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竹内好かく語られ記

竹内さんが言わなかったこと


 

竹内さんが言わなかったこと

金子 勝昭

 葬式はいやだ。形式として整っている葬儀ならばまだいい。死亡を知らせる電話がかかってきて、おどろいたり、やはりだめだったかと、いずれも気が重く、故人の宅におもむく。ほんとうは行きたくない。もう、その人はいないのだ。ひかえめにざわめいている通夜。ぼくはどういう顔をすればいいのだろうか。

 結婚式のほうがまだましだ。べつにめでたいとも思わないが、ご当人は生きていて、にこにこした顔に囲まれている。ぼくもにこやかな表情を見せて、酒でも飲んでいればいいのだから。

 竹内さんの通夜は三月四日、雲ひくく、とても寒かった。ぼくはめぼしい働きどころもなく、門前でうろうろしていた。夏ものの略礼服は身にこたえたが、それでも、コートを着ようとは思わなかった。日がとっぷりと暮れて、ようやく酒が配られたが、それを腹中にしても、寒さはやわらがなかった。

 ぼくは、やせがまんをすることで、竹内さんに多少の心中立てをしているような気持だった。とにかく、寒さが気をまぎらわしてくれた。

 竹内さんと親しく接するようになる以前に、ぼくは仕事で電話取材をしたことが一度ある。週刊誌の企画で、サラリーマンのための百冊の本というタイトルだったと思うが、竹内さんに何冊かをすいせんしていただいた。竹内さんは文芸春秋に良い感情を抱いていないとか、文春の池島信平さんが竹内さんを好いていない、というような噂を耳にしていたので、ぼくは少々おっかなびっくりだった。けれども、電話に出た竹内さんは、それなりの好意をもって答えてくださった。その内容は忘れてしまったが。

 このことを、ぼくは竹内さんについに打ち明けなかった。文芸春秋との関係の真偽についても、聞いたことはない。竹内さんの生き方に対して、文芸春秋のありよう、というよりは文芸春秋という大樹にもたれかかっているぼく自身のありようがうしろめたく、ぼくは自分の勤めている会社の仕事に関することは、ほとんど口に出さないできた。

1976.8.7(土)~9(月)相馬市松川浦にて 撮影 金子勝昭

 ぼくは中国の会のかなり初期の会員であるだろう。普通社から出ていた中国新書を第一冊から買っていたから、その中にはさまれていたパンフレットを読み、集まりが始まると知って参加した。強い目的意識があったわけではない。

 ぼくはわりあいあっちこっちに顔を出すほうかもしれないが、たいていは、なんとなく興味があるというだけで、だから、参加しても格別の主張があるわけでもなく、なんとなくそこに居るにすぎない。

 中国語に興味があった。それは、大連の小学校に四年間在学し、そのとき少し習いはじめた「満洲語」の思い出につながっている。だから、高校の課外授業の中国語に出席したり(紅楼夢の映画のシナリオをテキストに使った)、都立大学で中国語の講義をきいたりした。ぼくが卒業した年、竹内さんは都立大の教授になった。

 就職してからも、夜間の中国語講習会に半年ばかり通ったことがある。といえば、かなり中国語が上達したように聞こえるが、実際には、その時だけの勉強だから、すぐ初心者の段階に戻ってしまうのである。

 なんとなく顔は見ていたいが、しかし、自分のものにしてしまうだけの意志と情熱は持てない。そういう態度は、また中国の会に対しても同じだったろう。例会への出席は多かったほうだろうが、消極的にしかぼくは存在しなかった。

 ぼくは坊主頭になった。面白半分だった。まじめ半分の部分には、頭髪の過疎化対策という重要問題があり、これはたいへん成功した結果になったが、面白半分の部分でも、世の中を面白半分に生きてゆくことの面白さを教えられ、これも大成功だった。

 中国の会の例会に出席したとき、竹内さんの目にとまった。竹内さんは、いたずらっぽい眼になって、「やあ、これは見事なもんだね」愉快そうに笑った。なぜ坊主になったかとは聞かなかった。ぼくは、竹内さんのおほめにあずかったような感じがした。考えてみれば、ぼくは竹内さんと同じヘアスタイルになったのであった。ただ、ぼくのほうが毛の本数が多いし、すぐ伸びてくるし、また、竹内さんの頭蓋骨のみごとな充実感との差もあって、あまり同じヘアスタイルには見えなかったかもしれない。

 ぼくは、その後、竹内さんにいつから坊主刈りにしているのかをたずねたことがある。戦争中のスタイルをそのまま戦後にもちこしたということだったが、その理由については聞いたような気もするし、触れなかったようにも思うが、とにかく二、三話しあったことの内容は忘れてしまった。

 たまたま数年前から、ぼくは竹内さんたちのスキーの仲間に入ることができた。ぼくは竹内スキー教室の最後の弟子の一人だと思っている。人見知りをするほうであり、すぐ甘えてゆくことのできないぼくの性格のせいもあるし、竹内さんが以前ほど元気でなくなったせいもあるのかもしれないが、手をとるようにして指導してくださったわけではない。

 ただ、いつも竹内さんの眼は、きびしく、そして暖かく、ぼくたちを見ていたと思う。竹内さんは、やはり、いい教師だったと思う。竹内さんは、スキーの教本を書きたいと言っていた。自分なりのスキー術の体系をまとめ、また、それを修正しつつもあったように思われる。竹内さんが「五十歳からのスキー」という本を書くよ、と言うと、石田雄さんがそれでは「五十歳からの水泳」を書き、橋川文三さんが「五十歳からの囲碁」を書くと言い出したりして笑いあったアフター・スキーの夜、そして、ぼくは編集者として、ひょうたんから駒が出ることを夢みていたあの頃が、なつかしい。

 竹内さんは『魯迅』のなかで、こう書いている。《彼が何を書き、いかに書いたか、は知られる。しかし、それだけでは、彼が何を書かなかったか、いかに書かなかったか、は十分には知られない。一般に文章は、書かれなかったものを排除するが、書かれなかったものは、書かれた文章を排除する、という関係がある。》

 このひそみにならって言えば、ぼくは、それほど長くはなかった竹内さんとの交遊のなかで、竹内さんがぼくに何を言わなかったか、という点に心をとらえられる。ぼくは、その点を少しずつ問いつめながら、竹内さんを忘れ得ずに、生きてゆくだろう。

『竹内好回想文集 しかし、人間の心は宇宙より広い』一九七八年刊 所収

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