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父の思い出

四十年 -記憶をかさねて その3-


 

四十年 -記憶をかさねて その3-

1969年10月。
父は筑摩書房の仕事で、京都に行くことになりました。雑誌『展望』に、鶴見俊輔さんと対談が決まったのです。担当の中島岑夫さんが同行されました。

この京都行きに、父はわたしを誘ってくれました。仕事の旅に誘われるのは、めずらしいことです。わたしは喜んでいっしょに行くことにしました。1969年10月15日から18日の日程でした。

京都の宿は『清水房』といいました。四条河原町のそばにありながら、奥深い町屋の造りは内は静かで、通された和室の前には細い川が流れています。出版社の人の定宿とのことで、中島さんも父も勝手がわかるようでした。一階の広い部屋の黒く磨かれた柱には、深い刀傷の跡があるのを、中島さんが教えてくれました。

京都

くつろぐ間もなく父は外出し、その晩は遅くまで戻ってきませんでした。ポツンと留守をしているわたしを気遣って、中島さんは『鍵膳』にくずきりを食べに連れて行ってくれたり、夜は部屋におすしをとってくれたりしました。『清水房』は、朝食だけのお宿なのです。

シコシコツルリ。のどをすべるくずきりも、おちょぼ口でも食べられる小さなおすしも、初めて食べる京の味でした。


16日 嵐山の料亭で鶴見俊輔さんと対談が行われました。終了後のくつろいだ席にごいっしょして、会席膳をいただきました。秋の嵐山を映したお膳は、目を見張る美しさです。父たちの会話はさらにはずんでいました。

そのお膳の中に、<いがぐり>が入っていました。茶色いトゲトゲは、本物の針にみえます。はたして食べられるのかどうかわかりません。
かぶりついてもし本物だったら、大恥です。たとえ食べられるとして、その食べ方がわかりません。わたしは何度も父を見ましたが、父はちっとも気付いてくれません。思案のあげく、未練をもって残しました。

あとで父に聞いたら、「あれはうまいな」という返事です。あのトゲトゲは、素麺を揚げたものでした。それを先に聞きたかったよ! ザンネン ザンネン! 今でも残念でなりません。


この日はそのまま鶴見さんのお宅に伺っています。ご子息の太郎さんは、まだ幼なくていらっしゃいました。

きっと連絡もしないでの訪問だったと思います。夫人の横山貞子さんは、そんなわたしたちを笑顔で迎えてくださいました。今日一日長い長い時間を、鶴見さんといっしょの父は上機嫌で、いつまでも腰を上げず、太郎さんが眠ってしまっても、まだまだ、、、 おじゃまを続けました。


17日からは仕事を終えた父と、ふたりだけの時間を過ごしました。銀閣寺から哲学の道を歩き、川沿いの季節はずれの桜を愛で、南禅寺の山門に登って、ぐるり景色を眺めながら、父はここでもたくさんの写真を撮ってくれました。

夕暮れて近くの豆腐料理のお店に入り、虫の音を聴きながら精進会席をいただきました。初めて生麩も食べました。おいしいので父の膳を見ていると、黙ってわたしのお皿に父の生麩を置いてくれました。

まずはビール!、を飲まないで、初めから日本酒の父もめずらしく、帰り途に、お三味線の音のする路地を選んで歩く父はゆかいそうでした。夜空にくっきり浮かぶ丸山公園の紅葉を通って、長い散歩をしました。


18日は清水寺の参道を歩きました。坂道の途中で、父はわたしにブローチを買ってくれました。わたしは父に、ひょうたんの形の小皿を買いました。

東海道新幹線わたしにとって東海道新幹線の旅は初めてでした。スピードが早すぎて、そとがよく見えないなあと言ったことを覚えています。運転初日の新幹線に、父は乗っています。自分で切符を購入して、乗る目的だけで往復してきました。父はわたしにも、車両を探検してきなさいと勧めました。


途中のビュフェで、父に水割りを、わたしには好きなものを注文してくるように、とお金を渡してくれました。水割りのおつまみに、チーズを、わたしにはカップのアイスクリームを買いました。父の水割りは、サントリーの’だるま’ わたしのアイスクリームは帝国ホテルではなかったかと思います。

おつまみも買ってきたことで、父は「ウン。ウン。」とうなずいて喜んでくれました。おおきなカップに入った‘割れない黄み色’のアイスクリームと父の水割りで、旅の終わりを乾杯しました。



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