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竹内好かく語られ記

「長泉院の夜」


 

長泉院の夜
   ―中国文学の廃刊に寄せて―

千田 九一 

 一月二十三日、土曜日の夕方から、竹内、武田、小野、実藤、それに僕の五人が、目黒の長泉院に集った。長泉院というお寺は武田の宅である。中目黒一丁目からちょっと入った、小高い、物静かな位置を占めていて、俗域を離れた、ありがたい感じのところであるが、大きな、グロテスクなガスタンクが背中にのしかかっている。睥睨している。僕はこのタンクがいつも気になる。これは目黒の駅からもよく見える。このタンクを目当てに行けば、まちがいなく武田の宅、長泉院の山門へ至るのだ。つまり長泉院はタンクの蔭にかくれているし、逆にタンクをダシに使っている、とも言えるのだ。

 武田はこの静寂な二階で、よく僕たちに御馳走した。たしか暮にも、いやお正月だったか、この二階で、竹内と三人で白鹿の一升罎を空けた。山かけの月見もよかつた。僕は、ただありがたく頂戴した。巷でのめないこの頃は、これに限る。功徳である。この点については、僕は武田の厚意と優待を認めないわけにはいかない。

 神田の北京とか桃楽園とかの支那料理屋で何かの会をやるときにも、武田はいつも犠牲的であった。配給の酒を一升丸罎もって来たり、ビールやサイダーの小罎に分けてもって来たり、いろいろしながら、帰るときにはその空罎を、御苦労にもまた風呂敷に包んで提げて帰るのだ。提げて帰るときはちっとは後悔しているのではないかと同情するほど、僕はありがたく思っている。勘定に出た足も、武田は平気で始末をつけ、何喰わぬ顔をしていた。鉄無地の袖に腕を拱き、いつも無表情にむっつりしている。そんな男である。『中国文学』への影の力は大きかったろう。

 その晩も、うなぎとするめで待っていた。ビールを五本出した。うなぎは寒のうなぎで、脂がなかった。しかし当節、これだけ持って来て呉れれば、大したものである。ビールは寒くてもうまかった。
 実藤は、忙しそうに、奥さんが病気だそうで、ひとりやや遅れてやって来たが、僕はいつも実藤の忙しさには同情する。生活に追われているようだ。

 この五人が集ったということには、別に大した意味はないのであろう。行きがかりだと僕は思っている。この会合によって『中国文学』の存廃を決する、というようなそんな重々しいものではあるまい。僕は簡単に、気楽に考えていた。万事は竹内が決する。竹内の腹一つだ。意のままだ。僕らは、少くとも僕は、それを考えて恃みにしていた。竹内は誰に相談することもないのだ。

 小野は恰度大連から出張で来ていた。その歓迎会も、いつぞや神田の北京でやった。そのときは珍らしくもいろいろな人が来合せて、にぎやかだった。見馴れぬ人もいて話を出さなかったのだと思うが、竹内の腹は、その時から、いやもっともっと以前から、極っているのだ。旧い同人に諮るなどということは、極めて形式的である。形式的であるのに、一応諮るというのが竹内の癖である。
 まだまだ諮るべき人は、いろいろ居る。けれどもみんな、支那へ行っていたり、兵隊に行っていたり、忙しかったり、離れ離れになっていたりするので、この五人が集った。そんな関係であろう。

 自分のことを言って可笑しいが、兵隊に行ってから、帰ってから、僕は殆んど何にもしていない。こんな重大な?会議に出席する資格はないのだ。けれども招ばれた。御馳走に招ばれたと考えたいのである。いつもの誼みで。
 竹内はその後も、増田、松枝、その他の人々の意向を打診したに違いない。竹内の癖で、やっぱりそうしなければならないのだ。しかしその結果も同様、恰好な血路もなかったらしく、終刊の言葉を僕にも書けと言って来た。

 その晩は竹内も元気がなかった。大きな眼玉を眼鏡にかくして、これも、あまり表情を変えない、むっつり屋であるが、その晩は特に元気がなさそうに見えた。萎れていて、匙を投げたという顔付であった。それでも、こんな会を開いて、どうにもして呉れ、と言いたげに見えるのは、やはり何といっても、ともかく今まで続いて来た雑誌への愛着の故であろう。或は、いまこのまま雑誌と共にうち棄てるに忍びない、別な何物かにとり憑かれ悩まされての自然であろう。

 それがよく僕らには解らない。恐らく竹内自身にも解らないのであろう。解らないから諮るのだ。諮るから誰も答えられないのだ。答案をもち合せない男たちに諮る、竹内は意地の悪い男だ。竹内がやらなければ誰もやらないのである。竹内がやれなければ誰もやれないのである。やっても、やれても、それは『中国文学』ではない。はじめからわかっている。

 いろいろの人に聴いてみて、竹内は廃める自信を得たいのである。いや、自信に確かな裏附けを得たいのである。けれども、その確かな裏づけをほかの人々が与えうるかどうかは、大いに怪しいのである。ほかの人々がもし竹内に何かを与えうるとすれば、その自信に反省を求め、漣を起させ、進行をにぶらせる、くらいのものである。それ以上のことは出来ない。その意味においては、竹内という男は比較的影響を受け易く、浮気なのである。いままで、そうだった。

 竹内はなぜ、どんなところから、雑誌を廃める気になったか。これが本当の問題だが、わからない。わかってたまるものか。用紙の減配、原稿難、手不足、多忙、疲労、生活社との関係、出版そのものの苦しさ、時代の制約、中国の貧困、等々いろいろのことが頭をかすめるが、どれも的の正鵠を射るものではあるまい。そんなものはどうにかなる性質のものである。紙が不足なら――不足などと口はばったいことは実際言えた義理ではない――むかしの折りたたみにすればよい。それでいけなくなったら四頁の新聞、更に、一枚のガリ版刷だっていいじゃないか。原稿難というのは、竹内に限ってそんなことはない。手不足、多忙、疲労は有力であるが、何とか解決はつく。生活社とうまく行かなければ、他に代えたらいい。出版の苦しさや時代の要請は当り前である。中国の貧困ということは、いや、そんなことは考えただけでも逆様のようで、可笑しい。

 竹内は、「雑誌というこういう形でやって行くことは、意味がなくなった」という。意味がなくなった。そういえば、そうなのである。意味があるという有力な反証はないのである。竹内に意味がなくなったものに、誰が意味を与え得るか。それを相談する竹内は、本当に未練がましく、気が弱いのである。

 竹内はいろいろなことを言った。けれども、どれも自分の考えをうまく言い表わしていない。僕はそう思う。ひとを迷わし、自分を迷わしている。この終刊号には、きっと巧いことばを書き連ねると思うが、こんどばかりはいままでのように簡単にはいくまい。竹内の後記はいつもうまいし、十二月八日の宣言は一代の名文だし、アメリカ号の巻頭文は三日三晩の難産だと聴いたが、こんどの文章の前には恐らく影のうすいものとなろう。空々しい言葉となろう。

 雑誌を廃める。一口に言えばそうだが、いまの時代にこれは容易ならぬことである。むかしのようにまた形を変えて出直すというのとわけがちがう。そんなことは出来ないのである。いわば切羽つまった捨身である。こんなことは二度と起らない文化のぎりぎりの姿である。竹内は誰よりそれを感じているに違いない。感じたうえでやることである。結局、竹内の生き方ということになろう。個の問題である。言葉は安易だが、そういうより仕方がない。

 竹内をいちばん知っているのは武田であろう。増田、松枝などの先輩がおり、岡崎、飯塚、斎藤などとだんだんいるが、やっぱり武田が近い、と僕はそう思う。竹内と武田はうらはらである。うつくしくて、うらやましいくらいである。だからお互いに美点も欠点もよく知っている。竹内が武田を称揚すれば、武田は竹内を代弁する。竹内が困れば、武田も困る。武田がぐらつけば、竹内もぐらつくのである。「一週間に一二度は必ず会って」京都の世界史派哲学を語り合い、司馬遷の文化的苦節に感動し合うのである。岡本かの子に惚れたり、太宰治の魔筆に興味を感じたりするのである。大概の問題はあらかじめふたりで検討されている。だからみんなの前では、武田はあまり口をきかない。きく必要がない。そういった関係である。うらやましい。こんどのことも、多分そんな具合であろう。竹内の悩みは、武田がいちど蒸し返しているのだ。僕が安心して、御馳走に与る所以である。

 雑誌への愛惜という点から言えば、実藤など一しお深いものがあろう。その晩、心配げに馳せつけたが、竹内の動かぬ表情には、手を拱いて溜息をついた。ほかにいい方法がないのである。顔は見ないが、増田、松枝にしてもそうであろう。その他の、むかしの同人たちもみんなそうであろう。意味はそれぞれちがっても、愛惜の情は同じである。更に何百の会員諸氏に至っては、どんなに憤慨するのがいるかわからない。

 『中国文学』というのは、わからない雑誌であった。これも、わかってたまるものか。わからないところに、意味があったのである。竹内がわからないように、「中国文学」もわからない。中国の文学か文学の中国か、さては中国と文学か文学と中国か、いろいろにひっくり返したり接ぎ合せたりしてみても、やっぱりわからないのである。「中国文学」は、「支那学」や「漢学」のように、固まった概念を与えない。言わば変通無礙であった。「中国文学」の中国は、「燕京文学」「長江文学」の燕京、長江ともちがうのである。まして「現代文学」や「赤門文学」の現代や赤門ではない。文学ともつかぬ科学ともつかぬ、しかも内外それらすべてをはるかに見渡していたのである。近代と中国とをごっちゃにしたこともあった。ジャーナリズムと文学とをとり違えたこともあった。学者と作家と政治家とを同席に饗応したこともあった。研究と翻訳と創作とが入り乱れたこともあった。そうした混乱と衒気と狼狽と摸索とが、この十年間の『中国文学』の姿であった。わからない筈である。そもそもの中国がそんな姿をしているのかも知れない。

 しかし、少くとも竹内は文学的であった。言葉の本来の意味においてそう言いたいのである。竹内は常住「中国文学」を文学していたのである。これは雑誌にも叢書にも馥郁と香っている。已むに已まれぬ切ないものが感じられる。単に擬勢ではあるまい。僕はひそかにそれを信じている。雑誌の廃刊も、いわばその激しい文学的志向の決断であった。やがて新らしい表現をとるにちがいない。第九一号の後記で、竹内はそれを「改革」という言葉で言い表わしている。この「改革」に期待を繋ごう。

 いつか長泉院の夜は更けていた。うなぎもするめも平らげた。遠くの方で電車の軋る音がする。みんな黙々と立ち上った。武田が玄関で見送った。竹内は別れてひとり坂をのぼった。そのうしろ姿が淋しかった。小野、実藤、僕の三人は、人気のない暗い大通りを、目黒の駅までこつこつ歩いた。長泉院と、あの気味の悪いタンクとを後にして。
(二月二十八日)

底本:『中国文学月報』第九二号(終刊号)
   1943(昭和18)年3月1日発行

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