本文へスキップ

竹内好かく語られ記

竹内好さんのこと 片思いの記-私の中の竹内さん-


 

竹内好さんのこと 片思いの記-私の中の竹内さん-

木村 聖哉

 昨年の十二月、竹内好さんの病気が重く、危険な状態にあるという話を聞いた時は、いかにも唐突な感じがした。なぜなら、私が知っている竹内さんはがっしりした体驅の持主で顔色もわるくなかったし、十月には武田泰淳さんの葬儀委員長をつとめられたばかりだったからである。だから今年の三月三日、新聞で死亡記事を読んだ時は、驚きよりも「やっぱり……」という感が深かった。癌であった。

 三月十日、私はめったに着ない背広をとり出し、信濃町の千日谷会堂で行われた告別式に、重永博道さんと列席した。パイプをくわえた竹内さんの遺影が白い菊の花で飾られていた。葬儀は故人の意志により無宗教でとり行われた。いかにも竹内さんらしかった。

 弔辞が始まると(その内容は『展望』5月号に詳しい)、ひとりでに涙がボロボロと出てきた。私は泣いた。声を殺して泣いた。あんなに泣いたのは久しぶりである。われながら呆れてしまった。



 一九六〇年四月、私は同志社大学に入学した。時あたかも安保闘争の昂揚期に当った。高校時代、石川啄木と武者小路実篤くらいしか読んでいなかった政治音痴の私も、数日後にはデモの渦中にいた。五月一九日夜、岸内閣は安保条約を衆議院で強行採決する。間髪を入れず、それに抗議して、竹内さんが東京都立大学教授を辞められた。またそれに呼応するかのように鶴見俊輔さんも東京工大の職を捨てられた。

 竹内さんや鶴見さんがどういう人なのか、私はそれまで全く知らなかったし、「抗議して辞める」という仕方がありうることも知らなかった。ただ、その出処進退のあざやかさだけが強く印象づけられた。

 もちろん、この二人の人物が、その後、私の思想形成に重大な影響を及ぼすとは思いもよらなかった。もし安保闘争がなかったら、いや岸信介の強行採決がなかったら、私は竹内、鶴見両氏に出会うことはなかっただろう。そういう意味で、私は岸信介に感謝しなければならない。敵は私に恩人をもたらした。敵も必要である。

 鶴見さんには、その後、同志社で直接教えをうける光栄に浴したが、竹内さんとは著作を通じてしか接触がなかった。当時、私が読んだ本は、『現代中国論』『日本イデオロギー』『国民文学論』『魯迅』等だったが、ことのほか愛読したのは、雑誌『みすず』に連載されていた竹内さんの日記である。これを私は大学図書館の閲覧室で毎月読んだ。その「日記」は私の頭の中にあった日記の概念を完全に粉砕した。そこには公と私とが渾然一体となって、ダイナミックに躍動していた。酒になる前の原酒の香りがした。

 私が後年『東京やまなみ』に「近事片々」という日記スタイルの文章を発表した背景には、この竹内さんの日記抄がモデルとしてあったのである。

 六二、六三年当時、私がその日記のどの部分にどのように共鳴していたか、もはや知るよしもない。ところが七四年一二月に創樹社から、この日記の部分がそのまま『転形期――戦後日記抄』という本になって出版された。私は早速買いもとめて再読したが、やはりおもしろかった。その時、私が赤鉛筆で傍線をひいてる個所を二、三引用してみる。竹内さんの〝秘密〟の一端を知るためにも……。

竹内好回想文集 しかし、人間の心は宇宙より広い 一九六二年七月五日(木) きょうはフォード・アジア両財団の資金供与問題について中国研究者のシンポジュームの開かれる日である。私ははじめ、きょうの会には出席しないつもりだった。しかし、近代中国思想史研究会の若い運中が、やはり私にも出席してほしいようなので、熱心に運動をすすめている彼らに敬意を表するためにともかく出席だけはすることにした。私が出席をためらったのは、私なりの考えがあって、なまじっか出ない方が彼らの運動のジャマにならぬだろうということ、それから自分の生活問題のために深入りしたくないという打算、また、どうせこの問題は短期に片づくことではなく、長期戦になるだろうから、第一ラウンドに全力投入すべきでないという判断もあったからである。若い人は気が短い。それが若さの身上である。けれども若さだけでは持久戦には堪えない。現役だけではダメなので、予備も後備もなくてはならない。しかもその層は厚ければ厚いほどよい。私の役割りは、せいぜい予備か、悪くすると後備だろう。だからこの際は引っこんでいる方がよいと考えたのだ。(後略)

 一九六二年十一月八日(木) (前略)私はもし息子がいても、自分の職業は継がせたくない。中国文学の研究などは一代かぎりでまっぴらだ。私には師もいないし、弟子もいない。私は天地の間にただ一人でいたい。人には寛容を、学問には不寛容を、というのが私の信条だが、私とて生身の人間だから、これからも何度も失敗をくり返すほかなかろう。

 一九六三年十二月×日 『魯迅選集』と『中国の思想』と両方に監修者のことばを書かなくてはならない。私はこういうものを書くのが割にすきで、両方とも共同監修なのに、お鉢が私にまわり、私の方でも固辞しなかった。ところで、こういう短文を書くには、まず気力を充実させなくてはならない。朝はやく起きて、自分で風呂をわかす。それから和室のこたつに坐る。まず気力をつけるために書庫から『久保栄全集』を運び入れて、気の向いたところをあける。久保栄に少しあきたところで、休息のために『朝日』の縮刷版十一月号に手を出す。(後略)

 ここには思想家竹内好の生理というか流儀がよく出ているように思う。もちろん評論や論争の文章も迫力があっていいが、こういう自由なスタイルの文章が私は好きだ。竹内さんは全力を尽して、この文章を書いているのだけれど……。



 竹内さんに最初にお目にかかったのは、六四年だったか六五年だったか、今は定かでない。ともかく私はすでに就職していたが、竹内さんが同志社の大学祭かなにかに招かれて講演されると知って、大阪から京都まで出かけて聞きに行った。どういうテーマで何を話されたか皆目思い出せない。ただ講演会が終ったあと、実行委員会のメンバーの呼びかけで、竹内さんと近くの喫茶店に移動し、しばらく懇談した。そこで私も何かつまらない質問をしたことだけは覚えている。

 六九年四月、仕事の関係で私は東京に転居した。ふとん一組とりんご箱一つの本だけを持って……。その箱の中には、竹内さん、鶴見さん、谷川雁さんの本が入っていた。八年経った今、私の六畳と三畳の部屋は完全に本に占領されてしまい、地震のたびに本の下敷きになるのではないかという恐怖を味わっている。

 七〇年の春、私は竹内さんが代表をおやりになっていた「中国の会」の会員になった。会員といっても、もっぱら雑誌を購読するだけで、会の催しに積極的に参加したことはほとんどない。ただ竹内さんが毎月お書きになっていた「中国を知るために」というエッセーを読むだけで満足していた。

中国の会には六つのとりきめがあった

一、民主主義に反対はしない。
二、政治に口を出さない。
三、真理において自他を差別しない。
四、世界の大勢から説きおこさない。
五、良識、公正、不偏不党を信用しない。
六、日中問題を日本人の立場で考える。

 このうち二は内部でも異論があって、何度か公開の場でやりとりもあったが、結論は出なかった。私は一が気に入った。自民党から共産党まで。〝民主主義万歳〟の御時世に「民主主義に反対はしない」とはよくぞ言ったものだ。それに五もなかなか小気味がいい。とりきめ全体に反逆の志が秘められていた。



 七一年五月に、鶴見良行さんの企画で「アジア勉強会」が発足した。政治的経済的文化的に最も関係が深いアジア諸国の実情を、われわれ若い世代はあまりにも知らなさすぎるのではないかという反省から生れたものである。男女十五~六名のメンバーで、毎週一回講師を招いて話を聞き、その後フリー討論を行うというやり方だった。講師は第一線のアジア関係の学者、研究者、専門家たちで、かなり程度の高い勉強会であったと思う。毎週の授業についていくのが大変だった。

 その勉強会に竹内さんが講師として来られたのが、七二年一月である。会場は渋谷の全国婦人会館で、明治以降の日中関係をめぐる問題がテーマであったと記憶する。三回で一単位を終るシステムだったから、竹内さんも三週来られた。しかしご自分では講義らしいことはやらず、もっぱらわれわれの質問をうけて、それについて話をするというかたちをとられた。

 その時に初めて私は気がついたのだが、竹内さんの声は頭のてっぺんから出るような、ちょっとしわがれ声であった。それは私が文章及び風貌から想像した竹内さんの声とはずいぶんちがっていたので、いささか失望した。「あれッ!?」という感じだった。竹内さんの声はもっと重々しく深みのあるものでなければならなかった。フアンとは勝手なものである……。

 しかし、丸坊主の竹内さんがパイプをくわえて、こちらの質問をじっと聞いている姿は、貫禄があっていい感じだった。それで近よりがたいかというとそうでもない。むしろ気さくな感じを与えた。めったに笑わない人だったが、笑う時は「ヘッヘッヘッ」と口を横にして笑われた。



 七二年の暮から正月にかけて、「アジア勉強会」で東南アジアへ出かけた。いわば修学旅行である。この一行の中に、竹内さんの長女の裕子さんも加わっていた。まだ芳紀二十一、二歳といった可愛らしいお嬢さんだったが、飛行機の座席が隣同士だったので、私はそれとなく竹内さんのことを聞いてみた。

 「うちのパパっておもしろいのよ」とその時裕子さんが話してくれた家庭における竹内さんのエピソードは私には意外なことばかりだった。残念ながら、その内容をもう思い出せないが、一言でいえば「頑固者のもつ滑稽さ」とでもいったらいいだろうか。頑固な男親も女の眼からみると、どこか子供っぼく見えるらしい。

 それで私の竹内好像はまた少し修正しなければならなかった。勉強会は夜六時半に始まり、九時には終った。大抵、その後みんなでお茶を飲みに行くのだが、竹内家では娘の帰宅時間が遅くなると心配するので、裕子さんはすぐそのまま帰ることが多かった。一九六三年三月二十日の竹内さんの日記には「長女が新聞委員会とかで帰りがおそく、七時近くになったので、いきなりどなりつけた。まだ雷の効能はあるらしく、ベソをかいた」とあるくらいだ。

 一度、裕子さんを吉祥寺の自宅に送っていったことがある。同じ中央線で帰りの方向が同じだったからだが、クルマで駅から一、二分のところだった。裕子さんには家の前でさよならしたから、もちろん竹内さんには会っていない。たとえ会える状況があったとしても、なんとなく気遅れがして、私は会わなかっただろう。



 竹内さんを回想する時、どうしても私に忘れられないことがもう一つある。七二年十月、渋谷公会堂で「大演説会」なる催しものが開かれた。ちゃんとお金をとってお客に演説を聞いてもらおうという趣向。プロデューサーは巷談舎の伊藤公一さん、構成が矢崎泰久さんで、司会が中山千夏さん、私は舞台進行係だった。

 出演者は十名近くいたと思うが、いま記憶にあるのは、トップバッターの平岡正明さんが、軍人が着る迷彩色服で壇上に立ち、いきなり「アジアはひとつ!」と叫んで演説に入ったこと、羽仁五郎さんが舞台で千夏さんにキスをしたこと、竹中労さんが「アジア幻視行」の大熱弁をふるったこと、そして竹内好さんの演説の切り上げかたに感心したことなどである。

 竹内さんの出番は終りのほうだった。時間にすればまだ二時間はあった。普通なら、楽屋でお茶でも飲んで、のんびりしていていいはずである。ところが竹内さんは幕が開くと、すぐ舞台ソデに来られた。私は折りたたみ椅子を持っていってすすめた。そうやって竹内さんは自分の出番までそこに坐って、熱心にかつ嬉しそうに他の人の演説を聞いておられたのだった。どうやら岩波の講演会のようでなく、また政党の演説会のようでもない、この一風変った演説会のスタイルがお気に召したらしい。この時の話は文芸春秋の『日本と中国のあいだ』に収録されている。

 竹内さんは、「実感的演説論」というか「演説今と昔」という題で話をされた。戦前は演説会場には取締りの警官がいて、ちょっと不穏なことを喋べると、すぐ「弁士、注意」とか「中止」の命令が下された。そこにまたスリルもあり、緊張感もあったと前置きし、演説の型に「世界の大勢型」と「洋行自慢型」があるが、これはもう古いと。そして、北京に行って日中国交回復をはかった田中角栄を「あれは偉い、勇気がある」と持ち上げ、客席を笑わせた。最後に、新しい演説を創造するためにはどうすればいいか、それにはわれわれが自分の責任で他人に頼らず、本気になって基本的人権としての表現の自由を――と言ったところで、右手を上げて自分で「弁士、中止!」と叫んだまま壇を降りてしまった。一瞬、会場はあっけにとられてシーンとなったが、やがてヤンヤヤンヤの拍手が鳴りやまなかった。間のとりかたのうまさ、意表をついた終りかたに、私は目のさめるような感銘をうけた。

 さていよいよおしまいの幕を閉める時に、出演者が舞台に一列に並んで手締めをしようということになった。ところがだれかが「手締めじゃつまんない、ラインダンスをやろう」と言い出したので、みんなで即席のラインダンスを踊った。竹内さんも舞台中央で両サイドから腕をとられて、テレくさそうに踊っておられた。二千人のお客の前で!!”全く今思い出しても信じられないくらいだ。

 この大演説会はよほど愉快だったらしく、あとで伊藤さんがお礼の電話を入れたら、竹内さんは、「いやあ、あの日は楽しかった。また機会があれば出てもいいよ」とおっしゃったという。



 竹内さんの姿を最後に見たのは、七五年の七月五日、浅草の飯田屋である。昼間、八丁堀の勤労福祉会館で『花岡事件三十周年記念講演会』があったが、私は仕事で行けず、二次会のほうにだけ顔を出した。竹内さんは、その講演会で短いあいさつをされたあと、飯田屋での打上げ会にも付き合ってくださったわけである。

 私が行った時は、もう会は始まっていて、竹内さんは入口に近い方の真中に坐っておられた。私はあいさつしたものかどうか一瞬迷ったが、別に親しい間柄でもなく、私のことをご存知とも思えなかったので、そのまま失礼した。しばらくして竹内さんは「これからまた人と会う約束があるから」と先に帰られた。これが最後だった。

 考えてみると、私と竹内さんの関係は、私の一方的な片思いであった。それで私は十分だった。自分がほんとうに尊敬する人、自分にとって一番大事な人はソッとしておいて、あまり近寄りたくないといった気持が私にはある。竹内さんはまさにそういう人だった。

 竹内さんと私の気質はずいぶんちがう。しかし、その思想、信条、生き方からはたくさんのものを学んだ.そのことに私はいま恩義を感じている。

 竹内さんは万事にケジメをはっきりつける人だった。特に退きぎわが見事だった。安保の時しかり、評論家廃業宣言しかり、雑誌「中国」終刊の時しかりで、ちゃんと自分でピリオドを打つ人だった。ライフワークの「魯迅文集」の翻訳だけは未完に終ったけれど。

 竹内さんは、〝訳者のことば〟の中で、「雲の上の魯迅を、もう一度われわれの身近へ引きよせてみたい」と書いておられる。このことはそっくり竹内さん自身にもあてはまりはしないか。時は死者を美化する。竹内さんを〝おそれ多い人〟〝偉大な人〟に祭り上げることに私は反対だ。

 竹内さんは遊びを知っていた人である。よく酒を飲み、碁を愛し、水泳とスキーに熱中された。一時期、ブルーフィルムに凝って、小人数で毎月鑑賞会をやっておられたという話も私はもれ聞いている。

 「日本共産党は日本の革命を主題にしていない」と批判した竹内さんも、ブルーフィルムを見てる竹内さんも、同じ竹内さんである。私は竹内さんのあるがまま全部を丸ごと認めたい。

 この五月から、私は新島淳良さんを囲む「魯迅塾」に週一回通っている。竹内さんの訳された「魯迅文集」を読むことで、魯迅精神ひいては竹内精神を批判的に学ぼうという集りである、全七巻が終るまで何年かかるだろうか、その間ずっと私は竹内さんの影と向いつづけることになる。(一九七七年六月二十九日)

『山脈』48号(1977年8月15日発行)所収

『竹内好回想文集 しかし、人間の心は宇宙より広い』(1978年3月3日発行)に再録

(再録において文章の一部修正あり。ここでは再録に従った)

Copyright (C) Seiya Kimura 1977 All Rights Reserved.


ナビゲーション