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父の思い出

ねぎごと ―2010年 年神さまに―


 

ねぎごと ―2010年 年神さまに―

2010年
あけましておめでとうございます

2010年 新年のご挨拶
みなさまつつがなく新しい年をおむかえのこととお喜び申しあげます。

「竹内好を記録する会」は、2009年から活動を始めました。今年は二年目をむかえます。

父も百歳の年をむかえました。

1910年から、2010年⇒100年が経ちました。


1910年10月2日
父武一 母きよ路 の長男として、長野県南佐久郡臼田町に父は生まれました。二歳まで過ごした生地臼田町は、当時生産の盛んだった生糸を運ぶ街道の町でした。荷車の行きかう町は、いたるところ繭玉を煮るにおいがたちこめていました。

八ヶ岳から浅間山を望み、町の東側を流れる千曲川の瀬音を聴く、商家の三階建ての家、母の実家のこの家に100年前 父は産声をあげました。

父が生まれたこの年、日本は朝鮮半島を我が国の領土とし、朝鮮民族の主権を奪い、大日本帝国臣民としました。

100年の時間は、『歴史の交差点に立って』(孫歌さんの著書の題名)どのように見えてくるでしょうか。1950年 朝鮮半島は再び戦争になりましたおびただしい人が殺されました。この年、わたしは生まれています。

100年前の人たちを、わたしは知りません。100年先の人たちを、私は知ることができません。2010年に生きるわたしは、そのどちらにもおもいをめぐらすばかりです。

今ある暮らしは、100年前の<あの日><あのとき>からつながっています。このつながりを「記録」することで、100年先の<その日><そのとき>につながっていきたい。100年先に伝えたい。

昭和12年(1937)正月に、野上弥生子さんの書かれた「ねぎごと」は、昭和28年(1953)正月、父の「ねぎごと」になりました。

『八千万の声を天にとどろかすことだ』と、父は年神さまにねがいをこめました。2010年 年神さまに、一億二千万余の声をとどろかせたい。

新型インフルエンザはおそろしい。鳥インフルエンザもおそろしい。大津波 大地震 大火災 大干ばつ 大洪水 大台風みんなみんなおそろしい。けれど、なにより人の起す戦争がおそろしい。人が人を殺すことがおそろしい。

『戦争だけはありませんように』

2010年 年神さまになんとしてもこのねがい きいてもらわなくてはなりません。



竹内好全集第七巻 (筑摩書房)

ねぎごと

竹内好

 正月になると思い出す一つのことがある。昭和十二年の正月のある新聞にのった野上弥生子さんの文章のことだ。「ねぎごと」という題であった。年神さまへの願いごとである。――今年が、どんなに悪い年であってもかまいません。大火事があっても、地震があっても、台風がきても、コレラとペストがいっぺんにはやっても、それはたえ忍びます。ただ、戦争だけはありませんように。

 昭和十二年は、全面的戦争のおこった年である。野上さんには、不吉な予感があったのだろう。私にも野上さんの願いは胸にこたえた。私は、その短い文章を切りぬいて、日記帳にはりつけておいた。戦争がはげしくなるにつれてその文章のことをよく思い出した。召集されて戦地にいたときも、その文章を思い出すといくらか心が落ちついた。

 二、三年前、ある座談会でその話をすると、同感する人があった。その人は私よりも詳しく野上さんの文章をおぼえていた。

 野上さんの文章を思い出さないようになるのが、いちばん望ましいのだが、それができないとあれば、一人でも多くの人が、野上さんとおなじような「ねぎごと」をすることだ。八千万の声を天にとどろかすことだ。今度こそ年神さまにこの願いをきいてもらわなければならない。


ねぎごと
1953年1月3日付け 朝日新聞「一言」欄より転載



< 解題 「一言」七題すべて『朝日新聞』(朝日新聞社刊)の「一言」欄に発表、『方法としてのアジア』にはじめて収める。それぞれの表題と発表日付は以下のとおり。

・資本家と学生  一九五二年十一月五日付
・厳格主義 一九五二年十一月二十六日付
・悪循環  一九五二年十二月十一日付
・ねぎごと 一九五三年 一月三日付
・年賀郵便 一九五三年 一月十六日付
・中国と中共 一九五三年 二月十六日付
・祖国の中の異国 一九五三年 四月二十四日付(飯倉照平)>


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