10月20日 第三十回火曜会 英
久しぶりの火曜会。竹内、中島、岡山、新井、野田、安田。
京都行きは一日と最終決定。めずらしく竹内さんが早く帰って二次会は旧風紋。比較的早く解散になって十二時間半帰宅。

11月1日 番外、安田武『人間の再建』出版記念会京都版 京都たん熊南店
桑原武夫、竹内、作田啓一、上山春平、鶴見、樋口謹一、尾崎秀樹、それに筑摩から岡山、中島、加藤ともう一人若い社員。
俊輔さんのLSDの話。
九時から二次会で岡あいへ行く。(略)岡あいの若女将が気をきかしてくれて峰ちゃん、豆勇ちゃん、福さんなど(芸妓〉呼んである。(略)英のママも来る。

11月27日
【三島由紀夫自衛隊のバルコニーから「盾の会」演説、そのあと総監室で割腹自殺。】

12月16日 第三十一回火曜会(第一回旨いものを食う会) 伊セ源 四時半〔編集者注 16日は水曜日〕
竹内、岡山、中島、田村、野田、安田の六人。
六時過ぎ終わって英へ行く。そこへ高瀬君も来る。来年から六〇頁の同人誌をやろうという相談で意気さかん。九時過ぎ竹内、田村、岡山、安田の四人で壱番館という歌舞伎町のクラブへ行く。岡山氏がパーティ券を買わされているのだそうだ。さらに陶へ寄り、一時過ぎ、例によって竹内、岡山三人で車で帰る。

昭和46年(1971年)1月12日 中止
六時少し過ぎくろがねに行ったが誰も来ていないので不審に思い、竹内さんへ電話したところ、きょうは中止になった由。(略)

2月2日 第三十二回火曜会 くろがね
(略)六時竹内さん来、遅れて岡山、高瀬、野田等現れ、それだけ。久しぶりなのに出席悪い。この会ももう駄目だと竹内さん頻りにいう。どうして東京の文化人というのは忙しがってばかりいるのか。どうしても京都のようなわけにはゆかない。何とか存続させたいがだめかも知れない。九時解散。竹内、岡山三人でスミへ行き二次会。竹内さん十二時ごろ帰り、一時間ほど遅れ岡山氏と車で帰る。(略)

5月3日
【高橋和巳死去。三十九歳。】

6月8日 第三十三四回火曜会 英
竹内、中島、高瀬、野田、安田。
久しぶりの火曜会。竹内さんがバカに張り切って十一時過ぎ風紋。(略)

7月20日 第三十四回火曜会 英
竹内、岡山、中島、田村、安田、途中から鈴木が加わる。
ノアノアへ行き、風紋へ行く。竹内さん酔いが回るにつれて、鈴木をジリジリととっちめる。(略)風紋に糟谷がいて、また何処かへ呑みにいったが、竹内さん岡山氏が帰ったので、ぼくも車を拾って帰る。一時半帰宅。

8月17日 第三十五回火曜会 英
竹内、岡山、新井、高瀬、田村、野田、中島、安田と盛会。
二次会で風紋。わだつみ会解散をめぐって議論。帰宅午前三時というが、最後のところ記憶まったくなし。ちかごろめずらしい。

10月21日 第三十六回火曜会 英〔編集者注 21日は木曜日〕
竹内、岡山、中島、田村、野田、安田。
二次会は風紋。(略)辻まことに会う。竹内さんが張り切っていて二時過ぎまで呑む。

12月14日 第三十七回火曜会 英
竹内、岡山、中島、安田。
『展望』の埴谷さんたちの座談会を延々とやっているのは醜態という話、また蒸し返される。九時過ぎ竹内さんめずらしく帰り、三人で未来へ行く。明日で閉店というのでお別れのつもり。茉莉花に寄ったが十五分ほどいて独り先に帰る。

12月22日-24日 第三十八回火曜会(野沢温泉スキー行) 住吉屋旅館
【安田武は、22日からNHKテレビで池田三四郎氏主催の松本民芸生活館の若者の暮らしぶりを取材するため松本。24日、松本から野沢へ直行、スキーのグループと合流の予定だったが、取材が早く終わったため23日、帰京。日記によると「24日、猛烈具合悪く、つたゑを先に出発させて午後から追跡するつもりだったが、それどころではなく絶食。25日、ついに一睡もせずに朝になり、二時間眠っただけ。ついに野沢行は断念。七時過ぎゴキゲンで電話がかかってくる。残念だ」とある。(略)たしかに、この時、私はひとりで野沢温泉まで行った。長野駅で長野電鉄に乗り換え、木島でまた乗り換えて野沢温泉まで行った覚えがある。】

昭和47年(1972年) 2月28日
【軽井沢連合赤軍あさま山荘事件、テレビ終日放映。】

3月14日 第三十九回火曜会 英
竹内、中島夫妻、岡山、田村、高瀬、野田、安田と揃う。
あさま山荘からリンチ事件の話。表現の自由と考える会の話など。中島夫妻だけ帰って、十時から二次会風紋。またスキーに行こうという話になる。十八、十九、二十日というので十八日の晩ならつき合うという。竹内さん一任。スキーの話になると竹内さん張り切る(結果としては中止になる。)
午前一時竹内さんと二人車で帰る。野田君が『思想の科学』と『婦人画報』で単行本を作りたいといってきた話をすると、うん野田はやっぱり編集者として優秀だ。よく勉強しているといっていた。
田村が『月刊エコノミスト』の装丁を是非やらせろという。合同出版((野田さん)の方も田村にやって貰おう。

7月21日 番外 新井直之さんと安田武の出版を祝う火曜会 両国の鳥安
【この会は、竹内さんが安田と新井さんの本の出版を記念して会をやろうと考えてくださったもの。「ありがたいことだ」と安田は日記に書いている。安田武『こころ驕れる』合同出版社刊。野田さんの肝入りで纏まったもの。装丁は林静一氏(もと風紋にいた節子さんの夫)。
出席者:竹内、共同通信社の梶谷(?〉、原、新井、中村輝子、吉村昭、宗左近、橋川文三、高畠通敏、唐木邦雄〔邦雄かどうか、確かめるとの記載あり〕、林静一・節子、林聖子、岡山、中島、野田、鈴木均、安田武・つたゑ、十九名。愉快な会になって九時半ごろまで呑んだり食ったり。
風紋に移る。宗、吉村、岡山、中島、新井など。
竹内さんもご機嫌でなかなか帰ろうといわず、二時近くまで呑む。竹内さんを送って帰る。車のなかで眠ってしまうなど、竹内さんにはめずらしい。

9月2日
四時半家を出て、竹内家を訪問。ちょうど和田さんからたらこが届いたので、鳥の味噌漬や湯河原の沢庵と一緒に持って行く。裕子ちゃんだけ合宿で不在。ぶどう酒を呑んだ揚句、ジョニ黒一本カラになる。十時過ぎ竹内さん寝て、十一時過ぎ辞去。

10月21日
ルバング島でまた日本兵二名が発見され(略)。

11月19日
夕方、つたゑ竹内家へ行く。つぎ子ちゃんの温習会の助言のため。

11月28日 第四十回火曜会 両国ぼうずしゃも
久しぶりの火曜会。
竹内、岡山、中島、野田、高瀬、田村。新入りで文春の金子勝昭。それから聖子さん三上嬢、つたゑと十一人。三十本余のお銚子をあけて風紋に移る。

12月22日-24日 第四十一回火曜会(野沢温泉スキー行) 住吉屋旅館
……帰宅後ひどく気分悪くなり発熱七度三分。これでは明日からの野沢行きは断念するしかない。去年から続いての野沢には縁がない。22日、つたゑ、夕方四時二十分の列車で三上さんと野沢へ行く。十時ごろ例によって電話有り。野田、橋川、岡山、竹内、橋川夫人など次々変わる。明日もとても行かれるような気分ではない。
【金子さん、スキー初参加。】

昭和48年(1973)年2月13日 第四十二回火曜会 両国ももんじや
今年最初の火曜会。竹内夫妻、岡山、中島、新井、田村、高瀬、金子、聖子、三上、石田雄、安田、つたゑで総勢十三名。
食事終わってから風紋へ行く。十二時少し前解散して西武線で帰る。岡山氏から芸談集の相談を受ける。

2月24日
【竹内さん事故】
昼、細野診療所。診察と鍼。終わって東証ホール「高野和之の会」。「根曳の松」と「初音」を聴いて帰る。
十一時頃、まず橋川から電話が入り、竹内さんが風紋の階段で落ちて重傷。救急車で大久保病院に入ったが、脳外科の専門医がいないという。すぐ犬養(康彦)(共同通信社)に連絡とったが所在不明。松本克美(共同通信)に連絡。女子医大がいいという。玉利君(朝日新聞社)が風紋のデスク(?)になっているので連絡。それから川上武(医師)の意見を聞いたり、電話の応答数回。午前一時、玉利君からまた電話あって、順天堂病院で検査の結果、心電図、脳波その他一応異常なしとのこと。今夜は面会謝絶で、夫人や紹子ちゃんも引き上げたという報告あり。一先ず愁眉をひらく。

2月25日
午前中、つたゑ、竹内家へ行き夫人のお伴をして順天堂へ行く。現在のところ憂慮すべき症状はないとのこと。玉利、岡山氏等と連絡とる。

2月28日
四時四十五分、つたゑと池袋で落合い、順天堂病院へ竹内さんを見舞う。思ったより元気。丁度夕食時だったが、食欲も旺盛のようだった。安堵する。四十分ほどお邪魔して辞去。

3月28日
二時半家を出て順天堂へ竹内さんを見舞う。すっかり元気になっているので、驚き且つ安心する。起きて廊下の喫茶室へ出てこられ、そこで夫人とやはり見舞にきていた橋川の女房と、雑談一時間。昨日出た東京新聞の「丸山真男論」を見せる。こんなもの書くから健康状態悪くなるんだよという。この様子じゃそろそろ全快祝いの計画を立てなくちゃというと、夫人が傍らから、もう自分でさっさと立ててますよ。……風紋へ行く。呑んでいると、椎名氏のお通夜帰りで埴谷雄高、堀田善衛現れ、一緒に十二時まで呑む。戦前の映画の思いで話で興奮する。椎名麟三氏と浅見淵さんが亡くなられた。六十一歳と七十二歳の由。

5月3日
十二時家を出て、鎌倉へ大仏次郎氏の告別式。寿福寺。(略)

5月6日
夕方から山ノ上ホテル。高橋和巳を偲ぶ会。『人間として』の同人主催で、三十人足らずの集まりであったが、参集者ひとりひとりの追悼の話がそれぞれおもしろく、近ごろにないいい会だった。
埴谷、久野収、小田、真継、井上光晴、大江健三郎、岡山、坂本一亀等。

5月27日
夕方竹内さんを見舞う。まだ筋の不快感が去らないらしい。

6月29日 第四十三回火曜会 池袋 天扇〔編集者注 29日は金曜日〕
竹内さんの全快祝いをかねた久しぶりの火曜会。
岡山、中島、高瀬、新井、金子、田村、橋川夫妻、石田、玉利、野田、三上、上野英信(飛入り)、聖子、英、安田、つたゑ、十八名。
天扇の座敷にぎっしり。オヤジが腕をふるってくれて会費は一人三千八百円だった。九時解散して竹内、岡山ほか二、三名が帰ったあとは、全員風紋へ行く。十二時まで。

8月25日
【武、二十四日からNHKカメレポ「甲府嘩子」の取材のため甲府。その留守を利用してつたゑ竹内家訪問。(この夏、立教大学、大場事件あり)(略)】

9月21日 番外、「広津和郎・宇野浩二を偲ぶ会」新橋亭
尾崎一雄、本多秋五、平野謙他。
八時近く中座して、岡山氏との約束があったので英へ行く。暫く呑んで、久しぶりに茉莉花へ行くと平野さんや埴谷さん等いる。
スミへ移り、そこに坂本一亀もいて、岡山氏と三人結局三時過ぎまで呑む。火曜会を茉莉花でまた毎月一回やろうという話になる。岡山氏が竹内さんと相談することになる。来月十四日は京都で竹内さんの全快祝いをやろうという話も出る。
一昨日芳村伊十郎が、昨日古今亭志ん生が逝去した。

11月2日
筑摩の古田会長の告別式、青山斎場。

11月6日
鶴見祐輔氏の告別式、三田の普連土学園の講堂。
竹内さん中島さん野田君らに会う。帰路加太こうじと同乗。

11月14日 第四十四回火曜会 風紋〔編集者注 14日は水曜日〕
竹内、石田、橋川夫妻、田村、岡山、中島、新井、金子、安田、つたゑ。
年末のスキーをどこにするかで大もめ。英に移り、また新風紋へ移り、田村、金子、中島と私たち五人で呑み、午前四時になる。

12月14日
昼間中島氏来訪。スキー行の切符を届けてくれる。

12月22日-25日 第四十五回火曜会(網張温泉スキー行)あみはり荘
【安田武京都の細野診療所へ入院のため不参加。つたゑは参加。この年、武ほとんど一年中微熱、不快感に悩む。(略)

昭和49年(1974)年1月23日
五時四十分、東京駅精養軒で多田道太郎氏と会い、すぐ車で鳥安へ行く。六時ちょっと過ぎる。竹内さんすでに待っていられる。間もなく篠田一士、小中陽太郎の順に現れ会食はじまる。会食終わり、小中が赤坂にいいゲーバーがあるといったが皆乗り気でなく、竹内さんは風紋に行こうと張切っている。

新風紋で呑んでいると、千夏ちゃんもかこちゃんも、向こうの店に客がないといって遊びにくる。店の感じとしては旧店の方がいいんだと全員が言い出し、旧店へ席を移す。竹内さんかこちゃんのカスタネットを借りて踊ったり、すっかりごきげん。ついに深更二時を過ぎる。竹内さん、あと一ヶ月であの怪我以来ちょうど一年になる。後遺症から完全には解放されていないようだし、精神的にもひどくニヒルになっているところがあると見受ける。

2月27日
ルバング島の小野田少尉生存がほぼ確認されたらしく、今日はそのニュースで賑わう。

5月7日
「高橋和巳を偲ぶ会」山ノ上ホテル。
竹内好、井上光晴、岡山猛、野田(東京タイムス社の学芸部に入った由。まずまず何よりだ)、山田稔、埴谷雄高ほか三十名足らず。

7月5日 第四十六回火曜会 旧風紋〔編集者注 5日は金曜日〕
竹内、岡山、中島、田村、野田、石田、高瀬、金子、安田。
佐々木基一、長谷川四郎に会う。新風紋に辻まことが節ちゃん(雑魚亭のママ)や啓坊(渋谷カラカラ亭のママ)と来ているというので、途中で抜けて会いに行く。十時半解散。英へ行く組と二手にわかれ田村、金子等と新風紋へ行き、一時過ぎまで呑む。若者絶望論など。
風紋のこの上半期の支払がまた十二万程ある。随分自粛した筈なのに。値段そのものが上がっているのだ。

12月11日 第四十七回火曜会 風紋〔編集者注 11日は水曜日〕
竹内、岡山、中島、高瀬、金子、野田、安田、つたゑ。
スキー行きの相談。
竹内さん酔い、ヴァイオリンの流しの爺さんを呼んで、歌謡曲懐メロの合唱。十一時散会。五干円。新風紋へちょっと寄って井上達三、坂本一亀に会い、十二時半最終(電車)で帰宅。
下半期の風紋は五万四千余円。やっと節約の効が出た。

12月22日
竹内さんの『日記抄』創芸社〔創樹社が正しい〕から出て寄贈受ける。

12月22日~23日 第四十八回火曜会(万座温泉スキー行) 日進館
〔金子勝昭氏の資料による追記〕

昭和50年(1975)年1月16日 番外編
多田道太郎氏の提案で「竹内さんを慰める会」
ぼうずしゃも。多田道太郎、藤田省三、安田武。
九時お開きにしてそのまま四人で風紋へ行く。

1月24日 第四十九回火曜会 風紋〔編集者注 24日は金曜日〕
風紋。スキーの八ミリ撮影会。
竹内、岡山、中島、金子、玉井、橋川夫妻、安田、つたゑ。十時半解散。

4月16日
新橋第一ホテル「丸山邦男『天皇観の戦後史』出版記念会」
なかなかの盛会であった。彼の人柄というべきだろう。
八時過ぎ竹内、橋川、根本(雑誌『知性』の編集者)等と旧風紋へ行って呑み直し。英から電話で、竹内さんだけそっちへ移った後、こんどは地下風紋から電話で岡山氏が来ているという。行くと井上達ちゃんや中島寿夫も一緒。一頻り呑んでまた英へ行くことになる。こちらには藤田省三、今井清一も来ていて大賑い。谷川公彦にも会った。帰宅二時半。

6月10日
東京会館で「太宰賞受賞式」とパーティ。
竹内さんに『文芸展望』の武田泰淳との対談、非常におもしろかったこと告げる。堤氏、緑川氏、宮尾登美子氏、吉村昭氏らと会う。

7月5日
浅草飯田屋「野添憲治『花岡事件の人たち』出版記念会」竹内さんと入れちがいになる。

8月9日-10日
【旅行(金子勝昭さん情報)。福井県美浜、雅城園、玉井宅。竹内夫妻、橋川夫妻、岡山、玉井、金子。】

9月10日
【中央飯店(金子情報)安田の日記には記載なし、火曜会とは違う集まりだったのでは?】

10月16日 第五十回火曜会 池の端 薮そば
久しぶりの火曜会。
竹内、岡山、中島、田村、石田、橋川、野田、金子、新井、高瀬、玉井、安田、つたゑ。十三名。めずらしく全員の顔が揃った。そば料理のコースというのをはじめて食べた。随分呑んで会費三千二百円。それから風紋へ移る。十時半岡山、竹内が帰るというので結局解散になる。橋川だけがまだ呑みたそうにしていた。

〔編集者注:続0039 高瀬善夫 「明日を生きる人々に近しい―竹内好と安田武」(『思想の科学』 思想の科学社 1988年10月臨時増刊号)では以下のとおり10月17日と記載されている。なお、16日は木曜日、17日は金曜日であり、いずれも火曜日ではない。〕

「火曜会」というのは、竹内好氏を囲む小さなサロン的な集まりである。一九六九年一月に生まれ、七五年十月十七日の集まりが最後となった。文化はサロンから生まれるという安田さんの主張に竹内さんが賛成してできたのだそうだが、酒を飲む会の様相をも呈していた。酒とおしゃべりから何かが生まれ出る、そんな感じもあった。メンバーは、竹内好、安田武、岡山猛、田村義也、石田雄、野田祐次、金子勝昭、新井直之、玉井五一、中島岑夫、橋川文三、それに私が含まれていた。この会のことを竹内さんは「安田の会」といっていた。
七五年の何月かの火曜会の時であった。ふと思い出したように竹内さんはいい出した。
「人間、長生きするのがいいとは限らないんだよ、長生きするのがいいとはね。うん、そうだよ」
一点をじっとみつめながら、あの大きなアタマに反響するような声は、なぜか自分にもいい聞かせているように、私には聞こえた。
うなずくように黙っていた安田さんは、その言葉に痛恨の響きを聞いたであろう。
『魯迅文集』の完成に全力を注いだ竹内さんは、その半ばで倒れてしまった。

12月21日-22日 第五十一回火曜会(万座観光ホテルスキー行)
【竹内、裕子、紹子、岡山、金子、井上光晴、松本健一、安田つたゑ。】

昭和51年(1976)年1月30日-2月1日 第五十二回火曜会(沼尻温泉スキー行)
【スキー沼尻温泉岩瀬屋(金子情報)。竹内、裕子、紹子、橋川夫妻、岡山、石田、松本健一、中島、野田、金子。】

3月19日
【「八重樫さんを祝う会」浅草、中清。竹内、田村、尾崎秀樹、上笙一郎、石川弘義、今井清一、橋川文三、野原四郎、榎本滋民、その他。】

5月29日 番外、「風紋同窓会」
竹内、岡山、安田。女性軍は鈴子ちゃん、節ちゃん、山ちゃん、みずこちゃん、かこちゃん、千夏ちゃん等。
終わって、竹内、岡山、安田で捺瑪という小さなバーへ行く。「昭和研究会」を作ろうという話が出る。

6月11日
【東京会館「太宰賞パーティ」】
竹内、宮尾、秦恒平、一色次郎等と雑談。八時閉会。持田君が竹内さんと私を銀座の葡萄屋へ連れて行く。十一時ハイヤー呼んで新宿捺瑪。

8月7日-9日
【旅行 湘馬松川浦、まる三旅館(金子情報)。竹内夫妻、橋川夫妻、岡山、玉井、金子。】

10月10日
青山斎場駿田泰淳氏の告別式。葬儀委員長竹内好。
竹内さんをはじめ、埴谷さん、野間さん、皆体調のわるい人ばかりで参列者の焼香の間、この人たちが立ち並んでいるのさえ気の毒に見える。第一次戦後派がどんどん欠けてゆく時になってきたと都築さんと話す。竹内夫人とちょっと話す。

11月24日
竹内さんの容態を聞く。病名は糖尿と神経痛ということで肺癌の危惧は晴れたという。但し、極端に食欲がないのと痛みで睡眠が十分にとれないため、かなり衰弱しているので、その点では楽観できないということであった。来週の水曜には退院して後は自宅療養ということになるらしい。

12月10日
昼間、岡山氏より電話。竹内夫人の伝言で、いままで一切面会謝絶にしていたが、一度出来るだけ早いうちに来て欲しいという。
岡山氏の報告では、衰弱烈しく、意識もかなり混濁している。もはや奇跡を待つしかないとのこと。夜、裕子ちゃんから重ねてつたゑ宛同様の伝言がある。

12月11日
吉祥寺の森本病院へ行く。裕子ちゃんと紹子ちゃんがつき添っている。うとうと眠っているところ。十五分ほど病室に座っている。裕子ちゃんが家の方へ連絡とっで、中島〔中村愿が正しい〕という人が車で迎えにきてくれる。家で夫人と会う。やはり肺癌なのだ。まったく手遅れらしい、日大〔日本医大が正しい〕病院医師の処置を怒っていた。

昭和52年(1977)年1月9日
紹子ちゃんからつたゑ宛の年賀状によれば、竹内さん小康を保ち、やや恢復しているという。よかった。何とかもう一度立ちなおって「文集」だけは完成して欲しい。

2月19日
筑摩書房へいき岡山氏に会い、竹内さんの容態を聞く。

3月2日
夜中、中島岑夫から電話あり、竹内さん危篤状態の報あり。家族だけにして欲しいとのことなのでそのまま続報あるかと緊張していたがついになし。ホッとする。

3月3日
竹内好さん逝去。
八時過ぎ、竹内好死去の報らせある。直ちに出掛ける支度をしているところに共同通信、毎日新聞社などから追悼談話の電話あって遅れ、その上、森本病院へ行ったところ、既に自宅へ帰られたとのこと。それから散々道に迷って、漸く十二時ちょっと前着く。既に皆帰ったらしく、教え子数人と武田夫人のみ。お悔やみを述べ拝礼して十五分程で辞去。

3月4日
お通夜。
桑原武夫、埴谷雄高、野間夫妻、中野好夫、丸山真男、猪野謙二、鶴見俊輔、藤田省三、'木下順二、日高六郎、谷川雁、井上光晴、市井三郎、久野収、尾崎秀樹、松本健一等。

九時半で終わって解散してから、田村、岡山らと、もう一度祭壇の前で、夫人や武田夫人、埴谷夫人、それと手伝いの若い人たちと、十一時までのみながら思い出話。辞して呉峰という酒場を探して行く。すぐにカンバンになり、埴谷、田村、岡山とわれわれと五人、もう一軒炉端焼きへ行って呑み、帰宅二時になる。

3月5日
粉雪がぱらつき凄い寒さ。二時半、出棺を見送るため二人で吉祥寺へ向かう。

この文章の掲載にあたっては、安田つたゑさんご本人にご了解をいただきました。

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