本文へスキップ

竹内好かく語られ記

竹内好氏から「火を盗め」るか


 

竹内好氏から「火を盗め」るか

鶴見 和子

 二、三日前に、雑誌『中国』の最後の編集長であった山下恒夫さんから、『竹内好回想文集』を贈っていただいた。大版黒表紙で七十ページ余りの、ずっしりした、立派な本である。写真、図版などたくさん入っており、美しい本でもある。五十二名の執筆者の中には、わたしには未知の若い方々が多い。企画の発案から、原稿依頼、編集、レイアウト、印刷等すべての仕事を背負ってこれを成し遂げた大宮信一郎さんは、中国の会の会員であり、会のための印刷者であった。その「編集を終って」によると、大宮さんがまだ定職を持たなかったころ、路上で竹内さんにあい、お金を借りた。その時の会話もじつにいい。時が経って、大宮さんが竹内さんにお礼状を出して返金した。竹内さんから手紙がきた。「私はまったく忘れていました。たぶんさしあげたつもりで、お貸ししたつもりはないのです。さすがどん底の役者だけあります。ちかごろこんなうれしいことはありません。せっかくですから拝領してお礼を申しあげます。」それに加えて、「お子さんに……あなたが私に代って適当な品を見つくろって下さい」と、返したと思ったお金が添えてあった、という。

 竹内老師逝いて一年後(一九七八年)に、若い人たちが自力で自分たちの「竹内体験」を語る文集を出したことは、竹内精神をうけつぐ(そしてある執筆者によれは「のりこえる」)快挙である。わたしは、大宮さんから再度手紙をいただきながら、しめきりに間に合わせることができなかったことを、はずかしく思う。大宮さんは、最後に、「竹内さん、まだ死ぬべきではなかった」という。わたしも同感である。しかし、竹内さんが亡くなってしまわれた以上、わたしたちは、なにができるか、をひとりひとり考えるより仕方がない。

 わたしが、非力なりに受けつぎたいと思うのは、竹内さんの比較近代化論、もしくは社会変動論である。戦争中に書かれた『魯迅』から戦後に書かれた「中国の近代と日本の近代」、「方法としてのアジア」へとつながるテーマである。
「西洋をもう一度東洋によって包み直す、逆に西洋自身をこちらから変革する、この文化的な巻き返し、あるいは価値の上の巻き返しによって普遍性をつくり出す。東洋の力が西洋の生み出した普遍的な価値をより高めるために西洋を変革する。これが東対西の今の問題点になっている。これは政治上の問題であると同時に文化上の問題である。日本もこういう構想をもたなければならない。その巻き返す時に、自分の中に独自なものがなければならない。それは何かというと、おそらくそういうものが実体としてあるとは思わない。しかし方法としては、つまり主体形成の過程としては、ありうるのではないかと思った……」(「方法としてのアジア」)

 ジョゼフ・ニーダムは、近代の科学・文明は、西ヨーロッパという局地から生まれた、限られた「普遍主義」であるのに対して、中国およびその他の非西欧の科学および文明を包摂することによって、より広いいみでの新[#「新」に傍点]普遍主義をめざす必要があると唱えた。(『中国の文明と科学』)ニーダムと竹内さんとは、一九六一年というおなじ年に、イギリスと日本で出版された本の中で、おなじような考えを述べたことになる。しかし、竹内さんは、どうしたら、新しい普遍主義に到達できるか、その方法を示そうとした点では、より実践的である。

『評伝 毛沢東』(一九五一年)を書くことを通して、竹内さんが到達したのは、「根拠地の理論」である。これは、一九六八年、福岡ユネスコ会議講演で発表された。それは、「一九二七年武装蜂起に破れた毛沢東が手勢をひきいて立てこもった」井岡山の根拠地を、竹内流に理論化したものである。竹内さんは、根拠地を、マイナスをプラスに価値転化する場として定義した。「弱い者が弱いままで勝つこと」を可能にする場、ともいう。そして、この「根拠地という軸をもって解釈すれば、近代化理論では解けない中国革命を解くことができる」と考えた。(「中国近代革命の進展と日中関係」)

 中国(アジア)の近代化は、ヨーロッパの侵略に対する抵抗であり、日本の近代化は、抵抗の欠如である、というのが竹内さんの中国と日本の近代化の対比であった。竹内さんは、魯迅と毛沢東をとおして、中国の近代化(=革命)を実体として把握し、「根拠地の理論」によって、それを構造として、方法として分析した。中国と日本の近代化の比較は、実体としての中国と日本の比較から、二つの異なる近代化の構造ないしは方法として抽出された。したがって、中国の内部に、二つの型の対立があるとおなじように、日本の内部にそれらの相克があると見なして一向さしつかえない。

 竹内さんの中国研究は、中国から日本を逆照射し、どうやって日本の中央集権型近代化のこまった帰結――その最大のものは侵略戦争と公害――を直してゆくことができるか、を一貫して考えることであった。今になって、経済成長一本槍の近代化が、日本の国内からも外国からも反省を迫られているが、竹内好は、すでに戦時中からそのことを見透していた。
「根拠地論を一般理論に仕上げるのは可能であり、それを手がかりにして実践的には日本型からの脱却を図ること、いいかえると日本でも根拠地づくりをやることが可能かもしれません。」中国の中に中国型近代と日本型近代の相克があり、日本の中に日本型近代に対して中国型近代の可能性があると考えることによって、この竹内好の遺言は生きてくる。
「彼〔魯迅〕は『自分の肉を焼くために』外国から『火を盗んだ』。私は魯迅から火を盗みたいと思う。」と竹内好はいった。わたしたちは、竹内好の「祭壇の燈明」にするためにではなく「自分の肉を焼くために」、竹内好の火を盗みたい。

初出:朝日新聞 一九七八年三月三日、東京版、夕刊
底本:『コレクション鶴見和子曼荼羅 Ⅶ 華の巻 わが生き相《すがた》』(一九九八年一一月三〇日初版第一刷発行、藤原書店)

【入力者注】
 初出(朝日新聞)には、のちに収録した『コレクション鶴見和子曼荼羅 Ⅶ』と比べ若干の異同がみられる。

一、見出し
 タイトルのほか、編集部が付けたとみられる〈「日本型近代化」脱却のカギ 中国革命に求めた氏の遺言〉の見出しのほか、文中に小見出し(これから「何をすべきか」、中国革命を解くカギを探る、「祭壇の燈明」乗りこえて)が挿入されている。

二、本文
 初出と『鶴見和子曼荼羅』では、本文に以下の異同がみられる。
 本文段落 本文行数 初出 鶴見和子曼荼羅
 1 6 『中国』の印刷者 会のための印刷者
 2 1 一年目のこの月 一年後(一九七八年)
 5 5 定着 定義

三、肩書
 初出には、文章末尾に(上智大学教授・社会学)の肩書が付されている。

この文章の掲載にあたっては、鶴見太郎さんのご了解をいただきました。

Copyright (C) Taro Tsurumi 1978 All Rights Reserved


ナビゲーション