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父の思い出

東を向いて ―火と道の記憶 その1―


 

東を向いて ―火と道の記憶 その1―

昭和29年(1954年)武蔵野市吉祥寺426に父は家を建てました。ここは、筑摩書房の岡山猛さんが探してくださった土地です。60坪余り、中二階の書斎のある木造の家は、白壁にこげ茶色の柱や戸のある信州松本の民家に似ていました。

ダルマストーブ家の中も漆喰の壁にこげ茶の板の間、冬になると居間に大きなダルマストーブが据え付けられました。ストーブから伸びるエントツは天井をよこぎり、小窓から外に突き出て、冬のあいだモクモクと白い煙を立ち昇らせていました。

ストーブに石炭をくべる父の目の先に、あかあかと炎が燃え、その上ではいつもなにかが湯気をたてていました。それは母の得意料理のテールスープだったり、煮豆だったり、夜の湯たんぽのお湯だったりしました。来客があると父は、このストーブで酒の肴をあぶったりもしました。

昭和30年代、家のまわりには、お風呂を薪で沸かす家や、ごはんを竈で炊く家が何軒もありました。日々、火を使う生活をしていたのです。


現在は町名が東町になっているこの地区は、道路が南北にまっすぐに伸びていて、東西の横道がほとんどありません。ひとつ隣の筋に行くのにも、大きく迂回しなければなりませんでした。この南北のタテ道をヨコにつなぐ道は、南側に女子大通り。北側に杉並区練馬区の境界道路がありました。この二つの道路の距離は、300mくらいあったでしょうか。

丸山眞男さんのおうちは、この南北のタテ道を東へ幾筋か行ったところにあります。さらに東へ幾筋か行き、杉並区になったところに
中野好夫さんのおうちがあります。丸山さんのおうちは、横道があれば5分の距離ですが、わたしたちは北に迂回して、倍の時間をかけておじゃましていました。

父も会合にごいっしょした帰りや、’60年安保のころ、よく丸山さんのおうちにおじゃましていました。おさそいを受けて立ち寄ることもありました。そのままおひるをごちそうになったり、お酒をいただいたり。お玄関を上がる父の姿を想像しています。きっととっておきの時をすごしていたのだと思います。丸山さんやおうちの方がうちにお見えになる時もありました。おそらく同じように北の方から回っていらしてたと思います。

竹の生け垣がある玄関

うちの東側のお隣さんは、前田さんでした。お隣との間は竹の低い垣根で、真ん中に木戸が作られて、仲良く行き来をしていました。前田家の兄弟四人はみんなわたしより年上で、次兄の豊(とよ)さんがわたしの兄と同じ年、ふたりはとても親しくなっていました。父の碁の先生も豊さんはしていました。

前田さんのお玄関は東を向いているので、この道路に出たい時は、ちゃっかりと当たり前のように  前田さんのお庭を通らせてもらっていました。前田さんのお台所はそのころ竈でした。朝夕お台所から細い煙のすじが昇っているのを覚えています。うちの東の窓からそれが見えました。

竈で炊くごはんの味は格別です。このごはんのおすそわけをいただいてから、父は母におかわりを頼むようになりました。うちはガスを引いていたので、ごはんもガス炊きでした。母は困ったと思います。前田さんのお母さんはもの静かなおおらかな方でした。いつもほほえんでいらして、母とは大違いです。困っている母に、快く引き受けてくださったのだと思います。それからおいしい薪のごはんが届くようになりました。お相伴にあずかって、わたしも当たり前のようにこのごはんをいただきました。おこげは家族で取り合いになりました。前田さんのお台所から竈がなくなるまで。無くなる時は竈炊きの大変さも忘れて、うちではみんな残念がりました。父も落胆の色を隠しませんでした。


それは小学生のころの記憶です。ある晩、東の暗闇が突如朱赤に染まりました。前田さんの家の、道路を挟んだ斜め前の家が火につつまれたのです。ごおーっと言う音、メリメリッ、バキバキッ、という音、今もはっきりと目の前に残るこの色と音のおはなしは、このつぎに。

引っ越して間もない頃の家
引っ越して間もない頃の家 南空き地から
(1955年11月12日)


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