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竹内好かく語られ記

人々はつどい、かつ散ずる


 

人々はつどい、かつ散ずる
――竹内好さんとの十五年――

飯倉 照平

竹内さん危篤の電話を受けた時、そばにいた家人が、おもわずつぶやいた。「あなたにウルサイことを言ってくれる人が、これで二人ともいなくなってしまうわね。幾志(きし)さん、竹内さん……」

雑誌『中国』が休刊になってから、竹内さんと会う機会は、めっきり少なくなっていた。亡くなる一年半ほど前、魯迅研究会の会誌を借りに、小平の仕事場をたずねた。「こんな時でもないとお目にかかれないので」といいわけをすると、竹内さんは「来なくていいよ」とひとりごとのように言った。そのころ、二、三の魯迅関係の仕事が、竹内さんに相談した結果だということで、私の方にまわされてきていた。魯迅のことなど私がまるっきりわからないのを、竹内さんは知らないはずがない。そのあたりの事情もたずねてみたかったが、竹内さんはなにもふれなかった。とにかく魯迅の翻訳のために、文字どおり寸暇をも惜しんでいることは、よくわかったので、私は早々に引きあげた。

その魯迅関係の仕事の一つで、私は救いがたい粗忽をした。中野重治氏の文中に引かれた佐藤春夫氏の文章を、中野氏のものとして引用してしまったのである。そのことをあとで編集者から聞いた竹内さんが、「上手の手から水が漏る」と評したと知らされ、私は絶句した。それは雑誌『中国』で失敗をした時、よく竹内さんが口にしたことばであった。だが私は同時に、「その人の致命傷にこそ本質があらわれる」という、竹内さんのもっと痛烈な一句を思いうかべていた。

竹内さんがどんなことばを口にしようと、私の耳にはいつでも、もう一つの竹内さんのことばが鳴りひびく。たとい何年か会わないでいても、こんな時に竹内さんならこんなことばを吐くという、そのことばだけは、容赦なくおそいかかってくる。私にとって、竹内さんはそのような存在である。いや私だけではなく、竹内さんに接した多くの人にとっても、そうであるにちがいない。
私は、このような場所をかりて、竹内さんとの私的なかかわりをしるすことには、ためらいを覚える。しかし、そのような多くの人のうちの一つの場合として、それを許していただきたいと思う。

なりゆきとして、家人の話に出てきた幾志さん――幾志直方(きしなおかた)さんについても、ふれないわけにはいかないだろう。幾志さんは、私の高校時代の世界史の先生で、私を東京に連れ出し、いわば竹内さんと出会うきっかけを作ってくれた人である。

東大文学部在学中は、かなりの活動家だったらしく、当時の警察側の記録に、アタマという変名(?)つきで出ていたのを見て、おどろいたことがある。そこの東洋史を出たあと、博文館につとめ、戦争末期には、回教圏研究所で野原四郎さんや竹内さんたちと、いっしょに仕事をしていたこともあるという。くわしいいきさつはわからないが、その幾志さんは、朝鮮戦争前後の何年か、千葉の成東高校で先生をしていた。私は敗戦のあくる年に旧制中学に入り、そのまま新制高校をおえるまでの六年をそこですごした。あのころの高校には、ほかにもユニークな先生が何人もいて、私たちはかけがえのない体験をした。

私が高校を出て千葉市の病院で働くようになったころ、幾志さんもその郊外へ引っ越してきて、定時制の先生をしながら、東京の博文館新社へかよいはじめた。二年後、私もそこへつとめさせてもらえることになり、東京へ来たら夜の大学へ行けとすすめられた。竹内さんの名も、そのころ幾志さんの口から聞いたように思う。もっとも幾志さん自身は、のちに千葉で日中友好運動にたずさわるようになってからも、終始竹内さんに批判的であった。

竹内さんの場合と同様、私が幾志さんからまなんだのは、その学問であるよりは、むしろ生き方そのものであった。人生の選択はまるでちがっていたが、かたくなと思えるほどの厳しさ、なにひとつゆるがせにできない几帳面さだけは、両者に共通していた。一九七二年の十一月、幾志さんが亡くなった時、義理がたい竹内さんは、いそがしい時間をさいて、千葉までかけつけてくれた。竹内さんと私とをつなぐ一つの結び目に、幾志さんが位置していたのを、知っての上のことであったろう。

都立大の教室では、少なくとも私は竹内さんのよい学生ではなかった。二年目の夜の授業では、竹内さんが、わずか二、三人の学生を相手に、中国語の発音を教えていた。それにも、私は何回かしか顔を出さなかった。三年目につとめをやめ、昼の授業へ出られるようになってからも、沈従文や郁達夫ならばともかく、魯迅にはまったくしたしめなかった。たまたま帰りの電車でいっしょになった時、私が『詩経』や六朝の楽府(がふ)に興味を持っていると言うと、竹内さんはとても信じられないといった表情をした。学生同士でよく遊びにいったのは、学芸大学駅の近くにあった松枝茂夫先生のお宅であった。卒業の前後まで、私は竹内さんの家には、ほとんど行ったことがなかった。

大学でいつも竹内さんをとりまいていたのは、『北斗』という雑誌に関係していた、いかめしい顔つきの(と当時は思った)人たちであった。いま調べてみると、『北斗』は、一九五四年から五九年にかけて、十八号まで出ている。中国文学研究会の戦中からの同人たちに、戦後世代が加わってやった仕事に、竹内・岡崎編『現代中国の作家たち』(一九五四年)や、中国文学研究会編『中国新文学事典』(河出文庫、一九五五年)がある。それらの仕事を手伝う過程で、戦後世代が独立して中国文学会を結成し、『北斗』を出すにいたったらしい。大正の末から昭和五、六年あたりに生まれた人たちで、出身校もさまざまである。

『北斗』のメンバーは、中国文学研究会の旧同人たちとの親灸の度合いも深く、それだけ竹内さんへの傾倒も強かったようで、あとにつづく私たちの世代とは、あきらかに一線を画していた。そこで都立大の学部を出た連中が中心となって、一九五八年から「柿の会」という集まりを持ちはじめた(一九五七年に「創立宣言」が出されている)。この会は、翌年から一九六三年にかけて、三十号の会報を出している。一九五八年春に大学を出て就職した私も、その一員であった。

ちょうど会報が最終号を出した一九六三年に、徳間書店から中国の古典を現代語訳する『中国の思想』全十巻を出す話があった。徳間にいた村山孚さんと、柿の会の守屋洋の立案であったと聞く。そこで柿の会のメンバーが中心になり、すでに都立大をやめていた竹内さんに監修をたのむことになった。ほぼ二年近くにわたった、この『中国の思想』の仕事に、竹内さんはかなりの精力を傾注したらしい。訳文検討のさいの竹内さんのシゴキぶりはものすごく、いまでも語り草になっているほどである。それについては、いずれだれかがくわしく語ってくれるだろう。(このころすでに出版社づとめをしながら、雑誌『中国』小型版の編集を手伝っていた私は、これにも、またのちの北望社や第二次柿の会にも加わっていない。)

おかげで、出来のよかった『中国の思想』は何度も版をかさね、その基金をもとに、彼らは北望社という出版社を設立した。出版物はむしろ中国以外のものが多かったが、経営はなかなか大変だったようだ。そうこうしているうちに、北望社の主力は、翻訳集団としての機動性に移っていく。新しいメンバーも何人か加わり、二、三人あるいは個人で仕事をする者も出るようになった。何年かして、出版社としての北望社は解散した。だが、その翻訳と勉強のグループは存続しているので、しばらく前から、ふたたび「柿の会」と名のるようになった。いわば第二次柿の会である。

竹内さんの最後の闘病生活にあたって、この柿の会が身心ともに大きな援助をした。中国の会がなくなったあと、外部とのつながりを極度にせばめていた竹内さんにとって、柿の会が存続してくれていたことは、一つの救いであったと言えるかもしれない。柿の会の世代は、竹内さんの思想に傾倒したというよりは、人間的な側面にひかれ、しかもある距離をたもったつきあい方をしていた。それがかえって役に立ったのであろう。

話は前後するが、私は都立大を卒業するさいに、万里の長城にゆかりのある孟姜女(もうきょうじょ)という女性の民間伝承を、論文にして提出した。私としては大学生活の置き土産のつもりであったが、意外にも竹内さんからエスプリがあるとほめられた。その一年半後、中央公論事業出版につとめていた私に、竹内さんから、二、三年という期限つきだが、中文の助手になる気はないか、という話があった。いくつもの就職試験にふられ、やっとさがしあてた職場だったし、先行きの不安もあって、その時はずいぶん迷った。
しかし、三年間の助手生活は、私にはじめて自由を味わわせてくれた。よくはわからなかったが、自分のなかに眠っていたなにかが、呼びさまされたという気がした。大学へもどった翌年が一九六〇年――安保改定の年であった。強行採決に抗議して辞表を提出する決心をした竹内さんは、「あいさつ状」の発送を助手の二人に頼んできた。研究室で一晩徹夜して投函の手はずをととのえてから、松井博光さんが、思いとどまってくれるよう最後の電話をしたことは、竹内さんの「大事件と小事件」にもしるされている。私はわきでその電話をききながら、もっと割りきった気持をいだいていた。

中文研究室の運営でも、竹内さんには、いい意味での独断専行といった感じがあった。大学の評議員としても、かなり積極的に意見をのべている様子であった。そのころの竹内さんは、どんな場に居あわせても、黙ってなどはいられなかったのだろう。このままでは、学部長か、総長か、いずれにしても、とにかく厄介な役職につかせられるおそれがある。少なくとも、はた目には、そう見える状況があったようだ。辞職をした竹内さんに、そんな思惑があったというのではない。ただ、いい時期にやめたと述懐した身近な同僚もいて、私もそれに共感したことを、書きとめておきたい。

大学をやめたあとの竹内さんの四苦八苦ぶりは、一九六二〜六四年の日誌抄に点綴されている(もと雑誌「みすず」に連載、『転形期』創樹社、一九七四年)。その竹内さんを中心にすえ、尾崎秀樹さんあたりが導火線となって、一九六〇年秋から、「日本のなかの中国」の共同研究がはじめられる。さらに一九六二年秋には、中国新書とその別冊付録としての雑誌『中国』の刊行が決められ、「中国の会」が発足する。そのころ、三年の期限が来て助手をやめ、校正者として岩波書店に入社した私は、つとめのかたわら、その雑誌の編集を手伝うことになった。
初期の中国の会の集まりには、竹内、尾崎、橋川文三の常連のほか、安藤彦太郎、新島淳良、野原四郎、野村浩一ら多士済々が出席し、談論風発で、じつに楽しかった。中国を知ることの必要性を、私はそこではじめて教えられた。そのわりに雑誌がおもしろくなかったのは、実務担当者の私たちと出版元の普通社が弱体であったためか。

やがて出版社がつぶれ、一九六四年夏に自主刊行で再出発してからは、今村与志雄さんと藤本幸三が編集陣に加わった。私が神戸大の教員となった一九六六〜六七年の二年間は、この二人が実務を担当していた。再出発後、初期の共同研究参加者とのつながりがしだいに弱くなったのは、たがいの周囲の状況が変わったためとはいえ、残念でならなかった。

自主刊行になってから、有料部数は数百ほどであったため、竹内さん個人からの借入れという形をとった累積赤字は、四十八号で九十余万円に達していた。そのような事情もあって、一九六七年末から、徳間書店の申し出を受け入れ、判型をB六判からA五判に改め、ページ数もふやして市販することになった。部数は一万が目標であったが、実売は数千(それも少なめの)で終始した。それでも小型版にくらべれば、読者が一ケタはふえたことになる。

徳間書店とのかかわりは、もともと『中国の思想』からはじまっている。その資金提供で再々出発する雑誌『中国』の編集も、北望社が担当するのが順当と思われたが、それは同社の内部事情で実現しなかった。小型版のスタッフを強化するだけでは、相当きつい仕事であった。神戸から何度か往復して実情を見ていた私は、思いきって「東京へ行って編集を手伝いたい」と竹内さんに手紙を出した。竹内さんからは、「君がそれを望むなら」という返事がとどいた。私としては、副次的な理由もいくつかあったので、それを実行することにした。
徳間書店は、製作と販売の費用を負担するほか、月々三十万円を編集費として中国の会に渡してくれた。そのなかから、事務所の借り賃、専任編集者三人の給料、少額の原稿料などをまかなった。小型版以来ずっとつきあう結果になった橋川文三さんにはもちろん、竹内さんにも、わずかな稿料のほかは、一銭の手当も出せなかった。考えてみると、ほぼ十年にわたる中国の会と雑誌『中国』の仕事に、竹内さんは無償どころか、むしろかなりの持出しで力を注いでいたことになる。竹内さんとしては覚悟の上ではあったろうが、いまにして思うと、暗い気持にならざるをえない。その時期の無理が、雑誌休刊後の魯迅の翻訳の進め方に、はたしてひびかなかったかどうか。

徳間書店との最初の話では、赤字が一定額(三百万円?)に達したら、そこで続刊するかどうかを協議することになっていた。一年後にはその額を軽く超過していたらしいが、ついに五年後の休刊まで、赤字の件は徳間書店の側からは提起されなかった。徳間康快氏の度量に感謝すべきであろう。
それにもかかわらず、かんじんの雑誌の内容は、なかなか思うとおりにならなかった。専任の編集者は、私のほか、『図書新聞』をやめてはせ参じた大石(坂本)志げ子さん、それに、おもに会の活動を受け持った高橋泰子さんであった。根気のつづかない私は、一年もたたないうちに、すっかり疲労こんぱいしてしまった。仕事にも自信をなくしていたので、時おり竹内さんの手渡してくれるポケットマネーまでが、かえって苦痛であった。

一九六九年に入って、平凡社の池田敏雄さんから、『南方熊楠全集』の校訂をやってもらえないかという話があった。そこで雑誌の市販前後から会に出入りしていた山下恒夫君に、半分ほど編集を手伝ってもらい、あいた時間だけ平凡社の仕事をするというもくろみをたてた。しかし、一年たっても前借り金がふえたばかりで、まったく校訂には手がつけられなかった。やむなく翌年春、雑誌から全面的に手を引き、それから四年間、『南方熊楠全集』の校訂に専念することになった。

新しい編集部は、山下君のもと、池上正治君、それに少し前から高橋さんにかわっていた吉田武志君(これはまもなく中村愿君にバトンタッチされる)の三人となり、すっかり若返った。誌面にも相当の変化があった。私はごく部分的に編集を手伝うだけでよかった。あとは、ヒマな時に出かけていって、事務所にくる若い連中と飲んでさわぐのが、私に課せられた仕事となった。
中国の会にあらわれる顔ぶれも、この十年のあいだで、ずいぶん入れかわった。雑誌の変身につれて、少なくとも四回は大きな変動があった。もちろん、ごく少数の変わらない人たちもいた。その銘々伝を書きわけることができれば、竹内さんにとってのこの十年を、もっと浮かびあがらせることができると思うが、私にはとてもそれだけの力はない。

中国との国交回復後の休刊については、会の若手にかなり強硬な反対論があった。表立って竹内さんとやりあうという段取りにはならなかったので、内攻して酒の場が荒れたことも何度かあった。竹内さんが都立大をやめた時にも、それを翻意させる気になれなかった私は、この場合も、竹内さんの決意をつらぬかせるほかはない、と考えていた。戦争中に中国文学研究会を解散したさいにも、似たような葛藤が、竹内さんをめぐってあったようだ。竹内さんの一生は、そのような噴出と沈潜の反復で成り立っていたのかもしれない。

「私には師もいないし、弟子もいない。私は天地の間にただ一人でいたい」と、竹内さんは日誌抄に書きつけていた。しかし、一つの行為があれば、そこに否応なく他者との関係が生ずる。本人の意志にかかわりなく、人々はつどい、かつ散ずる。竹内さんが、時として、それらの一切をかなぐりすてたい衝動にかられたとしても、それを責めることはできないだろう。
(いいくら しようへい)

初出・底本:『展望』一九七七年5月号
※ なお、2008年7月20日、首都大学東京・大沢キャンパスで開かれた著者の講演会で配布され資料に補足されたところを参照とした上で、2018年11月16日に著者の最終修正と確認を得ました。

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